取材の背景(講演採録)

 「ルポ●教育の曲がり角/ある少女の転校」についての講演記録です。

 ◆「週刊金曜日」(1996年8月30日号)にルポ「教育の曲がり角/ある少女の転校」を書いたのがきっかけで、記事を見た方から依頼されて「取材の背景」などを話しました。主催者の方が話の内容をまとめてくださったので、一部手直しをした上で公開します。(大岡みなみ)

(1996年12月14日、東京・早稲田の日本キリスト教会館で。教師や父母など対象)


何もしない、言わない教師への不信…

「日本社会の日常風景」を描きました。

 初めまして。記者歴は今年でちょうど丸10年が終わったところになります。話すのはあまり得意ではないのですが…。

 今、整理部という部署にいまして、記事の価値判断をしたり、見出しを付けたり、レイアウトをしたりする部署です。2年前まで県庁(県政)を担当していました。そこで主に教育問題などを取材していましたが、いろいろと訳の分からぬデスクがいまして…、皆さんの学校にいる訳の分からん校長や教頭と似たようなものですけれど。

 ●高校総体でナチ式敬礼

 その時に、神奈川でナチ式敬礼というのがありました。高校総体でそういうものをやるんです。それについて高校の先生や、ドイツの政治を研究している大学教授とか、ドイツのテレビ局の東京支局の人に話を聞いたりしました。そこで「そういう行為はドイツだと法律違反になって、本来ならばナチ式敬礼で行進するなどというのはあり得ないのですが、日本では歴史的な認識が欠如しているのではないか」というような話を取材しまして、それを記事にしました。記事が出た1週間後にその年の高校総体があって、その記事の影響からナチ式敬礼の行進が激減しました。最初は7割くらいやる学校があったのですが、記事が出てから1割くらいに減ってしまったんです。第2報で、そういう結果になったという原稿を出したら、訳の分からんデスクに原稿をボツにされ、「そんな記事を出したら魔女狩りになる」と言われました。

 ほかの新聞は最初の僕の記事が出た翌日に、朝日新聞が社会面で報じたり、共同通信が全国配信したりとフォローして、高校総体の翌日にはいろんな新聞が「これだけ激減しました」ということを取り上げたりしたのに、一番最初に書いた「うちの新聞」だけが結果をきちんと報道しないという形になりました。それで、デスクと揉めたりしまして、整理部に異動になったわけです。そういう頭の悪いデスクとの話はたくさんあるんですが、先月出た「新聞に未来はあるのか?」(現代人文社発行、大学図書発売)という本の中で、ちょっと詳しく書いていますので、もしよろしければ本屋さんで読んでみてください。

 ●休みの日を使って取材

 整理部という部署の通常の仕事は、レイアウトをしたり、見出しを付けたり、記事の価値判断をしたりするわけですから、内勤職場なのですけれども、僕はずっと現場で取材を続けていきたいと思っています。それで、今の勤務は原稿が集まってきてから夜中までが仕事なので、出勤時間の午後3時の前の時間とか、休みの日や休暇を使って取材をしています。

 この「ルポ・教育の曲がり角/ある少女の転校」の記事も、そうやって取材しました。僕は新聞記者ですから、自分のところの新聞にまず原稿を出すというのを、基本スタンスにしています。必ず、まず自分の新聞社に出稿するんですが、これは少し突っ込んだ原稿だったので案の定ボツになりまして、それで、「週刊金曜日」の編集者が「ぜひ掲載したい」と言ってくれましたので、載せていただきました。整理部の記者ですから本当は原稿なんか書かなくてもいいのですが、僕は取材をしたかったので休みの日に取材して、結果としてこういう形で発表されたということです。これが、記事が世間に出るまでの簡単な背景です。

 出稿までの経緯は今言ったような感じなのですが、きょうはこのルポについて話をしろということなので、具体的な女の子の話を中心に、取材の背景みたいなものも若干話させていただきます。

 ●「日の丸」を追い続ける

 一番最初にこの話を書こうと思ったのは、外国人問題も取材していたものですから、朝鮮人学校から創立記念の式典に招待を受けまして、その時にたまたま来ていた日本人の中学校の先生から「女の子が入学式で『日の丸』を降ろしてしまったんだけど」という話を耳にはさんだのがきっかけでした。実はこの10年間、「日の丸」とか「君が代」の問題は、僕自身のライフワークとしてずっと取材を続けてきたテーマなんです。それで、この先生もそのことをたぶんご存じだったんで、話をしてくださったのだと思います。もちろん僕も関心を持ちました。それがきっかけで取材を始めました。

