新聞記者って… 「大岡みなみの風速計」以外の「新聞記者」に関する論考を集めました。
●「無感動な新聞記者」●検証・オウム報道●●記者を目指す人たちへ● ●「南京1937」上映問題の報道検証● ●高校新聞は言論報道機関だ● ●高校新聞「発禁」問題を考える● ← NEW! (2014/04/26)
「無感動な新聞記者」「最近の若い人たちには、感動する心が失われている気がするね」。取材先で、そんな話になった。「大学に講演に行っても学生の無感動ぶりが目に余る」とその人は嘆いた。「子どもの時から喜怒哀楽の感情が乏しい毎日を過ごしてきたからだろう」。分析はさらに続いた。「今の子どもたちも同じで、だから創造力・想像力に欠けるし、陰湿ないじめなどが横行するのではないか」−。
話を聞きながら、無感動なのは子どもだけでなく、大人も同じだと思った。それに悲しいことだけど、「無感動な新聞記者」も実はいっぱいいるんですよ、と思わず心の中でつぶやいてしまった。世の中の出来事に敏感に反応して、読者を感動させる記事を送り出すことを仕事として選んだはずの新聞記者が、「感動」とはほど遠いところで仕事をしている姿をこの一年間、嫌というほど見せられてきたからだ。
読者の心を揺り動かすには、まず何よりも記者自身が感動しなければ話にならない。取材対象とともに怒って、泣いて、おもしろがることが記者の基本だと私は考える。その中から「何が問題か。何を伝え、訴えるべきか」が見えてくるのだ。冷静な分析・補強取材は、それからでも十分に間に合う。
ところが、そういう取材をしたことがないのではないか、としか思えないような記者を残念ながら何人も知ってしまった。役所の発表に頼り、弱い立場の市民の声や訴えよりも、行政の言い分・立場を尊重する記者を目の当たりにしてしまった。「差別と偏見を受け、さらに生きる権利まで脅かされている人の叫びを耳にしながら、あなたは記者として何も感じないのですか」。思わずそう聞きたくなるような反応の鈍い記者は一人や二人ではない。その結果、紙面に並んでいるのは無表情で薄っぺらな記事ばかり。人間の生の声やドラマを通して、心に訴えかけてくるものが皆無なのは言うまでもない。
そんな記者が、紙面に責任を持つポストに座ることで悲喜劇が始まる。読者の心を揺さぶるような記事が出されても、その価値を正しく判断できないからだ。「淡々と書け」「冷静に」「思い込みが強いと説得力に欠ける」などと一見もっともらしいことを言って、表情豊かだった原稿がどんどん無味乾燥にされていく。役所サイドから出た情報は優遇されるが、一般市民の側から掘り起こした情報や問題提起型の原稿は、「どこがニュースなんだ」「裏付けがない」と邪険な扱いを受ける。彼らはたぶん、伝えるべきことは何かが、まるで分かっていないのだ。
これでいいはずがない。このままでは新聞がますます読まれなくなってしまう。新聞をおもしろくするためには、大胆なレイアウトやビジュアル化だとかが問題なのではなくて、読者の心に切り込むといった意味での「おもしろい記事」を増やすことこそが重要なのだ。そのためには、問題意識を持った志のある、感情溢れる記者仲間を一人でも多く増やすしかないと思う。
ある新聞社のマスコミセミナーを受講した女子大生が話していた。「一線とベテラン記者の座談会のコーナーで、記者としての気概や心に残った仕事などが話題になったんですが、心に響くものがほとんどありませんでした」。そのセミナーに出席した記者たちはきっと、無表情な記事しか書いたことがないのだろう。新聞社と新聞記者の底の浅さにがっかりした彼女は、マスコミ就職を断念しようかと迷っている、と言った。
でも、彼女が「伝える」ことを職業にしたいと真剣に考えているのなら、あきらめるのはまだ早い。新聞社にも頑張っている記者はいる。それに、新聞だけがメディアではない。伝えるための舞台はほかにもある。今、たまたま私は新聞社の一記者だが、社の違い、メディアの違いなどは実はあまり意味がないことだと思っている。大事なのは「何を伝えるか」だ。
初出掲載(横浜社会臨床研究会「研究紀要」1995年)
検証・オウム報道報道の「暴走」に強い違和感 5月16日午前6時。「麻原教祖逮捕」の号外を作るため4階の編集局に上がると、本社に泊まり込んでいるデスクや記者が眠そうな目をしてテレビを見詰めていた。麻原教祖はまだ逮捕されていない。「お祭りみたいなものだから」。同僚にそう励まされたが、深夜勤務の後なので頭が重い。
今年の号外発行はこれで7回目。そのうち4回が「オウム関係」だから、確かに「お祭り騒ぎ」の締めなのかもしれない。
