以上、非常に苦しい言い訳の印象は拭えません。
当時の「モニュメント建設について市長と語る会」や「モニュメント懇話会」の一部関係者から伺うところによりますと、「19人全員を入れるべき意見を述べたものの、受け入れて貰えなかった」、また「知らない間に17人に決まっていた」など、「2人外し」は市当局の一方的な決定であったようです。
実際には、市当局も当初は留学生19人全員を入れた建設を計画していたようですが、途中で急遽17人にすることに計画変更がなされたようです。
これは、恐らく、留学生の一人、土佐藩出身の高見弥一が、かつての同藩における暗殺事件に連座していたことが判明したことによるものと思われます。
昭和57年の第3回定例会で上川議員の質問に答えた山之口安秀市長の答弁で、2人を外した理由が述べられています。それによると、基本的に純粋な薩摩藩士のみにするとしていますが、高見については、土佐藩で仲間と共に同藩人の吉田東洋を斬り、薩摩藩に亡命した経歴を懸念し、像建設に値しない人物と判断した様子が窺えます。堀については、単なる通訳士として一時的に雇用した藩外者と片付けたものと思われます。
高見の暗殺事件だけを直視しますと、像としてモニュメントに入れなかった判断は正しいようにも思えますが、当時の日本は幕末から近代国家日本へ大きく変わろうとしていた革命の時期であった訳です。高見弥一を紹介する添付資料にもあるように、藩命や君命の他、新しい日本建設のために、志の高い武士たちは家族とも縁を切り脱藩して、その妨げとなる敵(人物)を斬ることは手段として避けられない時代環境であったと言えます。
その高見弥一を匿った薩摩藩の海江田武次は、生麦事件で英国人リチャードソンに止めを刺した男ですが、後に奈良県知事に就任しています。また、高見を薩摩藩士に推挙してくれた奈良原喜八郎(繁)は、寺田屋事件で同藩の仲間を襲って斬った一人ですが、後には沖縄県知事になっています。高見の土佐に於ける暗殺も、高見が所属していた土佐勤王党党主の武市半平太からの命令によるものでした。
長崎出身と片付けられた通訳の堀孝之は、「高見弥一外し」のとばっちりで、単に藩外者という理由で外されたことが窺い知れます。しかし、堀は曽祖父の時代から島津家25代当主、島津重豪に抱えられていた通訳士としての由緒ある家の子息でした。(添付資料参照)
インターネット上ではJR九州のホームページや幾つかの団体、個人が「本当は19人なのに、何故、鹿児島市は17人しか造らなかったの?」と、疑問を投げかけています。また、モニュメント傍の19人全員を写真入りで紹介した案内板を見る市民や観光客は、モニュメントには17人しかいない矛盾を感じるでしょう。
故に、鹿児島が誇るべき「若き薩摩の群像」が逆に、「閉鎖性の象徴」として見られているのではないかと危惧されてなりません。
幕末から明治にかけて鹿児島ほど優れた国際人を多く生んだ地方はありません。そうした国際人の存在を鹿児島の人たちは良く知らず、また、知ろうともしませんでした。
でも、1982年に鹿児島市が人口50万都市になったのを記念し、モニュメント「若き薩摩の群像」を建立したことによって、市民はじめ県民全体までが改めて、彼らの存在を知ることとなり、故郷を誇りに思うようになった筈です。鹿児島市は格好の題材に着目し、後世に誇れる素晴らしいモニュメントを建立したと言えます。
彼ら留学生の国際人としての資質を育んだのは、三方を海に囲まれた、その地理的特異性もあったのでしょうが、やはり藩民生とも言うべき進取の気性でした。また、進取の気性に富んだ稀に見る開明的藩主の存在でもありました。
この運動を盛り上げることで、鹿児島市に是非、この問題を見直して頂き、2人の追加建設を真剣に検討していただきたいものです。
以上
文責 小笠原弦
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