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−  「若き薩摩の群像」から外された2人のプロフィール −

高見弥一  〜薩摩藩英国留学生〜

 明治29年(1896)2月28日、高見弥一は本籍地の鹿児島市加治屋町で他界しました。享年53歳でした。当時、本籍地というのは、現在では考えられない重要な意味を持っていました。高見が本籍地を鹿児島に置いていたということは、彼が生誕地土佐を完全に捨てたことを意味すると考えていいでしょう。

元々、高見は土佐国香美郡野市村で生まれた郷士で、名を大石団蔵といいました。若くして、武市瑞山(半平太)が結成した土佐勤王党に加盟していた大石は、土佐藩の藩論を巡って意見が衝突していた藩の参政吉田東洋暗殺を武市から命じられます。そして、文久2年(1862)4月、同志の那須信吾、安岡嘉助の二人と共に彼を暗殺しました。大石19歳の時でした。

大石らは土佐藩を脱藩して、当時京都にいた長州藩の久坂玄瑞の元を頼り上京。久坂は大石ら3人を手厚く庇護しましたが、後に土佐藩の藩吏が彼らを探索していることを知り、安全を期すべく、その身柄を薩摩藩士の海江田武次(生麦事件で英国人リチャードソンに止めを刺した人物で、後の奈良県知事貴族院議員)の元に預けました。大石は薩摩藩に匿われる身となり、藩主の父久光容認の下、その後1年以上もの間、京都の薩摩藩屋敷邸内で過ごしました。その間に、親しくなった薩摩藩士・奈良原喜八郎(君命により、寺田屋事件で有馬新七ら薩摩藩の同士を襲った一人。後の沖縄県知事)の斡旋で文久3年(1863)12月、薩摩藩に取り立てられます。高見が薩摩藩の奈良原と親しくなったのは、二人とも同藩の者を斬ったという運命を共有していたからではないかと想像できます。

 薩摩藩に亡命した高見は、元治元年(1864)6月に薩摩藩が設立した洋学教育学校「開成所」の第二等諸生に選抜され、そこで蘭学を中心に陸海軍砲術、天文地理学、物理学、測量術、数学等、多岐にわたる西洋学を学ぶことになりました。この開成所諸生に選ばれた者は、薩摩藩の藩校「造士館」などから選びぬかれた俊才ばかりであり、土佐出身の高見がその諸生に選ばれたということは、既に薩摩藩士として認知されていたことに他なりません。

 開成所が開校して間もない頃、薩摩藩内では志の高い優秀な藩士を選抜して、留学生としてイギリスに派遣する計画が持ち上がり、慶応元年(1865)1月、藩庁は将来を託すに相応しい傑出した藩士を藩内から厳選し、イギリスへの留学を命じました。その中に「高見弥一」の名があったのです。

 留学生派遣計画が生じた当時、開成所の教授を務めていた蘭学者の石河確太郎は、その計画に関しての上申書を大久保一蔵(利通)宛に提出していますが、その中で留学生として派遣するに相応しい人物として、その筆頭に高見弥一の名を挙げています。

 元土佐人でありながら開成所諸生に選ばれ、また、石河が高見を留学生に強く推薦した事実を考えると高見は藩からの期待を背負い、また開成所では非常に優秀な成績を残していたことが窺い知れます。留学先のロンドンでは、森有礼(初代文部大臣)と共に、ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ化学教授グレインの家に寄宿し、運用測量、機関学、数学を学びました。

 約1年の留学を終えた高見は1866年7月、町田申四郎・清蔵兄弟、東郷愛之進,名越兵馬らと共に帰国しました。帰国後は、明治元年(1868)7月に大阪運上所勤務を命じられ、諸税金方掛・勘定掛・吟味役を務めました。今で言う税関勤務です。その後、明治5年(1872)に鹿児島県庁の辞令で二等教官算術掛となり、明治11年(1878)に鹿児島中学(現在の県立甲南高校)教員、翌年の明治12年(1879)鹿児島師範学校教員兼務の他、「明治14年(1881)鹿児島学校数学教員委託 鹿児島士族 高見弥一」といった教員辞令が残っています。

 結局、高見弥一は土佐藩を亡命後薩摩藩士となり、藩に仕え、奈良原の従妹の女性と結婚。その後も土佐に戻ることなく、本籍地とした鹿児島市加治屋町において53歳で亡くなりました。 

