論説・解説・評論

大岡みなみが新聞や雑誌に書いた論説記事を掲載します。


「記事差し止め」発言の波紋

「東電OL殺人事件」控訴審報道

「日の丸・君が代」実施率アップの背景

「テロが起きない世の中を」

「全員一律、従わせる怖さ」

「卒業式の主役はだれ?/生徒は意思を示した」NEW!

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■「記事差し止め」発言の波紋■

権力介入させぬためにも

メディアは自主規制機関を

反応鈍すぎる日本新聞協会


●法務官僚が「検閲」発言

 日本新聞協会に対し、法務省人権擁護局の上席補佐官が「行政命令によって、人権侵害する記事を差し止めることも視野に入れて幅広く検討したい」などと発言した−。そんな経緯が、朝日新聞や毎日新聞で取り上げられて大きな問題となった。

 両紙の報道や関係者の話などによると、人権擁護推進審議会のヒアリングへの出席を求め、法務官僚が日本新聞協会を十月五日に訪れた際の発言だったとされている。同審議会は、人権侵害の被害者救済などについて議論している法相の諮問機関だ。

 この発言が事実ならば、行政があらかじめ記事を差し止めるというのだから大変なことである。事前検閲に当たり明らかな憲法違反となるわけだし、そもそも行政官が事前検閲を容認するような発言をすること事態が異常だ。行政による報道への介入は、民主主義社会では決して許されることではない。

 日本新聞協会では内部組織の「人権・個人情報問題検討会」が、法務官僚の発言を「憲法違反の検閲に当たる」と確認して、法務省の担当官を招いて説明を求めていた。これに対し、法務省人権擁護局の佐久間達哉・調査課長は十一月十六日、不適切な説明内容だったことを認めて謝罪し、先の法務官僚による発言を撤回した。

 法務省側が謝罪したため、日本新聞協会はこの日、審議会のヒアリングに出席することを決めた。

●報道への圧力の背景には

 佐久間課長は、一連の発言が関係者に誤解を与えたことについては申し訳なかったとしながらも、受け取り方にニュアンスの違いがあると言う。

 「(記事の差し止めを)視野に入れて検討したい、と言ったつもりはない。雇用などの差別問題で行政が介入した諸外国の例が頭にあった。法務省や審議会の意向として説明したわけではない。審議会の議論には枠をはめないということであって、個々の可能性を否定しないという意味だった」とし、その上で「憲法違反となるような審議会の結論は考えていない。法曹の立場から言えば、およそ頭に浮かんでこない選択だ」と説明した。

 行政による報道への介入や干渉は、絶対にあってはならない。今さら言うまでもないことだ。しかし、少なくともこうした「誤解を招くような発言」が出てくるのには、それなりの理由がある。この国のマスメディアの在り方が、市民から不信の目で見られ始めているからである。

 残念ながら、報道によって人権が侵害される「報道被害」は広がるばかりか、深刻さを増している。容疑者を一方的に犯人だと決め付けるだけでなく、事件・事故による被害者や遺族の人権、プライバシーも興味本位で侵害してはばからない。そんな報道姿勢に問題があるから、メディア批判の声が出てくるのだ。人権擁護推進審議会が、報道被害の問題を取り上げることにしたのも自然な流れだと言える。

●危機意識がなさすぎる?

 今回の法務官僚発言は「誤解」だったのかもしれない。だが、いずれにせよ現在のような状態をメディア側が放置していれば、法律をつくってでも報道規制しろという声は大きくなることがあっても、小さくなることは決してないだろう。その結果、メディアに対する権力や行政機関からの介入や干渉を招くことになる。報道被害を理由にされて、報道の自由が脅かされることにつながる危険性があるのだ。

 実際、自民党は「報道と人権等のあり方に関する検討会」の報告書で、メディアによる人権侵害について触れて「自主的規制の実効性が上がらないのであれば、法的根拠のある中立公正な第三者機関の設置も検討すべきである」と提言している。このことにメディア側は危機感を持たなければならない。

 日本弁護士連合会は十月、前橋市で開いた人権擁護大会で、新聞・雑誌など活字メディアに対して「報道評議会」などの独立した機関を自主的に設置するように求めた。権力を監視し、市民の知る権利に奉仕するべき報道機関が責務を十分に果たしていない現状や、報道被害の問題を憂え、現状のままでは権力介入の危険性があることを指摘する貴重な提言だった。

