エッセイ

大岡みなみ(=池添徳明)が新聞や雑誌に書いた「エッセイ」をまとめました。

取材の裏話的なエピソードも…。

【最終更新日/2011年8月8日】


「こいのぼり」を揚げ続けた校長先生

僕が料理を始めた理由

韓国旅行記/ソウルに「昔の日本」があった

傍聴席から/小さな裁判と取材

司法を教える意味/民主主義の実践のために

高校新聞はジャーナリズムだ、新聞部員はジャーナリストだ

原子力の「平和」利用?/誰のための原発なのかNEW!

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●「こいのぼり」を揚げ続けた校長先生●

 「『日の丸』の代わりに、こいのぼりをポールに揚げている校長がいる」。そんな話を聞いて、取材に行ったことがある。7年前の卒業式の季節だった。

 埼玉県三郷市立高州(たかす)小学校のN校長。赴任した年の「こどもの日」に揚げたのが最初で、それから4年間、入学式や卒業式などの学校行事には必ず、6匹のこいのぼりがポールに翻った。6匹は1年生から6年生、吹き流しは先生だ。

 「着任前からの夢だったんですよ。校長になったら、校庭のポールにこいのぼりを毎日揚げるのがね」。N先生は目を細めながら、そう話してくれた。「こいのぼりは子どもたちの象徴。子どもたちが元気に育つように、こいのぼりが祝ってくれている。そんな思いで揚げてきました」。式場には「日の丸」を掲げるが、「君が代」は斉唱しない。

 「『日の丸』は一応、日本の目印となっているので、式場には日本、三郷市、学校、の目印の旗を掲げる。でも、これほどまで『日の丸』『君が代』を押し進めたり、反対しなければならないなんて、おかしな世の中ですね」。N先生はゆっくりと言葉を選びながら説明した。

        ◆◆

 取材を続けるうちに私は、N先生のもう一つの素顔も知った。

 N先生は毎年、卒業生全員に自筆の色紙をプレゼントしている。子どもの特徴と名前を織り込んで1人ずつにメッセージを書く。だが、その年のN先生はなかなか色紙が書けずに悩んでいた。中学のクラブ活動中に急死した卒業生の葬儀で、祭壇に遺影と一緒に並べられた色紙を見たのが原因だった。

 「よく懐かしそうに眺めていました。とても大切にしていたので、出棺の時も色紙は中に入れませんでした」と母親は話した。N先生は男泣きした。「今までは軽い気持ちで書いていたが、これほど大事にされてるなら、いい加減な気持ちじゃ書けない」

 1カ月近く悩んでN先生は、やっと重い腰を上げて色紙を書く作業に入った。「一生懸命書けばいいじゃないか」。特徴のある子どもはスラスラ書けるが、目立たない子どもは考え込んでしまう。でも、それでいい。「1人1人違うところに値打ちがある。特徴のないように見える子どもでも一生懸命書く。愛情を込めて書けばいい」

 こいのぼりを揚げるのが長年の夢で、色紙が書けずに悩むN先生の姿に、私は熱いものを感じた。取材の醍醐味は、こういう人との出会いにこそある。

        ◆◆

 時期はずれのこいのぼりに、PTA役員らは「こいのぼりが寒いと言っている」「なぜこいのぼりなんだ。旗を揚げればいいじゃないか」と不満をくすぶらせ続けた。

 その年の3月、高州小の空にはいつものように6匹のこいのぼりが元気良く泳いだ。そしてN先生は、自宅近くの学校へ転出して行った。「私が希望したんです。通勤に便利なんですよ。遊びに来てください」。先生はそれ以上は説明してくれなかった。

初出掲載(神奈川県高教組・教育研究所機関誌、1995年4月号)


●僕が料理を始めた理由●

 社会人になって10年間、カップめんぐらいしか作ったことのなかった僕は、昨年の暮れから料理を始めた。忙しくて1、2週間に1度ほどだが、半年たった現在も自炊のまねごとは続いている。

 まずは近くのスーパーで、まな板、包丁、フライパン、鍋、玉じゃくし、フライ返し−などを購入するのが最初の仕事だった。炊飯器や茶わん、皿も買った。実は台所用品と言えば、やかんしか持っていなかったのだ。

 初めて作ったみそ汁はまずかった。女性記者に教わり、だしを取ると味が全然違うことを知った。2度目からは、われながら実にうまいみそ汁が作れるようになった。みそ汁に、茶わん山盛りのホカホカごはん。日本人に生まれた幸せを実感した。