文字通り、その生涯を鹿児島の学校教育に捧げた人生であったと言えます。


〜参考文献〜

山田尚二著「新生―薩摩藩英国留学生・高見弥一の生涯―」

■門田 明著「若き薩摩の群像」サツマ・スチューデントの生涯

■犬塚孝明著「薩摩藩英国留学生」

■原口 泉氏 提供資料「〜維新の薩摩〜 九 土佐人・高見弥一の軌跡」


堀 孝之  〜薩摩藩英国留学生通訳〜

 「鹿児島県史」第三巻に、堀についてこう書いてあります。「英語通辧(長崎人)、堀孝之壮十郎、高木政次」と。このうち高木政次は変名で、他の人々は変名の下に年齢が記してありますが、堀にはありません。そして、逆に堀にはかっこ書きで長崎人として注記してあります。すなわち堀は、この時英語通訳として一行と行を共にした長崎の人ということです。一時的に雇われた通訳で、まず、銅像まで造るに値しないと判断されても、やむをえないようにみえます。

 ところが、いろいろ調べてみますと、堀家と薩摩藩とは前後非常に強い絆で結ばれていたということがわかり、堀家は薩摩藩にとって大事な家だったことが判明しました。

 堀家は、古い長崎のオランダ通詞の家柄で、四代儀左衛門は通詞の最高位大通詞を務め、その後嗣五代愛生も大通詞を務めましたが、彼はこれを寛政元年(1789)に辞職し、同9年江戸に出て、薩摩藩に仕えました。寛政9年は西暦1797年で、孝之がイギリスに行った慶応元年(1865)から68年前であり、堀家と薩摩藩の関係が留学生派遣を目前にした、にわか仕立てのものではなかったことがわかります。

 当時、薩摩では前藩主島津重豪が、「成形図説」という一種の農業百科全書の編纂を進めていました。植物その他の名前にオランダ名を入れる必要から、オランダ通詞の堀愛生を招いたのです。(愛生の後継者で名古屋学院大学名誉教授堀孝彦氏が教示)

愛生は初めの名は門十郎で、家がオランダ大通詞でしたが、門十郎は寛政元年これを辞職し、寛政九年冬江戸に出て12月朔日薩摩藩に仕え、御馬廻で家格一代小番になり、愛生の名を静衛に改めました。この時、オランダ商館長のヘンミイが堀を重豪に推薦したものと見られます。

堀は、その3年後の寛政12年(1800)閏4月3日に御納戸格に進み、鹿児島城下に宅地を与えられました。鹿児島に住まうことになったのです。6年後の享和3年(1803)正月11日、更に御納戸頭取格となり、この年藩命によって長崎へ行き、翌享和4年(文化元年)11月に亡くなりました。享年52歳でした。

由緒書の別の箇所に、「薩摩公へ抱えられ、滞在中(中略)卒」とあり、鹿児島で死んだようにも取れますので享和3年長崎に行ったというのは一種の出張ということでしょうか。

 現在、鹿児島大学附属図書館の所蔵になっている、玉里島津家の文庫の中には、堀門十郎作の鳩小屋雛形図形等が収められています。恐らく、重豪の命で作ったものでしょう。愛生の次の六代儀三郎は、オランダ稽古通詞を務めている時、跡を弟の儀佐衛門に譲って、自分は「薩州へ参り父静衛(愛生)跡相続」といいます。儀三郎も鹿児島に居住したもので、したがってその弟儀左衛門(政信)が七代となりますが、その養子堀達之(達之助)は例のアメリカ使節ペリーが浦賀に来た時、通訳を務めた人です。文久二年(1862)には幕府の命令で我が国最初の英和辞書「英和対訳袖珍辞書」(一種小型のポケット版)を編纂出版しました。島津重豪の曾孫斉彬生存中は、この達之助も斉彬の知遇を受けたといいます。そして、この達之助の次男こそが、ここで問題にしている堀孝之(壮十郎)であり、孝之を直接薩摩に結びつけた人物は、若き五代友厚です。

五代は安政4年(1857)2月、幕府がオランダの海軍士官を招聘して設立した長崎海軍伝習所の伝習生として長崎に派遣されました。藩主島津斉彬の命によるもので、一旦は帰国を命ぜられ鹿児島に帰りますが、安政6年5月にまた藩命で長崎に遊学しました。

この長崎遊学中に、五代は堀孝之と親しく交際することになったのです。といっても、弘化元年生まれの孝之は、安政6年が16歳、当時25歳の五代の弟分でした。しかし、時の大通詞で斉彬の知遇を受けた達之助の次男で、古くから薩藩とゆかりの深い堀家だったことが、両者の結びつきの機縁となったものでしょう。兄一郎は政正といい,万延元年(時に21歳)オランダ稽古通詞手代から、一代限英語稽古通詞を命ぜられたといいますから、孝之もオランダ語や英語を勉強していたのでしょう。五代と孝之の交遊は、五代の死(明治18年)に至るまで親密で、五代死後の孝之は五代の事業や五代家遺族の世話を親身になって行っていますので、いわば五代の死後までその交遊は続いていたことになります。