午前11時過ぎ。「麻原教祖を逮捕」の大見出しが踊る号外は、いつもの倍以上の2万部を印刷したにもかかわらず、横浜駅などで瞬く間に配り終えられた。
◆◆◆
地下鉄サリン事件以降、神奈川新聞は社会面に、「本社オウム真理教取材班」のクレジットを付けて、次のような記事を大々的に繰り返し掲載した。
「すべて異常だった/土に埋められ修行/脱走の元信者が証言」(3月24日付)▼「想像絶する“荒行”/一日一食/光も遮断」(同)▼「狂気の集中修行/六つの極限段階設定/目が覚めたら紙おむつ/24時間大音量の説法も」(同31日付)
本人の意思に反して強制したのなら問題だが、望んでやっていることならば、ヘッドギアを着け、麻原教祖の入ったふろの残り湯を飲んだとしても(私は遠慮するが)、選択した信者の自由だろう。仮に、一般社会から見れば馬鹿馬鹿しいと思われるような行為であっても、法律に違反していない限り、とやかく言われる筋合いはないはずだ。自分たちの尺度や価値観と異なるからといって、存在まで否定する権利はない。犯罪行為と宗教行為とは分けて考えるべきだと思う。
「こんな記事を載せていいのかな」「信仰で救われている人もいるはずだ」「犯罪報道と宗教批判とを混同している」。編集局の若手記者の間からそんな疑問の声が出た。
一方、神奈川新聞は、共同通信の記事「オウム捜査に疑問符/駐車違反や車検切れも逮捕/相次ぐ『微罪』摘発/“超法規措置”認める声も」(4月17日付)を社会面に掲載した。これまでのオウム報道の流れの中では、貴重な存在の記事だった。
徹底した犯罪捜査は望む。しかし、だからこそ捜査手続きは徹底して守る必要があると思う。オウムだから、過激派だから、在日外国人だから−などといった理由で、特別な捜査や逮捕が許されていいわけがない。民主的な法治国家では、すべての人が平等に適正捜査を受ける権利があるはずだ。
◆◆◆
麻原教祖逮捕の翌日の神奈川新聞の第2社会面には、坂本弁護士一家の失跡事件の解決に期待を寄せる母さちよさん、神奈川県警を紹介する記事が掲載された。坂本事件は横浜が舞台。「麻原教祖逮捕で事件解決へ向かうか」といったトーンの記事だった。
出稿部(報道部)は最初、この記事を1面に大きく載せるよう主張したが、整理部から待ったが掛かった。麻原教祖の逮捕はあくまでも地下鉄サリン事件の殺人容疑で、弁護士一家失跡に関係した容疑ではない。
「暴走」は続く。政治面の一コマ漫画「神奈川now」(5月21日付)は、人権感覚が完全に麻痺した代物だった。鉄格子を背景に、ちんちくりんの上着姿で、裸の腹を突き出してあぐらを組む麻原教祖。教祖のシャツを持った看守に、搜査員が「いいか、シラミつぶしに捜査するんだぞ!」と一言。
「ひどすぎる。こんな漫画は使えない」と整理部が報道部に突き返すと、「心配な坂本弁護士一家の消息」の説明文が付け加えられて再出稿されてきた。
さらに、同日付1面のコラム「照明灯」の文章が噴飯物だった。
「麻原容疑者が弁護士に言ったセリフが驚く。『お釈迦さまのお告げで、この事件を頼むべしと言われた』。とおの昔に、お釈迦さまから“破門”されているとは思わないのだろうか」「断られ、『私はどうなるのでしょう』と言ったそうだ。多くの犠牲者に思いが至っていない。歯車が狂っている」…「オウム教団はいま国民の憎しみの中にある。だからといって『オウムに人権なし』であってはならない」
容疑者にも人権はある。弁護士を頼む権利もある。それは、民主主義の基本原則のはずだ。「オウムには、容疑者には、悪者には人権など必要ない」と言わんばかりの世論に流され、マスコミが冷静さを失ってしまうことを最も恐れる。
◆◆◆
新聞をはじめとしてメディアの「オウム報道」には、疑問と違和感を感じてきた。
人命を奪い、他人の基本的人権を侵す犯罪行為は、もちろん許せない。徹底的に捜査、報道するべきだと思う。しかし、事件の本質とはまるで関係ない話を書き散らし、捜査機関に対するチェック機能を放棄したかのような報道姿勢には、強く異議を唱えたい。
「オウムなら何を書いてもいい、どんな捜査方法を取ってもいい」「オウムの弁護などするな」という世論が広がっている。「警察の権限強化」を求める声まで出始めている。民主主義の基本原則がグラつきつつある今こそ、そうした風潮に疑問を投げ掛ける役割をマスコミは果たしたいと思う。
初出掲載(単行本「検証!オウム報道」現代人文社、1995年)
書きたいことは何? 訴えたいことは何? 無感動な記者の姿に驚いています ■元朝日新聞編集委員の村上義雄さんから「マスコミ界で働きたいと希望する人に向けて『歩み始めるための素材』を送り出したいので協力して欲しい」と声をかけていただいて、それに応じて書いたのがこの原稿です。問題意識を持った意欲的で情熱的な人たちにこそ、新聞記者という職業を選択してもらいたい、との思いで書きました。ベネッセコーポレーション(旧福武書店)のマスコミ講座のテキスト「マスコミ原論」に掲載されています。