 「貧乏人は弁当持参だぜ」。自分で弁当を作って持って来る男性記者にそう勧め(?)られた。数日後、自作の弁当を会社に持って行って食べていたら、女性記者が「おいしそうだなあ。私の分も作ってよ」。組合の春闘ニュースには「編集局では金のない男性社員が自ら弁当を作ってくるほどだ。会社はベースアップをなんとかしろ」。男が手作りの弁当を持ってくるのは珍しいのか、何かと話題にされている。

 忙しさを理由についつい外食ばかりの毎日だったが、これまで、料理をする意思がなかったわけではない。「やろうと思えばいつでもやれる」とは思っていた。要は、単に腰が重かっただけである。

 きっかけとなったのは、大好きな作家の1人、落合恵子さんの小説だ。そこに登場する男性が料理をする場面に触発されたらしい。落合さんの作品では「自立した女性の生き方や、対等な男女関係の在り方」が繰り返し描かれる。僕は、こういう種類の問い掛けが好きなのだ。加えて、大切に思っている友人の料理好きに影響されたのかもしれない。

 男女は対等な関係であるべきだと思う。だから、「夫が稼いで妻を食べさせる」「妻は家庭を守って家事をするのが当然」「理解ある夫が妻の会社勤めを許す」などの言い方や考え方には抵抗感がある。夫婦2人で家庭を支えているのなら、「夫が妻を食べさせている」という表現はおかしい。ましてや、夫が妻に「家事をきちんとするなら勤めに出ていい」などと「理解を示す」なんて論外だ。それじゃあ、妻は夫の2倍の仕事を強いられるではないか。

 「男女が助け合い、尊敬し合い、対等な関係でいるためには、男女ともに料理ぐらいはできなければ」。まあ、カッコよく言えば、それが料理を始めた理由の一つである。

初出掲載(フリースペース地球屋会報「地球屋からの手紙」1995年6月号)


●韓国旅行記●

ソウルに「昔の日本」があった

 金浦空港に一歩降り立った瞬間、唐辛子の臭いがプーンと漂ってきた。入国手続きを済ませて空港の外に出ると、独特の臭いは、さらにはっきりと私の臭覚を刺激した。「韓国に来たんだ」。韓国の第一印象は、唐辛子の香りだった。

 実は海外旅行は今回が初めてだ。北海道の礼文島、大島、淡路島、沖縄の慶良間諸島などの「海の外」に行ったことはあるが、パスポートを使った旅行経験は1度もない。横浜市中区の産業貿易センタービル2階にある県パスポートセンターで、いくつもの書類と交換にパスポートを交付されてから1週間もたっていない。

 「外国よりも、まず日本を知ることが大切。日本も知らずに外国へ行ったって…」。そんな理屈からこれまで渡航しなかったのだが、思うところがあって初めて国外に出た。

  【懐かしい空気を感じた】

 リムジンバスに揺られて1時間。20階建て以上はある超高層アパート群が、ずらり立ち並ぶ。現代自動車と三星グループの看板を横目に、やたら建設工事が進行中の空港周辺地帯を走り抜けると、ソウル中心部へ着いた。とてつもなく広い幹線道路と高層ビルが特徴だ。

 繁華街、商店街、市場、おばちゃん、街の雰囲気、顔付き、言葉の調子。どれも日本に驚くほど似ている。ハングルの看板がなければ、外国にいることを忘れてしまうほどだ。それと同時に僕は、この街のたたずまいに「懐かしい」という気持ちを強烈に感じた。

 昼間でもなんとなく暗く、ごちゃごちゃと小さな店がひしめき、雑多な品が積み上げられた市場の風景。けだるい感じの路地裏。薄汚れた店先に、少しだらしない格好をした青年店員。でも、どこか活気にあふれている。

 「こんな風景を確かに小さいころ見た記憶がある」。そう感じた。1960年生まれの私が、幼稚園児のころ住んでいた大阪市東淀川区の街の雰囲気にそっくりだ。25年〜30年前の街並み、人、空気。現在の東京都荒川区三河島、川崎市桜本あたりもこんな感じだ。零細工場、手工業が中心の街。ちっとも洗練されてなくて、くすんだような色合いに鮮やかな原色が混じる。帰国までずっと、この懐かしい感じに包まれて過ごした。