 お読みになれば分かると思いますが、簡単に記事の内容を説明します。神奈川県内のある公立中学校の2年生の女の子が、入学式の時に「日の丸」を降ろした。校長先生と話をする中で校長は「『日の丸』は必要なんだ」と言うのですが、彼女は「『日の丸』というのはいろいろと戦争の問題だとか、南京虐殺だとかの問題もあるし、沖縄の問題もあるし、強制されるのは嫌だということで降ろしたんです」と言う。きちんと自分の考えを持っている子なんですね。それで彼女は「日の丸」を降ろしたわけです。

 結局、最終的には「日の丸」は揚がるのですが、そのことが記事のベースにはなっているのですけれども、僕が書きたかったこと、訴えたかったのは「女の子が『日の丸』を降ろして、結局は揚がりました」というような表面的な話ではなくて、彼女は「日の丸」を降ろした過程において、何もしなかった教師に対する不信感というものをすごく募らせたわけですね。そこのところが僕の一番言いたかったことなんです。

 ●何もしない先生が多数

 ここにいらっしゃる皆さんは、「日の丸」「君が代」問題を教育現場で闘っていらっしゃる方々だから、こんなことを言うのは釈迦に説法かもしれませんけれども、彼女の周りにいるその中学校の先生たちというのは、「『日の丸』反対」だとか口では言うのですけれども、実際には何も行動しない先生たちなんです。だから、「本心を言うとな、自分たちのやらなかったことを内田(仮名)がやってくれて感謝しているんだ」と一人の先生がそんなことを言う。そして、「頑張れよ」と彼女を励ます先生もいる。

 彼女が一番ショックだったのは、「頑張れよ」という励ましの言葉だったんです。自分たちは何もしないで、生徒がやったことに対して「頑張れよ」と言うのはあまりにも無責任なのではないかということ、それで彼女はすごく心が傷ついたわけです。その彼女の教師不信というか、情けない教師の姿を、僕はそこで訴えたかったんです。言うべきことは言わないし、職員会議でも発言しないし、議論もできない。「議論もしない」というか、面倒なことには関わりたくないみたいな先生の姿。こういう先生たちが大多数なんですね。それは、一般的な先生の姿でもあるし、それが今の学校の現状でもある。学校現場だけではなくて、会社の組合もそうです。一般の会社の中でもそうだし、あるいは新聞社の中でも実はそういう状況にあるんですね。だからあえて言えば、情けない先生の姿というのを通して、今の日本社会の日常の中にも情けない姿はあるんだということを、訴えたかった。

 先生とか日教組というと、みんなが「日の丸」「君が代」に反対しているんだと、ごく普通の市民は思っているみたいです。実はそうではない。社会党が社民党に変わったのと同じような形で、日教組も変質しているんですけれども、変質する前だって、実は先生たち、日教組が「日の丸」「君が代」に皆がこぞって反対していたわけではなくて、その前からだって反対していたのはごく一部だったんですね。

 埼玉にいた時に取材した埼教組の書記長が「半径数メートルだけにしか関心のない先生が、実は大多数なんですよ」と言っていました。まさにその通りで、本当に自分の周りだけにしか関心のない先生が実は大多数になっている。「日の丸」を降ろした彼女の場合などでも、そのことがすごくよく現われていると思います。

 ●敏感に感じ取った少女

 彼女はそういう無責任な教師の姿勢というものを、すごく敏感に感じ取ったわけです。そういう先生に不信感を抱いて、「とてもそんな先生に自分は教わるわけにはいかない」と、彼女は自分なりに悩んで転校を決意するわけです。それが、「信頼できる先生がいない」ということになるわけです。「この学校の先生には期待できないよ。信頼できる先生が一人もいない。そんな先生に教えてもらうのは嫌だ」と。これは本当に、彼女の考えた末の結論だったんですね。

