インタビュー/司法改革

でたらめ捜査と鑑定、裁判所なぜ信用?

作られた証拠で犯人に

「みどり荘事件」冤罪被害者●輿掛良一さん


◆思い込みの捜査で逮捕◆

 ──輿掛(くつかけ)さんが体験された冤罪事件について説明していただけますか?

 輿掛 今からちょうど19年前の1981年6月27日から28日にかけての深夜に、大分市の「みどり荘」というアパートで事件は起きました。203号室に住んでいた短大生が殺されました。私はすぐ隣の部屋に女性と一緒に住んでいました。その日は会社が休みで彼女は実家に帰って1人でした。それで自分で夕食を作って自宅で飲んで寝ていたんですよ。

 気が付いて起きたら1階に人が大勢集まっていた。警察官に玄関で対応するまで、いったい何があったのかはまるで分かりませんでした。聞かれても酒を飲んで寝ていたから気が付きませんでしたと答えるしかない。刑事に尋ねてやっと隣で殺人事件があったことを知りました。朝方4時ごろ別の刑事が来て、今度は警察署で話を聞かれました。

 2日後にまた任意で呼ばれて、取調室でいきなりポリグラフ(うそ発見機)にかけられたのですが、正直に話しているのになぜそんなことをすると押し問答になりました。やってないならなぜ受けられないと言うので、仕方なく受けました。捜査に協力しているつもりなのに、地元紙の夕刊に「重要参考人を呼ぶ」と書かれて、会社からは自宅待機を命じられました。7月中旬に再び刑事がアパートに来たので「あんな報道までされてもう話すことはない」と断ると、刑事に「きょう事情聴取に応じないとまたマスコミに書かれるけどいいのか」と脅されました。

 ──会社からは1カ月間の自宅待機を命じられたわけですが、その後は仕事に復帰されたのですよね?

 輿掛 そうです。警察には下着まで提出したし、指紋や足跡、唾液なども取られましたが、犯人じゃないんだから犯行と結び付くものなんて一切ない。こっちとしてはすっかり疑いは晴れたと思っていましたからね。それで会社にも普通に出勤していました。

 ──逮捕はそれから半年後。事件をすっかり忘れたころでしたね。その間、警察は輿掛さんを逮捕するためだけの捜査を続けたわけですね?

 輿掛 年が明けて1月14日にいきなり逮捕されました。警察は自分のことを犯人だと思い込んで、そればかり捜査して肝心なことを捜査しなかったのです。だから犯人を絞り切れなかった。後で分かるのですが、被害者の部屋に出入りした人の指紋や掌紋など一切採取していないんですよ。

 逮捕された日、地元紙が警察の言うことをうのみにして「逮捕へ」という記事を出したのですが、こっちは逮捕されるなんて思ってもいませんでした。だけど昼ごろに本当に警察が自宅に来ました。逮捕されて玄関から外に出たら、周りは野次馬とマスコミでいっぱいでフラッシュがたかれて…。

◆無理な取り調べ延々と◆

 ──その後も警察や検察で、お前が犯人だろうと決め付ける取り調べが延々と続いたわけですね?

 輿掛 任意の時にも、なんでこんな取り調べを受けなければいけないのかという思いがあったのですが、逮捕されてからは一段と厳しくなりましたよ。1月は大分も寒いのですが、北側2階の取調室の窓を換気のためだとしてちょっと開ける。それで風邪をひいて熱でご飯も食べられない状態だったのに、それでも朝から晩まで取り調べが続きました。薬をくれと言ってもくれない。

 ──ほとんど嫌がらせというか拷問みたいですね。被疑者の体や精神状態が弱っているのを利用して、自供に追い込もうとしているとしか考えられませんね?

 輿掛 熱があるような感じがしたと、裁判になって警察はようやく認めましたよ。そういう状況が分かっていながら、医者にも見せないで薬もくれない。きつい状況が分かっていて朝から晩まで取り調べるわけです。家族にも面会させてくれないし電話もかけられない。逮捕の時にあれだけ野次馬がいたから家族へも余計に心配するじゃないですか。家族に会わせてほしいと言うと、お前も警察の言うことを聞けと。それで供述調書を取られたんです。署名と指印をして。それと引き替えに家族と面会できました。

 しばらくしたら、別の2人が取調室に入って来ました。違う刑事かと思ったら検察官と検察事務官でした。普通ならこっちが検察庁に行くのに向こうから来たんですね。裁判になって検察官が「検察官と名乗った」と言ったので分かったけど、その時はそんなことは全然知らない。聞かれることは警察の調書と同じでしたからね。

◆宣誓しながら刑事偽証◆

 ──1審の裁判はどんな感じで行われましたか?

