大岡みなみのコラム風速計

(初出:人権団体の機関誌に連載)


INDEX

 1)大学合格者名簿の新聞掲載 (1995年1月号)

 2)司法修習と任官拒否 (1995年2月号)

 3)マスコミの果たす役割 (1995年3月号)

 4)「日の丸」「君が代」の強制イヤ (1995年4月号)

 5)記者の熱い思いが伝わらない (1995年5月号)


 ◇風速計1◇

プライバシー保護、どう考える

大学合格者名簿の新聞掲載と人権感覚

 神奈川新聞(本社・横浜市)が、11月19日付の朝刊に掲載した関東学院女子短大の推薦入試合格者名簿に、大学側のミスにより、300人以上の不合格者の名前が含まれていた。同社と同大学は、翌日の朝刊に「おわび」を掲載した。事件は単なる「名簿作成の手違い」といった次元にとどまらず、「大学と新聞社は個人情報保護をどう考えているのか」を鋭く問題提起している。

  ■不合格300人が合格■

 関係者の話を総合すると、この日の朝刊には、782人の名前が県内合格者として掲載された。前日、新聞社が大学から受け取ったリストは「推薦合格者一覧」とされていたが、実際は「志願者名簿」だった。この結果、300数十人の不合格者が合格者として掲載された、という。

 新聞社には、19日早朝から、問い合わせや苦情の電話が百件以上あった。「不合格なのに新聞に名前が載り、友達から『おめでとう』と言われて悲しかった」。そんな声が殺到した、という。全国紙やテレビ各社からの取材も相次いだ。同日夜のテレビニュースを見た同社幹部は「うちが悪者みたいじゃないか。うちだって被害者だ」と感想を漏らした、という。

  ■本人に無断で掲載■

 そもそも、正確な合格者名簿であれば紙面に掲載していい、と無条件に言えるのだろうか。入試の合格者名という極めて個人的な情報を、本人に無断で掲載していいのだろうか。新聞社が、他人の名前を勝手に印刷して大量に配っている責任は重い。

 事の本質は「間違った名簿を紙面掲載してしまった」などといったところにあるのでは決してない。「大学、新聞社が受験生のプライバシーをどう考えているのか」という点こそが今、改めて問われているのだ。

 確かに、新聞に名前が掲載されることを喜ぶ受験生や親は少なくない。記念になる、親戚や知人に見せる、などが理由だ。しかし、合格した学校が第一志望でない場合もあるし、必ずその学校に進学するとは限らない。

  ■知られたくない権利■

 合格者の中にも、新聞に名前を載せてほしくないと思っている人はいる。掲載を希望しない合格者の名前を無断で載せるのは、明らかにプライバシーの侵害だろう。「知られたくない権利」は最大限尊重されなければならない。

 仮に販売政策の必要などから、どうしても新聞に合格者の名前を掲載したいのなら、合格者一人一人の意思を確かめればいい。それができないならば、大学合格者の名前掲載はやめるべきだ。

 高校の現場教師からも、大学合格者の名前公表、紙面掲載を疑問視する声が上がっている。「個人情報保護」「高校間格差・序列化是正」の立場からだ。大学に対しては、(1)新聞社に合格者名簿を渡さない(2)合格発表も氏名公表はやめて番号だけにする−の二点を要望、新聞社には「名前掲載の中止」を申し入れようとの動きが出ている。

 その一方で、「卒業生の進路状況を把握するために、新聞の合格者発表を重宝している」とする進路指導担当教師もいて、高校側の足並みは必ずしも揃ってはいないのが実情だ。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1995年1月号)


 ◇風速計2◇

社会問題に関心ない?法律家

「司法修習と任官拒否」から見えるもの

 『裁判官になれない理由/司法修習と任官拒否』(ネット46・編、青木書店)という本が出た。社会問題や人権問題などに関心を持たず、主体的な発言や行動をしない裁判官がつくられていく背景が、はっきりと見えてくる興味深い内容だ。