 街を歩いていると、少しずつソウルの素顔が見えてくるような気がした。日本人も都会では結構忙しそうにしているが、ソウル市民は日本人の比ではない。歩くのが速い速い。でも、せかせかではなく、きびきびしていて、バイタリティーとエネルギーを感じる。

  【独立記念館と富川市へ】

 川崎地方自治研究センター事務局が計画した独立記念館や韓国民族村の見学、富川(プチョン)市訪問については、川崎市職員有志のメンバーがそれぞれ報告をまとめられると思うので、そちらに譲りたい。ただ、2点だけ気付いたことを簡単に記す。

 独立記念館は、韓国・朝鮮の人々に対して旧日本軍と日本人が行った非人道的行為を、さまざまな手法で訴えていたが、もっと日本人への憎悪や攻撃が強烈なのかと思っていた。「あまりのリアルさにショックを受けた」などの評判を聞いていたから、少し拍子抜けした。記念館内の韓国人の目がさほど厳しくなかったからなのか、日本人の非道ぶりをある程度、(私が)知識として持っていたからそう感じたのかは分からない。

 富川市の中洞新都市(チュンドン・ニュータウン)は、私の取材担当エリアだった横浜市北部の港北ニュータウンに似ている。どちらの街も、抱えている問題に共通する点が多くて勉強になった(1993年9月30日付の「神奈川新聞/川崎版」の記事参考)。

  【徴兵制をテーマに取材】

 「韓国の若者が徴兵制、戦争、平和についてどんな考えを持っているのか知りたい」。それが今回、韓国を訪問した最大にして唯一の動機だ。初日のメンバー全員での見学・観光と、富川市訪問などの日程以外は、単独で取材に出た。

 まず、延世(ヨンセ)大学へ、続いてソウル大学へ。延世大は日本で言えば早稲田、ソウル大は東大といったところだ。

 驚き、かつ感激したのが、どの学生も芝生に座り込んで一時間、一時間半と話してくれることだ。こちらの質問に付き合って、一生懸命答えてくれる。キャンパス内で、歩いている学生を突然呼び止めての取材だ。日本では、せいぜい10分、20分の立ち話に応じてくれるのが限界だろう。もちろん、「ノーサンキュー」「急いでる」とばかりに、とっとと去って行く学生もいたが、日本では考えも及ばない率直さに感動すら覚えた。

  【貴重な青春を失った?】

 大学生の声の一部を紹介すると…。「全体の中に組み込まれるのは嫌だ」「仕事も勉強もすることはいっぱいある。まだ若いのに、3年間なんて耐えられない」「殴られたり、自分の意見が言えなかったりして辛かったが、半年で慣れた」「義務なんだから、国を愛しているなら召集に応じるのは当然」「高学歴者は行かなくていいと思う」「規律に服従し、危険を克服する自信が持てたなど、軍隊で得るものはあった。でも、自尊心は傷つけられたし、むだな時間を過ごしてしまったなど、失ったものも多い」「国が南北に分断されているから軍隊に行かなければならない。統一すれば、日本の自衛隊のように(志願制に)なるかもしれない」

  【片言の韓国語と通訳で】

 「ヨボセヨ(もしもし)。イルボン、シンブンキジャ、イエヨ(日本の新聞記者です)」と話しかける。別れ際には「カムサ、ハムニダ(ありがとうございました)」。私が話せるのは、せいぜいこの程度だ。こうやって話しかけた後は、通訳に引き継いでもらうパターンで取材を続けた。英語の分かる学生(ごく少数だった)とは、韓国語と日本語に、簡単な英語が入り交じっての会話になった。

 通訳は、ソウルに留学している在日韓国人の紹介や、北大の坪井善明教授の紹介などで、なんとかなった。プロ・ガイドを目指して日本語を勉強中の韓国人女性(28歳)が2人。もう1人は、北大に留学したことがある韓国人の女子学生(24歳)。今回の取材には、この3人が協力してくれた。

 日本語を勉強中の2人は、専門学校の講義が終わった午後3時ごろから大学生取材の通訳を引き受けてくれた。夜は2人の案内で、繁華街の焼肉屋や漢江の中洲の汝矣島(ヨイド)広場、南山公園などに繰り出した。深夜、バスも地下鉄もなくなって、念願(?)だったソウル名物のタクシー争奪戦にも参加できて楽しかった。

