●新聞記者って…

「新聞ごっこ」か「ジャーナリズム」か

高校新聞は言論報道機関だ

問われているのは「何を伝えるか」だ

 


 ■全国高等学校文化連盟(高文連)新聞専門部主催の「全国高等学校新聞年間紙面審査」(第11回=2007年)の審査講評で、雑誌「新聞と教育」編集長の大内文一氏が「北海道清水高校新聞」に対して、「『コンクール狙い』と悪名高い『帯広柏葉高校新聞』の後を追うのは新聞局の自殺行為である」と批判しました。これに両校の顧問教師と新聞局の生徒が激しく反発。北海道高文連新聞専門部長の名前で、高文連新聞専門部会長らに謝罪などを要求する文書が送りつけられる騒ぎになりました。

 ■僕自身が高校時代に新聞部員だったこともあり、一連の騒動について意見を求められて執筆したのが本稿です。「ジャーナリズムのあり方」を考えるための材料の一つになるかもしれないと思ったので、「セカンドインパクト」の「新聞記者って…」のページにもこの原稿を掲載することにしました。(大岡みなみ=池添徳明)


●新聞部員はジャーナリストだ

 生徒が編集発行する高校新聞は、一人前の言論・報道機関だと僕は思っている。高校新聞の記者(新聞部員)はジャーナリストである。こうした基本姿勢にプロと高校生の違いはない。僕自身が高校時代に新聞を作っていたころから、この考えは変わらない。

 全国高等学校文化連盟(高文連)主催の「全国高校新聞年間紙面審査」において、雑誌「新聞と教育」編集長・大内文一氏の「北海道清水高校新聞」に対する審査講評や、それに関わる同氏の「帯広柏葉高校新聞」への厳しい批判が波紋を呼び、両校新聞局の顧問教師や生徒から反発の声が上がっているという。

 問われているのは、高校新聞の「あり方」そのものではないのか。にもかかわらず、問題の本質からかけ離れたところで、審査講評の表現だけに過剰反応する「鈍感さ」には違和感を感じる。

 「こんな新聞を作っていていいのか」という直球の問題提起を、「建設的な叱咤激励」と受け止めるか、それとも「悪意に満ちた中傷」と受け取るかは、ひとえにジャーナリズムに対する理解力とスタンスによる違いだろう。「新聞とは何か」「何のために新聞記者をやっているのか」との問いかけに対して、どういう立ち位置で向き合うかが問われていると言ってもいい。「高校新聞の記者(新聞部員)はジャーナリストである」という観点から、この問題を論じたい。

●ジャーナリズムの役割は何だ?

 「多くの人が喜んで読んでくれている」ということを、大内氏の審査講評に反発する教師や生徒は誇らし気に強調する。これだけをメディアの価値基準にすれば、スポーツ新聞やテレビのワイドショーが好んで取り上げる芸能スキャンダルなどは、多くの人が食い入るように見入っていると言えるだろう。あるいは、夕方の時間帯に放送されている民放各局のニュース番組では、人気のラーメン屋や回転寿司、デパ地下(デパート地下食料品売り場)などの特集が延々と流され、これも大勢の視聴者が喜んで見ている。

 確かに高い視聴率が期待できるメリットがあるから、各局も競うようにして、こうした特集番組を毎日のように放送しているのだろうが、しかしこれはジャーナリズムが果たすべき本来の仕事と言えるだろうか。娯楽情報の意味や価値を否定するつもりはないが、こうしたニュース番組のあり方には報道関係者の間でも批判の声は強い。

 みんなが喜んで見てくれさえすれば、それでいいのか。もちろん大勢の人に見てもらうことが大事なのは言うまでもないが、ジャーナリズムにとって最も重要なのは、「何をどのように伝えるか」だ。

 ジャーナリズムの基本は、権力監視の機能を発揮することであり、社会性や公益性のある記事を書いて問題提起することだ。高校新聞の場合は、読者が生徒であるという点ではプロのメディアとは違うけれども、ジャーナリズムを標榜するのであれば、高校新聞も基本的な姿勢は同じだろう。