安政年間、長崎で交遊を始めた五代と堀は文久3年、前年の生麦事件の後始末がこじれて薩英間に戦争が起こりそうな気配になったのをみて、二人して馬で鹿児島に急行、藩重役に戦争回避を説得しようとしましたが、既に藩論が開戦に決定していてどうにもなりませんでした。

薩英戦争後、いよいよ局面は百八十度転換してイギリスへの留学生派遣が決まった時、元来この派遣を言い出した張本人である五代もその要員の一人に選ばれました。そして、通詞には堀孝之が選ばれますが、恐らく五代の推薦によるものでしょう。時に孝之は22歳でした。

イギリスに派遣された一行19名の中、団長格の新納刑部と五代友厚の二人には堀孝之が通訳として行動を共にし、ヨーロッパ各地を視察。その間、ベルギー商社設立問題や紡績機械の買い付け、或いはパリ万博参加問題等を取り仕切りました。堀が在英の町田久成に出した書簡によりますと、堀は新納、五代らと慶応2年3月9日山川に投錨、同11日鹿児島に帰着したといいます。その後、堀は五代の渡英前の役職と同じ船奉行見習を命ぜられ、3月22日長崎に赴きました。五代も間もなく長崎に行って藩務につきました。堀も五代と共に、長崎で薩摩藩の藩吏としての任務を遂行したのでしょう。


 五代らがフランスでまとめて来た1867年(慶応3)のパリ万博に薩摩藩も参加することになりましたので、家老岩下方平を団長とする使節団が慶応2年11月、鹿児島を出発した際にも掘はこれに同行しています。すなわち藩の堀に対する待遇は、単に留学生派遣にあたり臨時にその時だけ通訳として雇用同行したものではなく、藩士の一員として処遇していたのであります。ただ、明治2年、五代が明治政府の外国事務局判事の職を辞任して実業界に転進、間もなく廃藩になりますので、堀もこれ以後は五代の事業を手助けすることになりました。堀は、在英中に得た手腕をかわれて何回となく官界から招かれましたが、「イギリスの国家が隆盛なのは民間のビジネスの力で、日本の欠陥をそこに見出して、決して政府の役人などならず町の学者になるのだ」と力説していたそうです。こうして五代の片腕となって大阪に住まい、弘成館をはじめとする事業の育成に力を尽くしました。「五代友厚伝記資料」には、それらに関する書簡がたくさん収録されており、目録によると数十通あります。

 その堀孝彦氏が近年、上梓した「英学と堀達之助」(雄松堂出版)の中に、御船(おふね)奉行五代才助(友厚)の下で御船奉行見習通弁として「堀宗十郎(壮十郎)」とあり、堀が薩摩藩の下級役職にあったことをうかがわせます。さらに、薩摩藩家老・桂久武にあてた堀の書簡には「私事、今般代々御小姓与仰せ付けられ、冥加(みょうが)至極、有難き仕合せに存じ奉り候」という一節があります。

堀も高見と同じ御小姓与だったのです。しかも、この書簡は英国渡航直前の慶応元年2月のものだと思われています。

上記の事実は、「若き群像」が建立された頃はあまり知られていませんでした。元の鹿児島市長で今は亡き勝目さんなどは知っておられたと思いますが、当時は一般に知る人はあまりいませんでした。勝目さんが生きておられたら、もっと適切なアドバイスが行われたろうにと、惜しまれてなりません。


〜参考文献・資料〜

芳即正著「鹿児島史話」(高城書房 平成18年9月発行)から抜粋、要約

芳即正・・・1915年鹿児島生まれ(本籍大分県)

鹿児島女子高校長、玉龍高校校長、鹿児島県立図書館長

鹿児島県立短期大学教授、鹿児島純心女子短期大学教授、

尚古集成館館長を経て現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館資料編纂顧問


■堀孝彦著「英学と堀達之助」(雄松堂出版)

堀孝彦・・・1931年台北市生まれ

      福島大学教授を経て名古屋学院大学教授 倫理学、社会思想史


■南日本新聞「さつま人国誌〜銅像がない2人の英国使節〜」(桐野作人)から抜粋

桐野作人・・1954年鹿児島県生まれ 自身は歴史作家と名乗るが、

学術誌等に論文発表する日本史研究者である。

豊富な資料に裏打ちされた鋭い視点で硬直した史実の陰に埋もれた歴史の

真実を見つめ直し新たなる発見に挑む