  ■裁判官になれない?■

 出版のきっかけとなったのは、昨年4月、第四六期の司法修習生の中でただ一人、神坂直樹氏が裁判官への任官を拒否された事件だ。

 神坂氏は、箕面忠魂碑違憲訴訟に原告補助参加人としてかかわったほか、修習中にはPKO法案に反対するアピールを出し、検察修習の容疑者の取り調べを「検事資格がないから」と辞退したり、判決文の起案に西暦を使ったりした。最高裁は、任官拒否の理由を「思想・信条には一切関係ない」と述べたというが、不採用の具体的理由は全く明らかにされていない。

  ■上司に従順で無批判■

 法曹になるには、司法試験合格後、さらに2年間の司法修習がある。司法研修所の教室で講義を受け、各地の裁判所、検察庁、弁護士会で実務修習しながら、各自の進む道を選択していく。

 では、修習生は希望すれば必ず裁判官になれるのかというと、そうではない。「政治的色彩の強い団体」に加入したり、人権や社会問題などの自主的研究会に参加して活動したりする修習生には、「君は裁判官よりも弁護士に向いている」などと遠回しに辞退を促され、普通はこの段階で任官を断念してしまう場合が多いという。

 裁判官になるためには、「司法技術の修得に熱心で、教官に従順・無批判で、修習中は自由で率直な発言をしない」ことが重要だとされる。裁判教官や最高裁にマイナスのレッテルを張られないためだ。だから、任官希望の修習生の多くは社会問題などにはかかわろうとしない。そしてこの生き方は、教官を上司に変えて、そのまま任官後にも受け継がれていくことになる。

  ■刑事裁判嫌う弁護士■

 しかし、こうした研修所の管理・統制の雰囲気に無批判で、自己規制を続けるのは、任官希望の修習生だけに限らない。人権や社会問題などからできるだけ遠ざかろう、とする修習生は弁護士希望者の中にも多いという。

 神坂氏と同期の弁護士によると、約600人の同期修習生のうち、積極的に発言や行動をしていたのは五%程度だという。「発言・行動すると目立つんですよ。無言の圧力の中で、修習生の関心の対象はどんどん狭まっていく」

 この延長か、社会問題から遠ざかろうとする現職弁護士は多い。「金にならないし、手間もかかる」と、刑事裁判を敬遠して民事裁判に力を注ぐ。もちろん民事事件も大切だが、普通の市民の人権を守る刑事裁判は、弁護士活動の原点ではないのだろうか。逮捕直後の容疑者の相談にのる「当番弁護士」制度に登録している弁護士は、全国平均で四割足らずだという。

 「憲法を尊重し、基本的人権の擁護と真実追求に情熱を燃やす人たち」−。難関と言われる司法試験を突破した裁判官や弁護士らに抱いていたそんなイメージが、根底から崩れていく。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1995年2月号)


 ◇風速計3◇

マスコミの果たす役割って何

新聞労連「新研中央集会」での議論から

 新聞労連主催の第38回新研中央集会が2月中旬、宮崎市内で開かれた。新聞社の組合では、新聞紙面や取材のあり方などを考える新聞研究(新研)も大切な活動の一つだ。毎年この時期、全国から記者が集まって議論する。

  ■もっと人権に関心を■

 今年のテーマは「戦後50年と報道/改めて新聞の原点を問う」だった。

 パネル討論では、弁護士の福島瑞穂さんが発言の中で次のような趣旨の問題提起をした。「アイヌ、在日朝鮮人、部落差別、被疑者の人権などといった問題は、日本の社会では議論されにくいマイナーなテーマだ。日本では人権問題が本当に論議されない。マスコミの役割は、国民の意識を正確に反映することにあるが、それだけでいいのか。そこから一歩進んで、少数者、人権の立場から国民を覚醒する役割がほしい」

 また、元朝日新聞記者で記録作家の川原一之さんは「底辺に生きる人の声を汲み上げたい、との思いが記者志望の初心だった」と述べた上で、「新聞作りは個人の熱意、情熱が支えている。でも、今の若い記者には熱意が感じられない」と批判した。