 北大の元留学生は、大学院の受験目前の中を付き合ってくれた。北大の彼女とはソウル地方兵務庁(兵役業務を担当する役所)に行ったほか、繁華街を歩く高校生や軍服姿の若者からも話を聞いた。彼女は小さいころ、日本に住んでいたことがあって日本語が実にうまい。適確で機転の利いた通訳に、ずいぶん助けられた。

 どこのだれだか分からない日本の新聞記者の取材に、ソウルの若者は実に好意的だった。言葉の壁を乗り越えて懸命に話を聞かせてもらえて、記者みょうりにつきる思いだった。

  ◆追記◆

 ソウルでは予定の約7割の取材ができた。この後、10月の連休を使って再訪韓し、残りの取材を終えて、連載企画「徴兵ってなに/ソウルからの報告」(仮題)としてまとめようと思っていた。だが、企画は担当デスクに却下された。「今やる必然性がない」というのが理由だった。これに対してほかの複数のデスクは「おもしろい」と言ってくれた。

 総選挙で社会党が大敗し、憲法改正が可能な状況になり、自衛隊法が改正されようとしている「今」だからこそ、意味のある企画だと考えたのだが…。機会を改めて記事にするつもりだ。

初出掲載(川崎地方自治研究センター「韓国ツアー・リポート」1993年)


●傍聴席から●

小さな裁判と取材

 裁判所に取材で顔を出すのは久しぶりだった。中国人の関係者が証言している。外国人による集団密航事件の公判である。傍聴席では、数人の記者が熱心にメモを取っていた。

 裁判所では刑事、民事を合わせて一日にいくつもの事件が審理されているが、記者はそれらすべての公判に足を運んで取材しているわけではない。大事件の場合にはテレビや雑誌も殺到して大騒ぎになるけれど、そうでなければ、法廷でのやり取りを記者が自分の目で確かめるのは、社会的に関心が高いと思われる事件に限られている。

 それだって、取材して記事になるのは初公判、論告求刑、判決のほかは、被告人質問や著名な証人が出廷した時くらいである。小さな事件では記者の姿などないのが普通だ。集団密航事件の公判は、事件規模や社会性を考えると、継続取材する必要があったから、記者が傍聴に来ていたのだろう。

 一方、この日は外国人男性の窃盗事件も審理されていたが、そちらに記者の姿はなかった。

 数年前、オーバーステイで出入国管理法違反に問われた男性被告を取材したことを思い出した。地域の主婦たちが教える日本語学級に通っていたイラン人である。心配する主婦たちと一緒に僕は、拘置所まで接見に出かけた。被告は片言の日本語で「大丈夫だから心配しないで」と気を使うものの、不安な表情は隠せない。

 これまで劣悪な環境で働く外国人労働者の姿を何人も見ていたし、入国管理局での虐待や人権侵害の話も聞いていたので、処遇面だけはきちんと確かめたかったのだ。幸いにも彼は不当な扱いは受けていなかった。

 公判は超特急で進んで、判決はあっという間に言い渡された。本人は一刻も早く帰国したかったらしい。国選弁護人も事実関係は争わず、強制退去となった。

 もちろん、ありきたりで小さな事件だから、僕のほかに記者はだれも顔など出さなかった。ほかにいくつも取材を抱えているのだろうから、それは仕方がないと思う。

 しかし、異国で裁判を受ける不安はどの事件の被告も同じだ。言葉の壁もあって言いたいことが十分に伝わらないこともある。少なくとも、そういう被告の思いを分かろうとする記者でありたいと思う。

 拘置所に接見に行ったことがない記者も多いそうだ。事件取材をするのなら、それでは少し情けない。

初出掲載(「季刊・刑事弁護」第19号/1999年秋号)


●司法を教える意味●

民主主義の実践のために

 「すべての裁判官は、その良心に従って独立して職権を行い、憲法と法律にのみ拘束される」……。中学校の時の授業で、社会科担任の先生が「裁判官の独立」について説明してくれた言葉と情景が、今も僕の記憶には鮮明に残っている。

 そうか、裁判官は自分の良心と憲法と法律だけにしか拘束されないんだ、何者からも独立した存在なんだ。授業を聞きながら、そんな裁判官の「真摯な姿勢」になぜか深く感動したのだった。

 この先生は、日本国憲法の条文が載っているページを社会科の資料集から切り離して、何回も読んで覚えるよう指示した。不真面目な生徒だった僕は、さほど暗記の努力はしなかったが、それでも「戦争放棄」や「基本的人権」「表現の自由」「生存権」など、いくつかの条文は頭の片隅にしっかり刻み込まれた。「裁判官の独立」もその一つだ。