 「日の丸」「君が代」だけに限らず、例えば制服の問題でもそうです。彼女は1年生の時に私服で登校したことがあったのですが、「学校のルールとして決まっているのだから制服で来なさい」というような指導の仕方をする。「制服って一体何だろう?」と彼女は彼女なりに考えたのに、そういうことにきちんと向き合うこともしないで一方的に押し付ける。それは、結局、「日の丸」「君が代」を押し付ける校長や教頭、教育委員会、文部行政と何ら変わりがないではないか、と彼女は真剣に考えるわけです。

 彼女は本当に中学2年生とは思えないくらいです。僕などが中学2年生の時、そんなに真剣に考えていなかったと思うんですけれども。この記事を読んだ何人かの読者の方からも「中学2年生にしては、すごく立派に考えているね」という感想を聞いています。本当に、彼女は自分なりの意見をきちんと持っている子なんですよね。じっくり話していて分かりました。そういう生徒にきちんと向き合うことができない教師というのは何なんだろうな、ということだと思うんです。

 ●議論ができない雰囲気

 周りの先生たちは、先ほど言ったように情けない状況なのですが、職員会議でもほとんど発言もしないし、議論になるような話が職員会議で持ち出されると露骨にうんざりする、というのが先生たちの態度なんですね。それが現実の姿なんです。「毎年同じ話の繰り返しではないか」とか「いい加減にしてくれよ」などと言う。しかし、口に出す先生は少数なんですね。口には出さなくても皆そのように思っているのは、表情を見れば分かるわけなんです。それはもう、その学校をはじめとして、ほかの学校の取材をしていても、いっぱいそういう声が上がってくるのです。比較的に物を言う先生の話を聞くと、「発言しようと思っても、同僚たちがそういう表情をするので発言しづらい」とこぼすのです。きちんと発言や議論ができないような空気というか、雰囲気がある。

 それはある意味ではファシズムではないかと思います。民主主義というのは議論の積み重ねであるし、仮に議論して「『日の丸』を揚げる」と決めるのならまだ分かりますが、そういう議論もなしに、なし崩し的に「日の丸」を揚げたり、「君が代」を歌ったりするというのは自ら民主主義をないがしろにし、否定していることです。それで生徒に教えることができるのかなと思うんですね。彼女はそこまでは考えていないかもしれないですが、ある意味ではそれに気付いているかもしれない。それだけ彼女が、中学2年生の女の子が先生よりも「まとも」なわけですよね。

 「頑張れよ」とか「自分たちにできないことをやってくれて感謝している」と言った先生たち、そういう先生たちにも話を聞いたのですが、僕の取材に対して「反省の弁」を述べようとするんですね。「校長が『日の丸』を揚げたのは当然で、校長にとってはそれが仕事なんだから。だけど校長の責任というより、教師である自分たち自身の問題ではないか」というような反省も確かに言うんですよ。「言うべき時に自分たちがきちんと言わなかったから、彼女が転校するような結末になってしまったんだな。一人になっても言わなくてはいけないことは、頑張って言わないとな」と。それだけ取れば、すごくごもっともなことなんです。しかし、その後に何をやったのかといえば、結局、先生たちの間では何も話し合われていない。彼女の問題は、ほったらかしになったままなんです。

 ●子どもに向き合えない

 もっとひどいことには、「内田は感性などの意識がすごく高くて、ほかの生徒とは違う。彼女は特別で、彼女の感性が強かったからそんな行動をとったんだ」と言う先生もいるんです。それは何をか言わんやで、仮に深く考えているのが彼女だけだとしても、そういう少数の生徒がきちんと発言し、行動したんだから、それにきちんと向き合うのが教師の仕事だと思うんです。それに対して、「彼女は特別なんだ」というような言い方をするというのは、教師として情けないというのを通り越して、教師失格だと思いますね。それに、彼女一人だけがそういうふうに発言したとしても、ほかに言いたくても言えない人たちがいるかもしれない。例えばホームルームなどで話し合ったりすればいいものを、「そういう問題はなかった」と口封じ的に隠してしまったり、見て見ぬ振りをしたりする。彼女に対して自分たち教師がとった行動だとか、あるいは自分たちが日常、職員会議や同僚教師たちの間での話し合いがきちんとできていないことだとかの反省を、本心からはしていない証拠だと思います。

