大岡みなみのコラム風速計

(初出:人権団体の機関誌に連載)


INDEX

 6)女性が家事をするのは当然か (1995年6月号)

 7)オウムの子どもと児童相談所 (1995年7月号)

 8)町会って何だろう (1995年8月号)

 9)憲法順守は公務員の基本 (1995年9月号)

 10)議員発言記事に県が圧力 (1995年10月号)


 ◇風速計6◇

女性が家事をするのは当然か

人権尊重は男女対等の認識実現から

 部落差別の中で、結婚にまつわる差別は就職と並んで大きな問題の一つだ。

 カップルが互いに愛し合っていながら、いざ結婚するとなると、家族や親類から「相手が被差別部落の出身者である」ことが理由で結婚に反対される。そのうち、最初は家族を説得する側にいた本人の心も揺れ出すケースが多いという。男女の愛情が絡んでくるだけに、難しく、悲劇的な差別問題だ。

  ■主夫をしてもいい■

 だが、本当に二人が愛し合っているのなら、どうして「結婚」という形式にこだわるのだろうか、という疑問が付きまとう。極端なことを言えば、入籍制度にも固執する必要はないと思う。

 「○○家から○○家へ嫁ぐ」「主人と奥さん」などの言い方をするが、「対等な人間同士が新しく共同生活を始める」といった考え方からすれば、おかしな表現だ。人権問題を考える上でそうした点を、あえて指摘したい。

 そもそも、家庭の中で男女の対等な関係が築かれているだろうか。夫が仕事、妻が家事をするのが普通の家庭の役割分担だとされているが、妻が仕事をしたいと考えた場合、夫はどんな態度を取るだろう。

 「妻は家庭を守るのが仕事だ。オレが食わせてやっているのだから、働く必要はない」と断言するパターン。「働いてもいいけど、家事をきちんとこなしてから」と条件付きで「理解」を示すパターン。

 後者は、少しは進歩的なように見えるが、実はとんでもない差別者だ。だって考えてみてほしいが、仕事をした上で、家事もせよというのは、夫の二倍仕事しろと言っていることになるのだから。

 そもそも、妻の仕事を夫が「許す」という発想が変だ。「オレが食わせて…」という考え方もおかしい。二人で家庭を支えていると考えるのが自然だ。対等な関係の夫婦なら、家事も二人で分業すべきだろう。夫が家事、妻が仕事に会社勤めをする家庭があったっておかしくない。ジョン・レノンは長い間、「主夫」をしていた。

  ■従属を認める女性■

 「午前1時過ぎまで飲んで帰宅すると、『何だ、この時間は』と夫が怒り出した」。主婦のこんな投書が新聞に載っていた。さらに投書は続く。「あなただって午前二時、三時まで飲んでいるじゃない。どうして男はよくて女はダメなの。そう反論すると、『男と女は違う』などと言われて大げんかになった」

 主婦の友人たちは「主婦がそんな時間に帰るなんて」「適当に調子を合わせておけばいいのよ」といった反応だったという。

 「男女共生社会」などと言われているが、実際の社会は理想とはまるで違う。女性の側にも、従属関係を認めてしまう発想があるのが悲しい。

  ■子どもにも影響が■

 部落解放運動をしているある友人が真剣な表情で訴えていた。「人権問題の基本は男女平等意識を確立することだ。人権、人権と訴えても、自分の家庭の中の人権問題を解決しなければ何にもならない」。それは結局、親を見て育つ子どもの人権意識を育てることにもつながるのだ。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1995年6月号)


 ◇風速計7◇

オウムの子どもと児童相談所

行政が個人の価値観に介入する怖さ

 児童相談所に「保護」されているオウム真理教信者の子どもたちの扱いには、薄ら寒いものを感じる。児童相談所の所長が「育て直しが必要だ」などと発言するに至っては、「おいおいちょっと待てよ、そこまで言う権利があるの?」と異議を強く唱えたい。

 他人から見れば馬鹿馬鹿しい考え方や、だらしない生活であっても、法律に違反していない限りは当人の自由が尊重されるべきだと思う。そもそも、「お上」が子どもの育て方に口出しすることがおかしい。