 NHKと民放は「放送と人権等権利に関する委員会機構」(BRO)を設立し、不完全ながらも報道被害に対する苦情処理にあたっている。それなのに活字メディアは、せいぜい各社内で紙面審査をするか、相談窓口を設ける程度でお茶を濁しているにすぎない。日本新聞協会の危機意識のなさはどうしたことだろう。反応が鈍すぎるのではないか。

 権力に報道への規制や介入をさせないためにも、日本新聞協会は自主的なチェック機関を早急に立ち上げるべきだ。今ここで自浄作用を発揮しなければ、きっと後悔することになると思う。

初出掲載(「聖教新聞」1999年12月11日付)

■「聖教新聞」編集局学芸部から依頼されて、「報道の自由と権力介入」をテーマに書いた論説記事です。同紙の「メディアのページ」に掲載されました。


■東電OL殺人事件の高裁判決■

裁判官の姿勢こそ問題だ

「推定有罪」なぜ批判しない

ネパール人被告の控訴審報道を検証


 一九九七年に東京都渋谷区で起きた東京電力の女性社員殺害事件で、強盗殺人罪に問われたネパール国籍の男性被告に、東京高裁は逆転有罪判決を言い渡した。この事件は「無罪勾留」など多くの問題を抱えるが、最大の問題は状況証拠だけで被告が有罪とされてしまったことだろう。背景には裁判官の「推定有罪」の姿勢がある。しかし、メディアはそのことをきちんと報道していない。

●結果オーライ?身柄拘束●

 ネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ被告に対し、控訴審の東京高裁(高木俊夫裁判長)は昨年十二月、一審の東京地裁の無罪判決を破棄し、求刑通り無期懲役とする逆転有罪判決を言い渡した。

 実はこの控訴審を担当した裁判官の姿勢にこそ、問題があったのである。一審が無罪と判断したにもかかわらず、同高裁は検察側の求めに応じて、職権で被告の身柄拘束を続けたからだ。

 無罪判決を受けた被告が、判決直後に勾留されるのは異例だ。不法残留していた被告は本来なら、無罪で釈放された後、入国管理局に収容されて強制退去されるはずだった。だが、被告が日本からいなくなれば、有罪の場合に刑の執行ができない。だから検察は勾留にこだわった。被告が日本人なら、まずあり得ない対応だった。

 弁護団は「憲法や刑事訴訟法に違反する。無罪判決を受けている被告の身柄を拘束する必要はどこにもない」と反発した。

 結果は一審無罪で、二審は逆転有罪。「もしも二審も無罪判決だったら、法制度の矛盾や不備が改めて批判されただろうが、逆転有罪だったので勾留を続けて結果オーライ。しかしながら、無罪被告を勾留することや法の不備は課題として残っている」──。判決を伝える新聞各紙は、どこもそんな調子の指摘をするだけだった。

●法の不備だけの問題か?●

 けれども、二審で無罪判決となることは、そもそもあり得なかったのだ。「もしも二審も無罪だったら」などという仮定は、最初から無意味だったのである。

 一審判決の後、検察側の勾留要請を、東京地裁と高裁第五特別部は「無罪判決の場合は身柄を釈放するのが適当」と退けた。ところが、控訴審の審理を担当する高裁第4刑事部(高木俊夫裁判長)は「罪を犯したと疑うに足りる相当な理由がある」として勾留を決めたのだ。

 この時点で、被告有罪の心証は、裁判官の胸の内では既に固まっていたと言える。

 弁護団は「控訴審の審理が始まってもいないのに、記録だけを見て被告を疑わしいと認定する決定だ。これでは一審判決の必要などなくなってしまう。最初から逆転有罪を想定しているとしか思えない」と、再勾留決定を厳しく批判していた。

 つまり、入国管理と刑事手続きの調整だとか、法律の矛盾や不備といったことも問題だが、高裁で裁判が始まる前から早々と、被告が有罪として扱われていたことこそが問題なのだ。「無罪勾留」の背景には、平然と「有罪推定」する裁判官がいる。

 「(結果的には有罪になったが)どうにも後味がよくない」(朝日、読売)などと言うレベルの話では決してない。

●有罪判決への批判が皆無●

 捜査・裁判を通じて、被告は一貫して犯行を否認していた。直接的な物的証拠は何もなく、状況証拠しかない。そうした中で、一審は「(検察側の立証は)有罪を認定するには不十分」として無罪を言い渡した。これに対して二審は「犯行は十分に証明されており、合理的な疑いを生じない」とした。

 ほとんど同じ証拠を前にして、まるで逆の結論が導き出されたのは、裁判官の判断の差による。早い話が裁判官の胸三寸で有罪無罪が決められるのだが、最初から被告を犯人だと決めてかかっている裁判官の手によれば、どんな証拠でも積極的に評価されるだろう。そういう視点の報道は皆無だった。