 そういう観点から見れば、どうしてもっと自分たち自身の問題を、社会性を持った視点で切り込んでいかないのだろうかと残念に思う。せっかく豊富な予算と人材と紙面が与えられているのに、宝の持ち腐れではないかともどかしく思えてならない。

●生徒の「声」が伝わってこない

 「帯広柏葉高校新聞」の紙面にはあれやこれやと情報は満載されているし、さまざまなインタビュー記事もたくさん載っていて、手間ひまかけた紙面であることは一読してよく分かる。レイアウトや見出しも洗練されていて読みやすい。

 しかし、それでこの新聞の記者たちはいったい何が言いたいのか、何を主張しようとしているのかというと、そこのところが紙面からさっぱり伝わってこないのだ。残念で仕方ない。むしろ、記者自身の主張がまるで書かれていないのは理解に苦しむ。

 新聞局の生徒たち(記者)の主張がないだけでなく、新聞局員以外の生徒の声も伝わってこない。大内氏の指摘通りだ。「事実の羅列」はあふれているのだが、「訴えかけるもの」や「論争のきっかけ」となるものが紙面に掲載されていないのは、そもそもジャーナリズムとしてどうなのだろう。

 ジャーナリズムは官報や広報ではない。丹念な取材に基づいて事実を公正に伝える報道機関であるとともに、言論機関でもある。問題提起して、考える材料となるものを読者に示さなければ、ジャーナリズムとしての責任を果たしているとは言えない。

 申し訳ないが、「帯広柏葉高校新聞」の紙面は、学校経営者が発行する「学園報」のようにしか見えない。豊富な予算やメンバーに恵まれ、取材力もあると思われるだけに、向いている方向のピントが大きくずれているのが、実にもったいないと思う。

●事実を伝えて「問題提起」する

 それでは、ジャーナリズムとしての責任を果たしている高校新聞とは、具体的にはどういうものだろうか。

 例えば、国歌斉唱の際に起立しない教職員が大量処分され、生徒への「指導」が強化されるなど、締め付けがエスカレートする「日の丸・君が代」の問題を見てみる。

 都立国際高校(目黒区駒場)の生徒会が発行する週刊の広報新聞は2004年、二年生有志の投稿記事という形で、教育委員会通達と「日の丸・君が代」を取り上げ、不起立教職員の処分などについて問題提起した。記事は、秋の学園祭での「私たちの卒業式」と題する展示企画へとつながった。

 週刊ワープロ新聞と活版新聞を一年間に三十号以上発行する都立立川高校の新聞委員会は、2000年に「日の丸・君が代」の特集を組んだ。前年に成立した国旗・国歌法を受けて、「日の丸・君が代」の歴史と法制化の意味を解説し、全校生徒へのアンケートの結果を紹介するなど、四回にわたって精力的な報道を続けた。

 「みんなが起立している中で自分の意思を貫き通すことができますか」との問いには、できるという回答が二八%に対して、できないは三七%など、興味深い調査結果が掲載された。マスコミや学者の意見の受け売りでなく、「自分たちの卒業式をどう考えるか」に主眼を置いた記事となっている。

 生徒会や新聞部といった高校生の自治・言論活動は全国的に停滞傾向にある。都立高校でも生徒による新聞発行は減る一方だ。ましてや高校新聞に「日の丸・君が代」の特集記事が掲載されるのは、最近では珍しい。

 しかし、このような問題を取り上げて問題提起することこそ、ジャーナリズムとしての高校新聞の責任だろう。「日の丸・君が代」は生徒の身近な問題になっている。特定の主義主張を展開するのではなく、「具体的な事実」を調べて「考えるための材料」を読者に伝えるのは、新聞の重要な使命だ。