  ■母の目前から保護■

 オウム信者の子どもたちは、警察の教団一斉捜索の際に強制的に「保護」された。母親の目の前から、無理やり引き離されて連れて行かれたケースもあった。母親や教団関係者らが面会に訪れたが、職員や警察官に建物の中に入ることさえ阻止されたという。

 ある元オウム信者の母親から話を聞いた。今年四月に六歳の子どもを警察官に連れて行かれ、現在は宮崎県の児童相談所に「保護」されているという。

 彼女は今年五月にオウム真理教を脱会したが、児童相談所は「子どもたちはマインドコントロールされている。それが解けないと返せない」「オウムを辞めても、(考えが変わるわけではないので)オウムにいた人間には返さない」と言って、子どもに会わせてもくれないそうだ。

  ■育て直しが必要?■

 この母親は法律を犯したわけではない。ただ単にオウム真理教の信者だっただけだ。今もオウムの修業などは続けているというが、それはそれで彼女の自由ではないだろうか。母親の考え方が変わっているからといって、子どもを親から引き離す権利が、どうして行政にあるのだろう。

 東京都の児童相談所長は六月、記者会見で「子どもたちを保護者に引き渡すには、半年から一年以上かかる」との見通しを述べた。「育て直しが必要だ。警察への憎しみなど、教団独自の考え方が擦り込まれ、判断基準や考え方が普通の子どもと違う」

 確かに、教団の考え方には私も疑問点がいっぱいある。だが、だからといって「信じる自由」を否定する権利があるだろうか。心の中で、仮にどんなに破廉恥なことを考えていたとしても、考えるのは個人の自由だ。「普通」の基準もよくわからない。

  ■非国民に人権なし?■

 こうした行政(児童相談所)の態度は、「オウムは非国民」「オウムに人権など必要ない」「非国民は何をされてもいい」という世論を、それなりに反映しているのだろう。繰り返される「オウム報道」で形成された世論だ。

 もちろん、他人の生命や基本的人権を侵害する犯罪行為は許せない。徹底的な捜査・報道をするべきだと思う。しかし、犯罪行為と信仰とは別だ。オウムの信者すべてが犯罪者というわけではないだろう。

 どんな内容の宗教でも信じる自由はある。「非国民の親に子どもは渡せない」と決め付けるのは人権侵害だ。だれもが等しく、適正な法手続きに基づいた捜査や裁判を受け、基本的人権を尊重されるのは民主主義社会の基本原則だ。例外をつくってはならない。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1995年7月号)


 ◇風速計8◇

町会って何だろう

戦前の「隣組」再現は御免

 初夏の昼下がり、年配女性が自宅を訪れた。「町会費を納めてほしい」というのだ。

 今のアパートに住んで三年近くになるが、これまで町会費を集めに来たことなんて一度もなかった。そもそも、町会に入った覚えがないんだけどなあ、と首を傾げていると、「会長さんが代わって、今後は全員から徴収することになった」と女性は説明した。

  ■名簿に無断で掲載■

 「僕は町会に入ってないんです。会費請求の前にまず、規約説明や入会意思確認などをするのが順序だと思うんですが…」。そう答えると、女性は「会員名簿に名前があったでしょう。規約は名簿の最初に載っていますよ」と笑いながら話した。

 確かに郵便受けに町会名簿が入っていた。断りもなく名前が掲載されていたので、不愉快に感じたことを思い出した。

 「町会には皆さん入ってもらってるんですよ。会費徴収はこれまでがいい加減で、今後はきちんと全員から集めるのが新会長の方針です。留守宅が多いアパートは、家主さんから一括して集めるようにって…」

 暑い中、坂を上って来て、汗を流しながら懸命に説明してくれる年配女性は、たぶん善意の人に違いない。言われた仕事をしているだけだ。でも、この女性にしろ町会長にしろ、民主主義・人権尊重の観点がすっぽり抜け落ちてしまっている。

  ■入会拒否する自由■

 町会名簿に無断で氏名を掲載するのはプライバシー侵害だ。居住者と賃貸契約を結んでいるに過ぎない家主から、町会が断りもなしに町会費を徴収しようとするのもおかしい。何より、町会・自治会は任意団体で、入会は任意であることを最低限きちんと認識すべきだ。