 検察の主張を鵜呑みにして「推定有罪」の立場に立つような裁判官と判決は、厳しく批判しなければならない。「推定無罪」の原則をくどいほど指摘する責任が、メディアにはあるのだから。

 裁判で検察が示したのは状況証拠だけで、しかもどれも、事件の核心に迫るようなものではなかった。控訴審に新たな証拠が出てきたわけでもない。なのに裁判官の心証だけで判断される。「こんなことを認めたら、裁判は暗黒時代になってしまう」という作家・佐野真一氏の指摘は正しいと思う。

 自白偏重捜査は問題だが、状況証拠を積み重ねることよりも、緻密な捜査による物的証拠の収集こそが求められている。

 刑事裁判では、適正な手続きと科学的な捜査で得られた証拠に基づいて立証されなければ、有罪にはならないはずだ。検察は「疑わしきは被告人の利益に」を覆すだけの合理的な証拠を示さなければならない。

初出掲載(「聖教新聞」2001年1月16日付)

■「聖教新聞」編集局学芸部から依頼されて、「東電OL殺人事件の逆転有罪判決」について書いた論説記事です。同紙の「メディアのページ」に掲載されました。

◆関連記事として「インタビュー&記事/司法改革」のページに、「クローズアップ裁判/東電OL事件・無罪なのに身柄拘束」を掲載しました。


■「日の丸・君が代」実施率アップの背景■

<解説>

異論を許さない動き着々と


●実施率ゼロの沖縄に焦点●

 学校現場で「日の丸・君が代」の実施率が急上昇していった背景には、三つの大きな節目がある。一つは、文部省が高石邦男初等中等教育局長名で、各都道府県と政令指定都市の教育長に出した一九八五年八月二十八日付の通達(いわゆる「徹底通知」)。もう一つは、一九八九年二月に文部省が発表した小・中・高校の新学習指導要領。そして、一九九九年八月九日に参議院本会議で可決・成立した「国旗及び国歌に関する法律」(国旗・国歌法)だ。

 八五年の「徹底通知」は、「入学式及び卒業式において、国旗の掲揚や国歌の斉唱を行わない学校があるので、その適切な取り扱いについて徹底すること」というもので、前年度卒業式での全国の「日の丸・君が代」実施率調査結果が添えられていた。全国的には掲揚率九二・五%、斉唱率も七二・八%(いずれも小学校)という中で、沖縄はほとんど実施ゼロだったことから、この「徹底通知」の狙いは主に沖縄にあったことが分かる。

 しかも翌年には「天皇在位六○年式典」があり、二年後の八七年には沖縄での国民体育大会(海邦国体)開催と、天皇の初の沖縄訪問を控えていた。「日の丸・君が代」の徹底は至上命題だったのだ。教育現場では押し付けに対する反対運動が起こり、卒業生が式をボイコットしたり、式場の「日の丸」を引きずり降ろしたりする学校もあったが、国体開催を経て、沖縄の掲揚・斉唱率は、小・中・高校いずれも一○○%になった。

●都市部では余裕あったが●

 八九年に発表された新学習指導要領は、入学式や卒業式などでは「国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と明記した。それまでの指導要領が「国旗を掲揚し、国歌を斉唱させることが望ましい」としていたのに比べて強制色はさらに強まり、義務化への道が広がった。

 これによって教育委員会の「指導」に拍車がかかる。校長会や教頭会などで完全実施を要請するだけでなく、未実施校の校長を個別に呼んで叱責し、職務命令に従わない教職員を懲戒処分するところも出てきた。それでも都市部では、校長と教職員の話し合いで実施を見合わせる学校がまだ数多く存在した。掲揚や斉唱に疑問を感じる校長は、自分の意思として「やらない」という姿勢が貫けるだけの余裕も残されていたのだ。

 しかし、広島県立世羅高校長の自殺を契機に「国旗・国歌法」が成立してから、そういうことは許されなくなる。「震源地」となった広島では解放教育や人権・平和教育がやり玉に上げられ、教職員組合と県教委との力関係が逆転したことで「日の丸・君が代」が有無を言わさず導入されていった。

●強制の中身エスカレート●

 国旗は「日章旗」、国歌は「君が代」とする、というただそれだけを定めたはずの「国旗・国歌法」が成立してから、「日の丸・君が代」についての異論や例外を全く許さない雰囲気が、際限なく広がっていく。