 会場の若手記者からは、こんな発言があった。「部落差別問題の原稿を出したがボツになった。人権問題について取材しても、編集幹部がタブー視して取り上げない。若い記者には熱意がないと指摘されたが、こうした原稿をボツにするのは全共闘世代の部長やデスクだ。この人たちの人権感覚こそ問題だ」

  ■緊張感ない編集幹部■

 分科会は「災害報道とメディア」「権力と新聞」の二つが開かれた。

 「権力と新聞」の分科会に助言者として出席した西日本新聞編集局長の石崎憲司さんは「新聞で一番大事な言論が鈍ると、権力が情報を一方的に握る。そうさせないのが新聞の役割だ。正義感だけでは突破できない壁もあるが、ジャーナリストとしての原点に立って、粘り強くやっていくしかない」と話した。

 参加者の一人からは「県議会での県議の差別発言を原稿にしたが、県幹部らとの関係に配慮した編集幹部がボツにした。降版間際の編集現場に県政キャップが県幹部を連れて来て、大刷りを見せることもあった。権力との距離があまりにも近くなり過ぎ、編集幹部に緊張感がなくなっている」との指摘があった。

  ■矛盾に悩む記者たち■

 別の参加者からも「知事選で現職が自分のチラシを広報と一緒に配った、という原稿が県政担当から出たが、編集幹部にベタ(一段記事)にしろと命じられた」「リゾート開発に社が出資している。自然破壊に批判的だった記者会見の質問部分が、うちの新聞だけ抜け落ちていた。記者は本当に書きたいことが書けているのだろうか」などの報告が相次いだ。

 「日々の紙面を埋めるのに精いっぱい。記事を書くための資料を役所に頼っているので、何も言えない」「ジャーナリストとサラリーマンとの折り合いを付ける議論を社内ですべきでは」との悩みや意見も。「闘ってる記者は大変なんだ。記者って孤独なんだなあ」。制作現場の組合員からはそんな声が漏れた。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1995年3月号)


 ◇風速計4◇

「日の丸」「君が代」の強制イヤ

入学式の在り方に異議申し立てしたが

 横浜市内の保護者が、「日の丸」「君が代」のある入学式には子どもを出席させられない、と市立小学校に申し出た。学校は市教委と相談し、この児童のために「日の丸」「君が代」抜きの「入学式に代わる時間」を校長室で開くことを決めたが…。

  ■強制を拒否する権利■

 同小学校の入学式・卒業式は、体育館で行う。壇上正面に「日の丸」と横浜市旗を掲示し、式の冒頭で「君が代」を斉唱する。

 この保護者は二年前に横浜市内に転居。その時の長女の入学式は、「君が代」斉唱が終わってから式場に入った。今年は長男が入学。「『日の丸』『君が代』の強制は、思想・信条の自由を侵す。賛否の議論があるものを強制するのはおかしい。入学式のやり方を変えてほしい」と今年2月、学校へ申し出た。

 これに対し、学校側は「職員会議の承認を得て決めた学校行事なので、掲揚・斉唱はこれまで通りに行う」とした上で、「式場と別の場所で時間をずらし、入学式に代わるものをする。そこで校長が子どもに声を掛け、担任を紹介し、教科書などを渡す」と提案、保護者と合意した。

 学校側は「『日の丸』『君が代』がある式には子どもを参加させられないということだったので、市教委とも相談して決めた。式に出ないことで差別やいじめにあっても困る。『入学おめでとう』と校長が声を掛けるだけで、入学式ではない」と説明。保護者は「『日の丸』『君が代』のある式に子どもを出席させない権利が認めてもらえた」と学校の姿勢を評価した。

  ■教育的配慮のはずが■

 横浜市教委は「指導要領に基づいて、学校行事で国旗掲揚・国歌斉唱を指導しているが、一人ひとりの生徒の思想信条まで統制するわけではない。価値観が多様化しているので、個別のケースで話し合うしかない。最終的には校長が判断することで、今回のケースも教育的配慮によるものだろう」と話す。

 学校と保護者で交された約束では、入学式の一時間前に15分間、校長室で「入学式に代わるもの」が行われることになっていた。ところが、校長は入学式の日、廊下で長男に「よく来たね」などと声を掛けただけ。教務主任が教室などを案内したが、担任教師の紹介もなかった。