 そういう少数派と言いますか、彼女のような声を真剣に取り上げたり耳を傾けたり、一緒に話し合っていくということが、本当の先生の姿だと思うんですけど、それができていない。いじめの問題も同じだと思うんです。「子どもの心をつかむ」とか「子どもと触れ合う」とかいくら口で言ってみたって、たった一人の生徒の声にきちんと向き合って取り上げることができない先生に、子どもの心をつかむなんて、どうやったらできるのかすごく疑問に思います。

 こういう先生たちを彼女は「信頼していない」と言っているわけですけれど、僕も信頼できないと思います。そんなことが、取材を通してすごく感じたことなんです。

 ●学校だけの問題でない

 先ほどから言っているように、これは先生だけの問題ではなくて、実は一般企業の組合とか、新聞社や放送局の中の問題でもあると思います。「面倒なことに関わりたくない」という意識、それは確かに分かることは分かりますが、僕自身もそんなに強い人間ではないから、そういう気持ちは分からないでもないですけれども、だったら、もしもそういう立場でずっと行くのならば、少なくとも「偉そうなことは言うなよ」ということになると思うんです。

 例えば、組合について、評論家の佐高信さんなどは「組合はあるんだけれども無いんだ」と言っている。実際、組合という形は存在しているけれども、本来の組合としては機能していない、だから組合はあるけれども無いんだという言葉になると思います。それは、教職員組合もそうですし、新聞社の組合もそうだし、自動車、例えば日産労組だとか、トヨタ労組だとかも同じだと思うんです。だから、そういう多くの人たちのことを「発言もしないし、意識の低い人たちなんだ」と切り捨てるのではなくて、「連帯」と言いますか、どうやったらそういう人たちも自分たちと一緒に考えていくことができるかということを、もっと考えていかなければいけないと思います。

 ●原点となった連載ルポ

 埼玉県の浦和で記者をやっていた時に、「日の丸がある風景」というルポを新聞に連載しました。全部で7回の連載企画で、新聞記者になって2年目の時に書いた記事です。実はこの連載記事が、僕の新聞記者としての原点としてあります。

 ざっと、記事の中身を説明しますと、1回目が「忠君愛国少女たち」というタイトルで、銀行に勤めている21歳の女の子(A子さん)が登場します。この時は昭和天皇がまだ生きていたのですが、この女の子は「自分の親や彼氏よりも天皇陛下が大切だ」と言っていまして、右翼の勉強会に参加している女の子なんです。「学校の勉強は義務的なものでしたが、今は違います。同じ価値観を持っている人たちと語り合うのは楽しいです」と言っているんです。「何を言っているんだろう?」と思うかもしれませんが、彼女にそう言わせてしまう学校というのが、僕は問題であると思うんです。「学校の勉強は義務的だけれども、今は違う」と。では、学校の勉強とは何なんだろう、ということになると思います。右翼団体の勉強会の方が面白いと言わせてしまう学校とは何なのか、ということを僕は先生たちには考えてもらいたい。

 1回目は彼女の思いをずっと、延々と書いてあるんですね。彼女の「太平洋戦争観」というところでは、「アジア民族を欧米の植民地支配から解放するための戦争。日本はやむを得ず開戦した。今の教育は、日本の悪いところばかり強調する」と語る。そして、「日の丸」「君が代」については、「反対運動があるという話を聞くと、無性に腹が立つ。何でそこまで日本にあるものを悪く考えるのかな」「日本のために戦争に行ってくれるというのであれば、自分の彼氏でも喜んで戦争に行かせます」と言う。彼女は実際に取材に答えてそう発言しているんですよ。藤岡信勝とかいう東大教授がしゃべっているのではなくて、この連載企画は1988年の記事ですが、その当時から「日本の教育は、日本の悪いところばかり強調する」と21歳の女の子が、右翼の勉強会に出て「勉強」して、そう思い込んでしまっているという現実があるんですね。