「他人の生活に、土足で踏み込んでくる嫌な奴らだなあ」。それが学生時代の僕の新聞記者に対する印象でした。テレビや映画に登場する記者といったら、大勢でカメラを構えて、愚にもつかないありきたりの質問を浴びせかけ、偉そうにふんぞり返って…。まあ、はっきり言って軽蔑に値する職業の一つだったのです。
そのイメージが変わったのは、朝日新聞記者・本多勝一さんのルポを読んでからです。差別され、殺される側の立場に立って、問題の本質や背景に鋭く迫っていく姿勢に、「記者ってこんな仕事ができるのか」と感動で体が震えたのを今もはっきり覚えています。
でも残念ながら、そんな姿勢の記者ばかりでない現実を、自分が新聞記者になってから何回も目のあたりにしました。本多さんのような記者はむしろ少数派だったのです。
役所や企業の情報や言い分にしか目が向かず、弱い立場の市民の声に耳を傾けようとしない記者がなんと多いことか。役所から発表されるニュースを垂れ流すだけに終始し、それが記者の仕事だと勘違いしている記者が何人も、大手を振って歩いているのに遭遇しました。役人や警察官に「協力的な記事を書く信頼できる記者さんだ」などと褒められて喜んでいるなどと聞くに至っては、あきれてしまって空いた口がふさがりません。
そして何よりも「無感動」な記者が多いことに驚かされました。
取材相手の話を聞きながら、一緒に笑ったり、怒ったり、泣いたりしてこそ、「何が問題なのか」「何を伝えるべきか」が見えてくると僕は思います。自分が心を揺り動かされなければ、読者の心を揺さぶる原稿なんて書けるはずがないと思いませんか。冷静な分析や補足取材などは、それからでも十分に間に合うはずです。
ところが、「差別され、生活を脅かされている人たちの姿を目にしながら、何も感じないのですか」と思わず聞きたくなるような反応の鈍い記者が、残念なことにこれまた大勢いるのです。「なぜ怒らないのだろう。なぜこの事実を伝えようとしないのだろう」と理解に苦しむことが多いのですが、そもそもそんな取材をしたことがないし、取材しようとも思わないから、感情が刺激されることもなくて「想像力」も働かないのでしょう。
そうした感動のない記者が書いてくる原稿は、無味乾燥で面白くない上に、「何が言いたいのか」「だれに何を訴えたいのか」がまるで分かりません。たぶん本人も「何が伝えるべきニュースなのか」が分かっていないのです。
そうして、そんな記者が紙面に責任を持つポストに座ると、とても困った事態が生じます。読者の心を揺さぶるような原稿や伝えるべきニュースの価値を、正しく判断できないからです。
「淡々と書け」「冷静に」「思い込みが強いと説得力に欠ける」などと一見もっともらしいことを言って、表情豊かだった原稿をどんどん無表情で薄っぺらなものにしてしまいます。人間の生の声やドラマ、記者の感情が込められていた原稿は、たちまち無味乾燥なものにされてしまうのです。
あるいは、役所サイドから出された情報は優遇されるのに、一般市民の側から掘り起こした情報や問題提起するような原稿は「裏付けがない」「片寄っている」「どこがニュースなんだ」とあしらわれます。「伝えるべきものは何か」の判断ができないのです。
こういうことを続けていると、「当たり障りのない原稿」や「波風が立たないような原稿」ばかりが出稿されるようになってしまうのですが、そんな記事でいっぱいの新聞が面白いわけがありません。意欲のあった記者までやる気をなくしてしまいます。ますます新聞は読まれなくなります。
新聞記者の醍醐味は、ほかの人が知らないニュースを掘り起こすこと、取材を通じてさまざまなドラマに立ち会えること、その時に揺り動かされた自分の心を読者に伝えることだと思います。「この話を伝えたいなあ」と思える取材をすることが記者の原点です。そして自分の書いた記事が読者の心を揺さぶったり、反響があったり、社会がほんの少しでも変わったりするのが記者にとって最大の喜びなのです。そのために僕たちは取材を続けているはずです。
問題なのは、そんな当たり前のことを当たり前のこととして分かっていない記者が一人や二人だけではないという点にあります。こうした状況を変えるためには、問題意識と志と豊かな感性を持った記者仲間を、一人でも多く増やしていくしかないでしょう。
会社の違いというのは、実はあまり意味がありません。大事なのは記者の姿勢や視点です。「だれのために、何をどう伝えるか」が重要なのです。