 保護者と約束した校長は定年退職。新校長は「前校長が約束した内容を引き継ぐ」と言明していたが、「他の子どもより先に担任を紹介するのは不公平だ。PTAから苦情も出るし、特別扱いは本意でない」と、この日急きょ、内容を変更したという。

  ■少数意見にどう対応■

 こうした学校側の対応に対し、保護者は「長時間話し合った合意内容を一方的に破るのはおかしい。式に出られない状況をつくったのは学校の責任なので、式に代わるものを要望した。卒業式までには子ども自身の考えも固まると思うので、その時は子どもの意思を尊重してやりたい」と訴えている。

 学校行事で「日の丸」「君が代」の「義務化」が進むにつれ、こうした異議申し立てはさらに増えてくるだろう。その時の学校や教育委員会の対応に注目したい。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1995年4月号)


 ◇風速計5◇

記者の熱い思いが伝わらない

見えない影におびえ自己規制する新聞

 新聞記者の書いた原稿がボツになって新聞に出ない、というのはよくある話なのだろうか。取材が不十分で事実誤認があったり、文章がおかしかったりというのなら仕方ないが、そうでない別の理由でボツにされるとなると…。

  ■ナチ式敬礼の場合■

 P新聞のA記者は、高校総体開会式の入場行進の記事を書いた。前年参加した高校生の約6割がメーンスタンド前で、右手を斜め前に挙げながら行進した−との調査結果を基に、「ナチス・ドイツの敬礼を連想させる」として教育現場などに問い直しの動きがある、と報じた。

 記事は社会面トップの扱いだった。高校体育連盟(高体連)は、参加校に「時代の流れを考えて行進方法を工夫してほしい」と指導。約一週間後に開かれた高校総体では、「ナチ式敬礼」をした高校は参加校の1割と、前年に比べて激減した。

 A記者は、大きく変わった入場行進の様子、主催者や生徒の反応などを取材し、続報として出稿。デスクは「一度大きく記事にしているので十分だ」「敬礼はけしからん、などと魔女狩りみたいなことはしない」と説明し、A記者の原稿はボツ。デスクが書き直した記事は、「ナチ式敬礼」が激減した事実や意味には全く触れていなかった。

 翌日の各紙が、「ナチ式敬礼」の激減を具体的数字を出して報じる中、問題提起したP新聞だけが「激減」に触れない結果となった。

  ■私服登校の場合は■

 Q新聞のB記者が書いたのは、中学校の制服指導に異議申し立てをし、一人で私服登校を始めた中学生の話だ。

 朝、私服姿で登校して来たその中学生を、正門の前で両手を広げた教師が待ち構えて通せんぼする。一緒に登校して来たB記者は、中学生の後ろから、その光景をパシャッとカメラに収めた。

 記事は写真とともに、社会面トップに載った。反響の手紙が次々と寄せられ、B記者は読者の声を紹介する形で続報を出稿したが、記事はボツになった。

 「社会面の第一報は、生徒側の声だけを紹介している」「Q新聞はキャンペーンでもするのか」などの「声」が上がったのが、続報原稿がボツになった理由だ。後に、B記者はそう伝え聞いた。「声」が社外からあったのか社内から出たのかは、B記者には分からない。

  ■風見鶏の編集幹部■

 波風立てず、時流には逆らわず、を信条とする編集幹部は多い。そんな編集幹部は、賛否両論が出そうな記事は敬遠する。賛否両論があってこそ問題提起になるのに、「姿のない影」におびえて自己規制し、さまざまなタブーを自ら設定するのだ。

 ところが、時流に乗ることは得意なので、世論が盛り上がっている対象については高揚する。表面的には「人権に関心が深い」ようにも見えるが、取材対象への心からの共感に支えられて行動しているわけでは、たぶんない。

 取材事実と共感に裏打ちされて、記者は「伝えたい」との思いを原稿にぶつける。それでこそ、読者へ記者の感動が届く。そんな記者の思いを受け止めてくれる編集幹部があまりにも少ない。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1995年5月号)


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