 ●高校生のまともな反応

 この記事が1回目に出たものですから、「この記者は『日の丸』に賛成の記者なのではないか」と誤解した読者も一部にいたらしいのですが…。1回目の記事をもとにして、埼玉県内の公立高校で先生に授業をしてもらったんですね。それで、高校2年生のクラスで記事を読んだ感想を書いてもらったんですが、40数人のうち、ほとんどの生徒がぎっしりと感想を書いてくれました。そして、大半の生徒たちが、1回目の記事に登場した女の子に対してすごく違和感を持っていて、反発する感想をぎっしりと書いてきてくれたんです。生徒たちは先入観などなしに記事を読んでから、「それで、君たちはどう思うんだ?」という先生の問いかけにこたえる形で感想を書いたのですが、高校生たちはすごくまともな反応をしてくれた。学校で教えなくても、これだけきちんと高校生が反応してくれたのです。連載の2回目と3回目で、こうした生徒たちの声をまとめて掲載しました。そんな感想をいくつか紹介します。

 「若者の間で占いや宗教が静かなブームを呼んでいる。教祖様を崇めて、自分の身を捧げてもよいと思うらしい」と、まるでオウムを予見しているような意見です。「記事に登場するA子さんも、天皇という名の教祖を崇めているだけで、宗教を信じる若者と同じではないか」とすごく明快な感想です。「『今の教育は日本の悪いところばかり強調する』とA子さんは言うけれども、言わせてもらえば、この人たちは『日本の良いところばかり強調する』ということになると思う。悪いところが強調されれば、直せばいいのに。今からでも遅くはないのではないか」という感想があります。あるいは、「A子さんのような人がたくさんいると、戦争すると言われたらすぐ行ってしまいそうで怖い」とか、「アジア民族を欧米の植民地支配から解放するため、というのは変だ。日本は韓国を支配していたのではないか」と論理的なものもある。「アジア諸国を支配するのは欧米ではダメだが、同じアジアの日本が支配するのなら良いというみたいではないか」とか、「植民地支配からアジアを解放するため、とA子さんは言っているけれども、それにしては日本は中国にずいぶんひどいことをしてきたと思います」とか、「俺は沖縄の人々の気持ちがよく分かる」とか、すごく論理的に、半径数メートルのことしか関心のない現場の教師よりも、むしろよほど、高校2年生の男の子や女の子たちの方がよく考えている。

 この学校は、決して進学校ではないんですね。偏差値で言えば、中の下くらいの学校です。そんな普通の高校生たちがきちんと反応してくれたというところに、僕はすごく救いがあったなと思ったのです。

 ●子どもたちが毎朝掲揚

 連載の4回目は、実際の学校現場では「日の丸」「君が代」がどういう状況にあるのか、ということをルポしました。大宮市の市立小学校で児童に毎朝、「日の丸」を掲揚させている学校があるんです。「日の丸」を揚げさせるのを決めた時に、職員会議で話し合いがあったというのですが、校長から「子どもに揚げさせたい」と言われて、3〜4人の先生から「児童自身に揚げさせるのはどうか」みたいな言葉がチョロチョロと出たんですけれど、校長の「ぜひやらせていただきたい。児童会の方でよろしくお願いします」という言葉で会議は終わってしまって、もう次の週から児童が「日の丸」を揚げることになった。先生に取材したら「校長先生のお考えなので、職員は従うしかないんです」くらいしか言わない。

 もう一つの小学校も取材したんですけれど、校長が「『日の丸』掲揚は日本人として当たり前だ。子どもは先入観もなく、無色で何も知りませんから、毎日の掲揚で国旗に対する理解は深まるものと思います。習慣化にもなりますね」と、ものすごく正直に、率直に発言してくれました。その一方では、「現時点では国の旗は『日の丸』なので、自然のままに揚げているだけです。『日の丸』を揚げるのは強制はしていません」と言う。もうこの言葉だけで、この校長が言っていることは論理的に破綻している、矛盾しているということが分かるんですけれども。僕はこの記事の中には一切、自分の意見は入れていませんから、取材した言葉や事実を並べるだけなのですが、校長の発言が矛盾していることは読者は十分に分かるわけです。ある先生は「それまで学校のやっていることに何の疑いも抱かなかった」と言います。その後、初めて「日の丸」について話し合いが持たれるのですが、状況は何も変わりません。

 「日の丸」を毎日揚げているのは大宮市内で3校あるんですが、そのうち2校が児童自身に掲揚させているんです。大宮は大きな市ですから、小学校もたくさんあるんですけれど、その3校がどういう学校かというと、組合員の数が極端に少ない学校なんです。逆に言えば、組合に入っていない先生を集めている学校なのです。