 本来あるべき司法の姿の原点が、実はこの条文に凝縮されているはずだが、しかし、現実の司法は必ずしも条文通りには動いていない。裁判のニュースに接するたびにしばしば感じたし、新聞記者になってからもそうした疑念は消えなかった。なかでも行政訴訟や冤罪事件を実際に取材すると、疑問を感じることが多かった。そしてそんな時に必ず思い出すのは、中学の社会科の授業なのだった。

 司法について考える原点が、僕にとってはこの先生の授業にある。

 「月刊司法改革」2000年12月号の法教育特集で、生徒たちに「身近な司法」をどう教えるかについて、さまざまな考えや学校現場の現状を報告した。そこに共通するのは、主権者として主体的に行動するための知識と認識を持ってほしい、オカミ任せでいいのか、という現場の先生たちの問いかけだ。

 司法を教えるというのは結局のところ、民主主義を実践する独立した市民を育てることにほかならない。あらためてそう思う。

初出掲載(「全国法教育ネットワーク」第2号/2001年1月10日)


高校新聞はジャーナリズムだ

新聞部員はジャーナリストだ

ペンを握っている高校生へ

 「高校新聞はジャーナリズムであり、高校新聞の記者(新聞部員)はジャーナリストであるはずだ」と僕は思っている。この考えは僕自身が高校で新聞を作って発行していたころから、今までずっと変わっていない。

 新聞部員の一番の喜びは、刷り上がった新聞が読者である同級生の手に渡って、みんなが自分の書いた記事に見入っている瞬間だろう。この心の高ぶりはプロの記者にとっても同じだ。たぶんそれが「伝える」という作業を担う者の原点であるからに違いない。当然ながらそこには、記者が訴えたいことや訴えるべきことが書かれている。ここが、新聞部がほかの部活やサークルと決定的に違うところだ。取材による事実の提示と主張をする高校新聞は、まさに言論・報道機関なのだ。

 だとするならば、新聞部は自由で独立した存在でなければならない。だから僕は、新聞部の顧問教師は紙面に口を出さない方がいいと考えている。ジャーナリズムの意味と役割を理解しているならば、教師は生徒に一切を任せるべきだ。生徒の主体的な自治活動を保証することこそが、顧問教師の最大の仕事ではないだろうか。

 僕が高校に入学した時、新聞部は年間わずか数万円の予算に部員三人で、年に三回ほど手書きのガリ版の新聞を出していた。僕は同級生に声をかけて部員を集め、ガリ版新聞を月刊化し、印刷所で印刷してもらう活字の新聞も復刊させた。記事としてはたわいもない話題や校内世論調査だとか、時事・文芸評論のたぐいが並び、今にして思えば「新聞ごっこ」の域を出ない紙面作りだったが、新聞を自由に発行して記事を読んでもらうという行為が面白くてたまらなかった。学園祭で校内討論会を企画したり、放送部と提携してお昼のニュースを放送したりして、いわゆる「メディアミックス」もそれなりに楽しんだ。

 しかし遊び半分であっても、気持ちの根底に「自由で独立した言論・報道活動をやっている」という意識はあったし、新聞作りを通して「伝える」ことの楽しさや重要性を模索しながら学んだ気がする。ちなみに、新聞部のこうした活動に顧問教師はまるでノータッチだった。記憶している限り、顧問が部室に顔を見せたのは一年間に一度しかない。

 ただ、学校で起きた不祥事を知りながら、自主規制して報道しなかったことが実は二回あって、これは今でも後悔している苦い思い出だ。教師や学校側の利益と新聞部が決定的に対立するようなことになった場合に、新聞ジャーナリズムの独立が守られるかどうかはかなり怪しい。そういう時にこそ、教師は体を張って生徒を守るべきで、まさに新聞部顧問の真価が問われる局面だろう。

 最近は、新聞部のある高校はかなり珍しい存在だ。新聞があっても広報委員会や生徒会発行の学校が多い。新聞は広報とは違うのだが、それでも生徒のメディアがあるだけマシかもしれない。伝えたいことや伝えるべきことはたくさんあるはず。高校生ジャーナリストは事実を積み重ねて問題提起してほしい。将来プロの記者にならなくても、これは自立した市民としても大切な姿勢だから。 

初出掲載(「新聞と教育」No.307/2005年・夏号)


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