●編集の「ピント」がずれている

 「日の丸・君が代」だけではない。高校新聞が取材して伝えるべきテーマはたくさんある。「教育と格差社会」「いじめ」「引きこもり」「学習指導要領」「カリキュラム」など、身近で社会性のある「取り上げるべき問題」は、いくらでもあるはずだ。

 「帯広柏葉高校新聞」の紙面で、思わず見入った記事があった。高校の統廃合問題を取り上げた記事で、中札内高校の生徒募集停止が決定されたという内容だった。生徒会などの署名活動も実らず、「ドミノ倒しにほかの高校もどんどんつぶれていくのでは」と他校への影響を懸念する中札内高校生徒会長の言葉を紹介している。さらに、地元中学生や北海道教育庁十勝教育局などへの取材も行っている。これぞ高校新聞のジャーナリズム性そのものではないかと感心させられた。

 ところがこの記事は、なぜか紙面の隅っこに押しやられていて、「高校生と政治」という何ページにもわたる大特集の陰で、実に地味な扱いを受けているのだった。

 抽象的な高校生の政治意識分析や国会議員へのインタビューなどを大々的に取り上げるくらいなら、こうした問題こそもっと大きく扱って、さらに深く掘り下げればいいのに。とても残念に思った。編集のピントがずれているとしか言いようがない。

 大内氏はそういうことを考えてもらいたくて、辛口の講評や批判をあえて書き続けているのではないだろうか。

 高校新聞が一般紙と同じように持っているはずの「ジャーナリズム性」を理解している顧問教師ならば、そこのところに即座に気付くはずだが、問題意識がなければ馬の耳に念仏だし、聞く耳など持つはずもないだろう。「ジャーナリズムとしての高校新聞」が理解できないのだとすれば、大内氏の指摘に対して強く反発するのも当然かもしれない。

●「新聞のあり方」特集にすれば

 一方、大内氏の審査講評に対して、顧問教師から「生徒に見せられない」との批判が出たことに、僕は強い違和感を覚えた。生徒たち自身が主体的に判断してコンクールに応募しているのであれば、どんな批評が加えられたとしても堂々と見せればいいではないか。世の中に向けていったん発信されたら、不本意な評価も含めてあれこれ批評されるのは社会常識だ。「発言する」「表現する」際にはそういう覚悟が必要になってくる。それを学ぶことも「教育」だろう。

 「新聞ごっこ」をやっているのならいざ知らず、生徒たちが作っている「新聞」が本物のジャーナリズムであり、言論・報道活動であると認識しているのであるならば、「教育的配慮」などという言葉を持ち出すのはお門違いだ。

 本物の「新聞」を発行するからには、さまざまな批判や反論を受けることを覚悟して発行しているはずだ。言論・報道とはそういうものだ。なぜそこで教師が情報を遮断しようとするのか、全く理解できない。

 もしも自分たちの新聞に対する評価が、全く見当外れで不当で容認できないと本気で考えるなら、どこがどう容認できないかを編集部内で徹底的に議論すればいい。そして、疑問や反論も含めてそれをそのまま自分たちの紙面に書けばいいではないか。

 二十六ページもの紙面があるのなら、それこそ見開きでも四ページでも使って、「高校新聞のあり方」を考える特集記事にしてみてはどうだろう。面白そうだから僕ならそうする。事実関係や経過とともに、新聞製作についての自分たちの考えを示して、読者である生徒の評価を仰げばいい。それこそが、まさに言論・報道機関としてのジャーナリズムのあるべき姿ではないかと思う。

 北海道高文連で2006年に行われた大内氏の講演と、新聞局の生徒たちとのやり取りをまとめた「速報ニュース」を見たことがあるが、生徒たちの感性は大内氏の叱咤激励をしっかりと受け止めていた。いくつもの高校の生徒が「本当の高校生新聞のあり方を学んだ」と記している。そこで交わされたやり取りと、帯広柏葉高校や清水高校の反応とのあまりの温度差に、愕然としている。この格差はどこから生まれてくるのだろうか。あまりにもったいない。

初出掲載(「新聞と教育」2008年夏号)


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