 ●こいのぼり揚げる校長

 連載の5回目は、「こいのぼり」を揚げている校長先生の話を取り上げました。4回目の「無関心な先生と無色な子どもたちを染め上げる」という校長先生に対比させる形で持ってきたのですけれど、埼玉県三郷市のこの小学校では、校長先生が「日の丸」の代わりに「こいのぼり」を揚げているんです。入学式だとか卒業式でももちろん、「日の丸」の代わりに「こいのぼり」を揚げているんですが、それだけではなくて運動会などのいろんな行事でも必ず「こいのぼり」を揚げているんですね。

 何でこの校長先生が「こいのぼり」を揚げるのかといえば、校長先生は「着任する前からの自分の夢だった。校長になったら校庭の真ん中にポールを立てて、『こいのぼり』を毎日揚げるのが自分の夢だった」と言うんです。さっきの大宮の校長先生とえらい対照的なのですけど、「『こいのぼり』は子どもたちの象徴だから、子どもたちが元気に育つように『こいのぼり』が子どもたちを祝ってくれれば良いのだがな」と、そんな思いで揚げてきた。「日の丸」「君が代」反対とか、そういうことは全然言わないわけですね。もしかしたら思っているけれど、立場上言わないのかもしれません。

 この校長先生はそういう信念で、僕はこれこそ子どもたちと向き合っている本当の先生の姿だと思って、4回目と対比させる形でこの話を持ってきたんです。PTAは「この学校の子どもだけが『君が代』も習っていないし、歌えなくて卒業生が恥ずかしい思いをする」などと馬鹿げたことを言う役員がいたり、「よその学校では校長先生一人の判断で『日の丸』を揚げています」とか言ってみたりする。逆に言えば、この校長先生は自分一人の校長判断で揚げていないわけです。さらに、5月5日のこどもの日だけではなくて、寒い日でも「こいのぼり」を揚げますから、すると「『こいのぼり』が寒いと言っているじゃないか」などと訳の分からない反論をしてきたりとか、PTAはいろんなことを言ってくるわけです。そういうやり取りに嫌気がさしたのかどうか分かりませんが、校長先生は自分で転属願いを出して転校するんですけれども。次の新しい校長が来たら、「『こいのぼり』はおかしいから揚げません」と言う。それで「日の丸」を揚げたいと言うのですけれど、現場の先生たちの中で合意が得られなかったのか、結局その年には「日の丸」も「こいのぼり」も全然揚がりませんでした、ということになります。校長の一存で、どれだけ現場が変われるかという実例だと思います。

 ●「民主主義」を考えたい

 そういう話があって、ほかに、旗屋さんが「日の丸」「君が代」についてどう思っているのかとか、「日の丸」を学校に配達に行く時に「こっそり持って来てください」と校長に頼まれて、スパイ映画みたいにこっそり持って行く話とか、そういうのを取り上げました。そして最後の場面で、先ほど言った埼教組の書記長の話が出てきて、「『半径数メートルのことしか考えていない先生』というのが実は、特に若い先生に多い。だけど、気が付いたらとんでもない教育体制になっていたその時に、知らなかったでは済まない。だから今、気が付いてほしいんだ」というような話をしてくれるんです。「実際には、現場の先生は『よく分からない』とか『関心がない』とかいう層が一番多い」という話で連載記事は終わるのです。

 この連載を始めた時に僕は、「『日の丸』を通して愛国心とか民主主義というものを考えてみたい」と思ったんです。「日の丸」が好きな人はそれでいいんです。個人の思いですから。僕は、過去の戦争だとかの歴史的背景があるから、個人的には嫌だなと思いますけれども。仮にそうした背景が理解できなくて、どうしても「日の丸」が好きだという人がいれば、それはそれで構わないのだけど、少なくとも、嫌だと言っている人たちに押し付けたり強要したりするのはおかしい、民主主義に反するのではないか、ということが訴えられればいいと思っています。そんな気持ちが伝わればと思ってこの連載を書きました。

 新人記者時代に書いたこの連載記事が僕の中に原点としてあって、それが「週刊金曜日」のルポ「教育の曲がり角/ある少女の転校」につながっていくのです。

(了)


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