初出掲載(単行本「マスコミ原論」ベネッセコーポレーション、1998年8月)
■この原稿は、「無感動な新聞記者」「大岡みなみのコラム風速計」と内容の一部がダブっています。しかし、1)「無感動な…」は横浜市立大の学内限定の「研究紀要」に掲載された、2)この原稿の読者対象はマスコミを目指す学生全般である、3)新聞記者の現状を説明し問題提起するためには欠かせない題材である、などの点を総合的に判断した結果、あえて内容の一部が重複したまま出稿しました。
●「南京1937」上映問題の報道検証●行政の「対応」こそが問題 ■南京大虐殺を扱った映画「南京1937」(中国・香港合作、1995年製作)の市民上映会が、右翼団体による抗議・妨害行動への懸念を理由に、川崎市から会場変更を求められたり、神奈川県からは施設の使用を断られたりする事件が相次ぎました(1998年10月と11月)。どちらも上映会場は市や県の施設でした。この原稿は、一連の関係報道を受けて、日本ジャーナリスト会議(JCJ)から「事件と報道の在り方」について感想を求められて書いたものです。
「南京1937」上映問題で一番問題なのは、神奈川県が上映会場の使用を不許可にしたり、川崎市が市民団体に使用申請の取り下げを要請したりと、まるで見当違いの対応を取っていることだ。
「上映に対する右翼団体の抗議行動で、施設利用者や市民生活に影響がある」というのを、行政が会場使用を断わる理由として挙げている。しかし、それはおかしい。力で映画上映を妨害しようとしている右翼団体は、明らかに他人の言論の自由を侵害している。「他人の言論の自由を侵害するための言論の自由」というのは、論理的に破綻している行為だと考えざるを得ない。そういう行為を平然と行っている右翼団体にこそ、毅然とした態度で臨み、しかるべき措置を取るのが、行政としての本来のあるべき姿勢ではないのか。
右翼団体の行為は「威力業務妨害」に該当するだろうし、道路交通法や騒音防止などの条例に触れる行為でもある。現行法の範囲でできる限りのことをするのが、日本国憲法を尊重し、市民生活を守る行政の責任だろう。法律のぎりぎりのところで妨害行動を行っているとしても、必ずどこかで一線を越えているはずで、そこを取り締まらないのだとすれば、行政、警察は怠慢だと指摘されても仕方ないだろう。
以上のような視点・考え方・問題意識に基づいて、僕ならば取材を進める。
つまり、最大のポイントは右翼団体でもなく、上映実行委でもなく、行政の姿勢なのだ。「抗議行動で面倒が起きるから、面倒が起きないように会場は使わせません」という、「臭いものにはふた」をして「解決」しようとする姿勢こそが、問われなければならない。
これは今の日本社会の問題でもある。だから、行政や警察の考え方や対応、問題点を、僕だったら徹底的に取材する。
ある新聞の記事に、「市は『言論・表現の自由』か『市民生活の安全』か、苦悩の判断を迫られている」という文章があったが、冗談を言ってはいけない。「言論・表現の自由」も「市民生活の安全」も、どちらも守られなければならないのである。何を書いているのだろうか、この記者は。もしも行政の責任者がそんなことを言っているのなら、そういう発言こそ大きく取り上げて問題にするべきなのだ。あまりにも問題意識がなさすぎるのでないか。
もちろん、その次に取材しなければならないのは、右翼団体の主張だ。上映妨害するに至った考え方はともかく、なぜ実力行使してまで上映を妨害しようとするのか、自分がもしも同じような妨害行動を取られたら、どう思うか、その時に自分はどう対応するか、ということをぜひとも聞いてみたい。そして、それをそのままきちんと記事にして、読者に判断してもらう。
「南京1937」という作品そのものについて、右翼団体がどんな考え方を持っていたとしても、それは右翼団体の自由だ。僕はそれを尊重する。問題なのは、他人の言論の自由を侵害することなのだから、どうしてそういう行動を取るのか、行動の背景や考え方はきちんと伝えて、読者に考えてもらわなければならない。新聞の役割とはそういうものだと思う。
初出掲載(日本ジャーナリスト会議「神奈川支部通信」VOL.15/1999年2月5日号)
「新聞ごっこ」か「ジャーナリズム」か
問われているのは「何を伝えるか」だ ■この原稿は長いので<別ページ>に全文掲載しました。
学校方針に反する記事に校長介入
高校新聞「発禁」問題を考える ■この原稿は<別ページ>に全文掲載しました。
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