 「納得いかない場合は町会長さんへ」と言うので、町会長に電話した。

 「市の広報を配ったり、回覧板で情報を伝えたり、地域で助け合う」。町会の役割を会長はそう説明した。ほかに祭りや盆踊り、運動会、防災、新春の集いなどの活動があるという。

 「町会に入りたくない人もいますよねえ」と尋ねてみた。

 「じゃあ、ごみを出さないのかということになる。ごみ収集所の掃除はどうするんだ。権利だけ主張して義務はしないのは問題だ」。私の質問は町会長の機嫌を損ねたようだった。

  ■いい加減さも大事■

 社会人になって三カ所に住んだが、町会へ入会するよう言われたのは初めてだ。

 家には寝に帰るぐらいの学生や独身サラリーマンは地域活動に接する機会は少ない。地域活動は大切だと思うが、町会に参加したくない自由も尊重されるべきだ。それに町会だけが地域活動でもない。

 今まで私のところに町会への入会勧誘や会費徴収などが来なかったのは、たぶんその町会に「単身世帯への寛容」や「いい加減さ」があったからだろう。私はこの「いい加減さ」こそ実は大事なことだと思う。戦前の「隣組」の再現は御免だ。

 区役所の地域振興課は「町会は任意団体で入会は強制されない。広報紙などは区役所で入手でき、入らないことで不利益はないはず。ごみの問題はマナーや環境美化の点もあって微妙なところですが、単身世帯と家族世帯とは事情も違うし…」と話している。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1995年8月号)


 ◇風速計9◇

人権を尊重せぬ公僕

憲法順守は公務員の基本

 「私は日本国憲法を順守することを誓います」。公務員は採用されると、こんな内容の誓約書にサインする。公僕であるすべての公務員は、「民主主義」「人権尊重」といった憲法の理念に従って仕事をし、税金を払っている市民のために奉仕する義務があるのだ。

 にもかかわらず、平然と憲法を踏みにじる公務員が少なくない。なぜだろうか。

  ■入管職員は何様か■

 在留期間を過ぎて日本に滞在(オーバーステイ)している外国人に対する入管職員の態度は目に余る。

 「オーバーステイなんかになってどういうつもりなんだよ」といきなり怒鳴りつける。説明を聞こうともせず「お前ねえ」呼ばわりして罵倒する。入管法に違反した外国人はどう扱ってもいいかのような態度。

 バングラデシュ人男性と日本人女性とが結ばれるまでの道程をルポした「在留特別許可〜アジア系外国人とのオーバーステイ国際結婚」(サーム・シャヘド、関口千恵著、明石書店)に登場する入管職員は、ほとんどがこんな調子だ。人権感覚がおそろしくお粗末な上に傲慢。オーバーステイ外国人に対する日本政府の姿勢を象徴しているとも言えるが、これで法務省の役人だというのは悪い冗談だ。

  ■刑務所の非人間性■

 非政府組織(NGO)の人権状況監視団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」がまとめた報告書「監獄における人権/日本1995年」(現代人文社)は、日本の刑事施設がいかに人権を無視した状況にあるかを告発、国際人権法に基づいて日本政府に改善を勧告している。

 それによると、独房は広さ五平方b、冷暖房は一切なく、自由に体を動かすことも禁じられている。この独居拘禁はしばしば懲罰の手段として使われ、規則違反を理由に何年も独房に入れられるケースもある。

 処遇に対して不満があって異議申し立てや訴訟を起こそうとすると、報復的な懲罰や嫌がらせを受けるという。

 職員の暴行を訴えようとした受刑者は三年間独房に置かれ、他の受刑者との接触を一切絶たれた。松葉杖を取り上げられた障害を持つ受刑者は、弁護士がいる面会室まで一時間半も床をはって行かされた。

 刑務所に収容されている人には、人権を口にする資格がないのか。看守に何をされても文句は言えないのだろうか。

  ■市民に奉仕が仕事■

 いかに理不尽で横柄な行為でも、役所に対する市民の「お上意識」はまだまだ強く、役人に黙って従う人は多い。だが、彼らは公僕で、市民に奉仕するのが仕事だということを忘れさせてはならない。ましてや、憲法の理念を踏みにじった態度を取るなど許されないことだ。