 輿掛 もう全部が敵で自分の味方は家族と弁護士だけでした。孤立している状態です。大分で、しかも殺人事件の犯人で、おまけに被害者が女子大生ですから「極悪非道」ということになっているわけですよ。その中で弁護団が、検察側の主張・立証を一つずつ崩していく弁護をしてくれました。

 自分の手に古い傷があったのですが、検察側は事件の夜にできた新しい傷だと主張しました。新しくできた傷だと言うのなら、なぜ証拠として記録を残さなかったのかと弁護士が質問したら、刑事は「マスコミがいて、カメラを取調室に持ち込めなかったから写真が撮れなかった」と言い訳するのです。そんな証言を1審の裁判官は信用して有罪判決を出すんですね。刑事が取調室にカメラを持ち込んで何が悪いんですか。堂々と持ち込めばいいじゃないですか。

 さらに「任意だから写真撮影を待つように上司に言われた」と言い出すんです。任意取り調べの段階で自分にポリグラフまで受けさせたというのに。警察も古い傷だと認識したからこそ、写真に残す必要がないと考えたわけです。それを裁判になってから新しい傷だと言い出した。法廷で宣誓しているのに平気でうそをつくんです。裁判官も曇った目で見ているから、こっちの言うことは全然聞いてくれない。

◆硬直した裁判官の思考◆

 ──裁判官はどういう訴訟指揮をしたのですか。輿掛さんを頭から犯人だと思い込み、検察側の主張が正しいという固定観念に支えられて裁判を進めたのでしょうか?

 輿掛 弁護団のいろいろな質問を裁判長が制限するのです。傷がどういうふうにできたか検証をする時にも、固定した動作しか認めずに、いろいろと検証すればいいという弁護団の主張は聞き入れませんでした。硬直した考え方なんですね。裁判長は2人変わりましたが同じでした。

 裁判官はこっちの言うことを聞いてくれているから、次々に証人を呼んで話を聞くのかと当時は思っていました。ところが、検察官が不利になってきているから検察側証人を呼んだり鑑定をしたりするんですね。

 つめでひっかいたら赤くなる傷の発赤反応というのがあるのですが、最大2〜3時間で消えるという鑑定があったんです。刑事が傷を見たのは朝方の4時過ぎで、事件発生は4時間前の午前0時ごろ。それはおかしいと弁護団が指摘すると、鑑定人は「特異な例がある」と言い出すんですよ。何回も実験を繰り返して鑑定書を出しておきながら、都合が悪くなると平気で覆すのです。

 ──検察側の立証が次々に突き崩されていくわけですから、もちろん無罪判決が出ると予想していたでしょう?

 輿掛 1審判決の前日に弁護士が面会に来てくれて、無罪判決が出ても法廷ではしゃがないようにと注意されました。素人の自分でも分かるようないい加減な立証なんだから、裁判官も当然理解してくれて無罪判決が出るものだと思っていました。当然、無罪で出られると思っていましたからね。

 それなのに無期懲役判決なんですよ。裁判長が言い間違えたのだと思いました。言い直すと思って待っていたけど言い直さないので呆然としました。7年も裁判をして裁判所はいったい何を聞いていたのかなと。裁判長がその後に読んでいた内容なんか全然頭に入ってきませんでしたね。

 後でいろんな人から聞いたら、判決には地元感情を組み入れるらしいんですよ。大分県ではマスコミから一般市民から被害者の家族から、あいつしか犯人はおらんというのですよ。裁判官は偉い人だから、刑事のついたうそなんか分かってくれると思っていました。裁判官にそれまで抱いていたイメージは全部崩れてしまいました。

◆間違いだらけの鑑定書◆

 ──2審は1審とは違って、まともな裁判だったのでしょう?