 実施率の低い地域の教育委員会は、未実施校の校長に「管理職失格だ、できないのなら辞めろ」と迫る。横浜市では、掲揚・斉唱に反対する教職員の言動を事前にチェックする文書が校長に配られた。

 「指導要領で決まっている」「教育委員会に言われている」とロボットのように繰り返すだけの校長や、職務命令をちらつかせて強行する校長が目立つようになった。掲揚・斉唱・起立・伴奏を拒む教職員は処分される。職員会議は校長の補助機関とされ、教職員の間で議論そのものがなくなった。職務命令や処分を恐れて、教職員組合が組織的に抵抗しなくなったことも大きい。

 こうして掲揚・斉唱は全国でほぼ一○○%になったが、学校への「日の丸・君が代」の強制はエスカレートする一方だ。三脚に掲揚してテープ演奏を流すだけではだめ。壇上正面に掲揚し、式次第の中で全員起立して斉唱するのが当然で、それが教育公務員としての職務・義務だとされる。音楽教師のピアノ伴奏や指揮、吹奏楽部の生徒による演奏を求める学校もある。東京都国立市の小学校では、校長が「児童が起立しないと担任の指導責任が問われる」とまで言った。

 九九年八月まで、「日の丸・君が代」は国旗・国歌ではないというのが反対の大きな理由となっていたが、「国旗・国歌法」の成立で反対する側は根拠の一つを失った。「この問題はもうどうにもならない」とあきらめ、やる気をなくした現場教員は多い。

 しかし、強制のエスカレート現象を見れば分かるように、全員を一律に従わせること、同じ方向に向けさせること、考えさせないことにこそ、この問題の本質が現れていると言えるのではないか。「日の丸・君が代」が戦争で利用されたのも、旗や歌に「みんなを一つの方向に束ねて向かわせる」という性質があったからだろう。

 国の「しるし」「標識」に過ぎないものに特別の意味を持たせて神格化し、疑問を差し挟む余地を認めない。みんなと違う異質な存在は徹底的に排除する。実施率一○○%という数字からは、そんな怖さが見えてくる。

初出掲載(「世界」2001年11月号)


■「米国の軍事報復」と「日本の参戦」へのコメント■

<主張>

テロが起きない世の中を


 小泉首相は「憲法前文にある通り、国際社会において名誉ある地位を占めたい」などと語って自衛隊を派遣しようとしているが、これはとんでもない詭弁だ。日本国憲法は、世界の人々の良心に最終的には全幅の信頼を置くことで、武力による紛争解決を否定している。徹底した理想主義を貫くことによって、日本という国は国際社会で名誉と尊敬を得ようじゃないかと宣言しているのに、首相の言うような文脈で「国際社会において名誉ある地位を占めたい」などと語るのは、詐欺的行為だろう。

 そもそもテロ行為を「卑劣で許し難い暴挙である」と非難するのならば、まずは敵対する相手をつくらないことだ。テロが出現しないような政策や外交関係を築くことこそが、この国の平和と安全を守るための最も確実で安価な姿勢ではないかと思う。

初出掲載(「週刊金曜日」2001年11月9日号)

■「米国の軍事報復(アフガニスタン空爆)」と「日本の参戦」に対し、「週刊金曜日」編集部からコメントを依頼されて書いた文章です。


■「君が代議論、埋まらぬ溝」北海道の高校卒業式特集■

<論説>

全員一律、従わせる怖さ


 国旗は日の丸、国歌は君が代。ただそれだけを定めたはずの「国旗・国歌法」が成立してから、日の丸・君が代について異論や例外を許さない雰囲気が、際限なく広がっている。なかでも学校への強制はエスカレートする一方だ。

 掲揚や斉唱をしていない校長に、教育委員会が「できないなら管理職を辞めろ」と迫り、起立や伴奏を拒む教職員は処分される。教職員組合が組織的な抵抗をしなくなって、教職員間の議論そのものがなくなった。

 学校現場での掲揚・斉唱は全国でほぼ一○○%になったが、生徒有志がアンケート調査や議論を積み重ね、校長らと話し合いを続けている学校もある。強制するのはおかしいとの思いからだ。

 そもそも、どうして卒業式に日の丸・君が代が必要なのだろう。僕らは国のために卒業するのだろうか。個人が尊重されて初めて国が成り立つのでは…。生徒たちはそこに疑問を感じている。

 これに対して、校長たちの多くは「指導要領で決まっている」「教育委員会に言われている」と繰り返すだけ。生徒自治に理解を示す校長も、なぜか日の丸・君が代は例外で、自分の頭で考えて発言しようとする子どもたちを押さえ付ける。