 黒沢明監督の映画「生きる」(橋本忍脚本)は、今も見る人の心に感動を与える。がんで死期が近いのを知った定年間際の市役所職員(志村喬)が突然、ほこりをかぶっていた住民の請願書類を引っ張り出し、暗きょを公園へと整備する仕事に打ち込むストーリーだ。役所の机に座ってただ時間が過ぎるのを待つだけの生活から一変、「彼は『生きる』ことを始めたのだ」とナレーターは語る。

 「勘違い公務員」には研修として、憲法熟読と映画「生きる」観賞の義務付けを提唱したい。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1995年9月号)


 ◇風速計10◇

報道機関の責任放棄

議員発言記事に県が圧力

 昨年七月の神奈川県議会文教常任委員会で、同和地区の高校進学奨励金について、保守系の県議が「同和の子は幸せだが、一般の子は奨励金がもらえないのは納得いかない」などと発言した。同議員は休憩後に再開された委員会で発言を撤回して陳謝した。地元紙とA紙の記者だけがこの発言をニュースと感じて出稿したが、翌日の地元紙に記事は載らなかった。

  ■部落差別はない?■

 県議は、県教委が作成した説明書の「進学奨励金」の記載内容について発言。「同和問題は特別扱いされている。騒ぐから問題になる。一般社会では偏見はなくなっている。同和の子は幸せだが、一般の子は奨励金がもらえないのは納得いかない」と述べた。

 関係者の話を総合すると、委員会を傍聴していたのは五社。地元紙とA紙の記者が「大変なことを言っている」と判断し、休憩に入ってすぐに議員本人から真意などを取材した。

 県庁の県政記者クラブでは、県広報課長代理が「午後の委員会の冒頭、議員が発言を撤回・陳謝する。発言内容が記事になると議員の立場が悪くなる。教育長も心配している。記事にしないでほしい」と、傍聴しなかった社を含む記者クラブ加盟全社に要請して歩いた。

  ■筆を曲げてほしい■

 地元紙とA紙の記者は広報課の部屋に呼ばれた。同様の要請を受けたが、二人は「趣旨は分かったが、記事にしないという約束はできない」と答えた。

 委員会が終わると二人は再び「記事にしないでほしい」と要請を受けた。今度は広報課長も同席した。「記事になると議員の政治生命が終わってしまう。来年(九五年)には統一地方選もある。今回は広報課が借りをつくったということでどうか。『筆を曲げてくれ』という本来あってはならないことを頼んでいるのは承知の上だ」

 これに対して、地元紙記者は「なぜ、県や教育長がそこまで心配するのか。選挙で選ばれた議員の公的な場での発言だ。議員の立場もあるだろうが、被差別部落の子どもの立場はどうなるのか。記事にしないと約束はできない」と答えたという。

 A紙と違い、地元紙記者はここからが大変だった。出稿を了承していたはずの県政担当キャップが、広報課の要請があってから一転し「反省してるんだから許してやれ。議員の立場が分かってやれないのか」と言い出したのだ。二人のやり取りは記者クラブ中に聞こえた。

  ■新聞記者の仕事だ■

 「議員の公的発言の事実を選挙民に伝えるのは、傍聴席に座っていた新聞記者の責任ではないか」。そう主張する記者が出稿した原稿は、しかし掲載されなかった。

 その夜遅く本社に呼び出された記者の前には、編集局長、局次長、報道部長、担当デスク、キャップがずらり並んで待ち構えていた。「記事を掲載すれば県や議会へ同和団体が抗議に押し寄せ、県や議会と新聞社が築いてきた関係が壊れる。副知事からも配慮してほしいと連絡があった。一方、掲載しなければ本社に抗議がくる。載せても載せなくても大変だが、政治的判断で原稿はボツにする」。そんな説明を受けたという。

 新聞の果たすべき責任を、この人たちは放棄してしまった。「伝えるべき事実を伝える」「事実を一つ一つ積み重ね、何が問題か考えるための材料を読者に提供する」−それこそが新聞記者の仕事なのに。

 A紙は紙面の片隅にきちんと記事を載せた。それでも、地元紙の編集幹部が言うような「大変なこと」は起きなかったし、同和団体が大挙して抗議に押し寄せたりもしなかった。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1995年10月号)


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