 日の丸・君が代の強制は、全員を一律に従わせて思考停止させることにこそ問題の本質があると思う。戦争で利用されたのも、旗や歌に「みんなを一つの方向に束ねて向かわせる」効用があったからだろう。

 「しるし」や「標識」に忠誠を誓わせ、疑問を認めず、異質な存在を排除することほど怖いものはない。民主主義の成熟度が問われる問題だ。

初出掲載(「朝日新聞/北海道版」2002年3月2日付)

■朝日新聞北海道支社報道部が、北海道の公立高校卒業式をめぐって「君が代議論、埋まらぬ溝」と題する特集を組みました。その中に書いた論説記事です。

■この年、北海道立札幌南高校の校長が卒業式で「君が代」を流す方針を示し、反対する生徒たちが札幌弁護士会に人権救済の申し立てをした、という背景があります。これに対して、札幌弁護士会は「生徒の権利を侵害した」として校長に勧告を出しました。


■都立高校と「日の丸・君が代」■

卒業式の主役はだれ?

生徒は意思を示した


 国歌斉唱の際、教職員に起立を求める通達が東京都教育委員会から出されて、都立高校では二回目の卒業式・入学式を迎えた。起立を拒む教職員への厳しい処分や、「日の丸・君が代」反対ビラ配布に対する警察介入など、重苦しい話は尽きることがない。けれども、主役である生徒たちはしっかり意思を示した。

 「教育委員会の方にひとことお願いがあります。これ以上、先生をいじめないで下さい」──。

 都立戸山高校の卒業式で、卒業証書を受け取るために壇上に上がった卒業式委員長の男子生徒が、マイクを手にして発言したこの短い言葉は、都立高校の異様な空気を的確に表現していた。また、もう一人の卒業生も、教員処分をふりかざした都教委の強制のおかしさや思想統制社会の怖さを訴えた。

 だが、この男子生徒の発言の真骨頂は、三年生が組織する「卒業式委員会」で、式の運営や国旗・国歌の扱いをめぐって議論を重ねた末にたどり着いた言葉だという点にこそある。「起立や斉唱を強制するのはおかしい」ということでは一致していても、「日の丸・君が代」に対する卒業生の考えはさまざま。「みんな座ろう」と呼びかけるのは簡単だが、「それでは一つの価値観を押し付けてくる都教委と変わらないではないか」と彼らは考えたのだ。

 国旗中心の掲揚を校旗中心に変えられないか、国歌斉唱の前に学園歌を歌うのはどうかなど、卒業式委員会は工夫を凝らして提案するが校長は却下。「それでも、生徒自身が言うべきことは言うという姿勢は後輩たちに示せた」と委員長の生徒は話す。

 多様な価値観を尊重することの意味について、そこまで考えた上での発言だった。生徒や保護者からは大きな拍手が十数秒にわたって続いた。十八歳の高校三年生たちと都教委の面々と、果たしてどちらが大人で、どちらが物事を深く考えているだろうか。

 これに対し、同校校長は卒業式後の保護者主催の「祝う会」で、「おめでとうございます」の言葉もなく、「きょうの生徒発言はいかがなものか」と挨拶して不快感をあらわにしたという。

 同校に限らず都立高校の校長の多くは、生徒や現場教師ではなく都教委の方しか見ていない。思考停止して都教委に言われるがままのロボットのような状態だ。本来なら都教委の「暴走」から生徒や教職員を守るべき立場なのに、学校の最高責任者としてのプライドは見当たらない。

 都教委は三月三十一日、今春の卒業式で国歌斉唱の際に起立しなかったとして、公立学校四十校の教職員計五十二人(うち都立高校四十四人)を職務命令違反で戒告・減給処分にした。ピアノ伴奏や生徒への「適正な指導」に関しての処分はなかった。

 三回目の処分となった四人は減給十分の一(六カ月)。戒告処分で定年退職する一人は、嘱託教員としての再雇用選考合格も取り消された。

初出掲載(「ジャーナリスト」第565号/2005年4月25日付)


●写真説明(ヨコ):処分対象者が呼び出された都教職員研修センター分館の前には、同僚教員や保護者ら約五十人が集まって処分に抗議した=3月31日午後2時過ぎ、東京・本郷
■日本ジャーナリスト会議(JCJ)が発行する機関紙「ジャーナリスト」編集部から、依頼を受けて書いた解説記事的なルポです。

◆この解説記事のもととなった長編ルポは、「ルポルタージュ」のページに、「それでも生徒は発言する/厳戒態勢の学校現場から」として掲載してあります。


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