 輿掛 控訴して福岡に行ったんですけど高裁も、1審で有罪判決が出たんだから決まりじゃないか、弁護団や被告は何を言うことがあるんだという感じでしたね。いつ結審して控訴棄却されるかという状況でした。裁判官なんか腕を組んで目をつぶって…。寝ているのか、本当に聞いてくれているのかと不安になりました。そういう状況で控訴審が始まりました。

 弁護団が3人加わって5人に増えたんですね。1審判決を聞いて「これはおかしいじゃないか」と地元の弁護士が名乗りを上げてくれたんです。弁護団が控訴趣意書を出して刑事の再尋問がやっと認められました。この刑事が1審の時と同じことを聞かれたら2審では違う証言をしたんです。

 自分を犯人にするために1審でうそを言っていたわけですよね。うそというのは1回ついたらもう忘れるじゃないですか。本当のことだったら何回聞かれても何年たっても答えは一つ。それで裁判所もこれはおかしいなと感じたんですね。弁護団の主張通りに証人採用され、科警研の毛髪鑑定はおかしいという九州大学の先生による鑑定書も採用された。過去の捜査が誤っているという雰囲気になってきたんです。九大の先生は「科警研の毛髪鑑定は科学の名に値しない」と証言もしてくれました。指紋も毛髪鑑定も傷の問題も、検察側の主張は全部崩れてしまいました。

 ──でも、まだ裁判は終わらない?

 輿掛 さあ無罪判決だという時に、裁判所が職権でDNA鑑定をすると言い出して筑波大に鑑定依頼しました。2年経って、現場から採取された毛髪の中の1本から、自分のDNAと同じものがあったという鑑定が出た。それでマスコミも裁判所も再び自分はクロだと変わってしまいました。

 そんな鑑定が出るはずない。同一とされた毛髪を弁護団が調べたら、長さが全然違うんですよ。16センチくらいある。自分が提出した毛髪は一番長いのが7センチで平均5センチ前後。さらに形態からして違う。当時はパンチパーマをかけていましたが、同一とされた毛髪は直毛なんです。

 鑑定書の中身もおかしかったんですよ。それは自分が発見したのですが、写真に出ているDNA鑑定の数値と文章の中に出てくる数値が50数カ所も間違っているんですね。こんな鑑定が出るわけがないという思いで、拘置所に差し入れてもらった鑑定書を朝から晩までずっと見ていて、おかしい部分の数字を便箋に書き出して写真と見比べてみたんです。どう見ても何回見てもおかしい。

◆第三者のチェック必要◆

 ──そんなでたらめな鑑定が…。でもそれは逆に無実の決定的な証拠ですね?

 輿掛 裁判所と検察官と弁護団の協議が開かれて、そこで弁護団が鑑定書のでたらめを何カ所か指摘したんですね。そうしたら翌々日に鑑定書の訂正書が出てきたんです。すると訂正書も間違っていた。後で弁護団が分析して見つけたのですが、別の鑑定データをつぎはぎして張り付けていたんです。法廷でDNA鑑定自体の信用性がないと追及したら、鑑定した筑波大の学者は「破綻していると言われても仕方ない」と認めました。

 DNA鑑定のおかしさが分かってきて、やっと裁判所は自分の保釈を許可しました。こっちは13年も裁判にかかって1審判決は無期懲役ですよ。人生がかかっているのにいい加減な鑑定を出す。人の人生を犠牲にしてまで、鑑定人は自分の名声を広めようという野心だけで、できもしない鑑定をできると言うのです。そういう人間が平気でいられるのが不思議です。無罪判決が出た後も鑑定書を出した筑波大の三沢教授と原田助教授から謝罪は一切ないですよ。マスコミからも謝罪はありませんね。

 ──裁判の中で鑑定というのは本当に大きなウエートを占めるものですね。しかも鑑定人によって鑑定結果がどうにでもなってしまうわけですね?

 輿掛 鑑定の依頼者に沿った考えの鑑定人だったら、依頼者の意向に沿った鑑定結果しか出さない。結果だけならどうにでも操作できます。第三者が見てきちんとチェックできるような鑑定方法が確立されないと。自分の場合は裁判所の職権による鑑定だったので途中のデータも全部出てきて、資料を分析したから鑑定書のでたらめが分かりましたが、科警研だと鑑定結果しか出さないからチェックのしようがない。そんなもので人の人生を決めてしまうのはおかしいですよ。

 ──そして1995年6月30日に晴れて完全無罪判決。検察も上告を断念して無罪が確定しましたね?

 輿掛 「やっと」という感じでしたね。ところが事件の時効まで1年あったのに、警察は再捜査をしませんでした。「市民に呼びかけても新たな情報は得られない」と、呼びかけもしないでそういうことを言う。それについてマスコミも何も言わないのですね。

◆代用監獄の廃止が急務◆

 ──「司法改革」について言いたいことはありますか?

 輿掛 自白調書がどこでどういう状況で取られるかが問題です。自白を強要して違法な取り調べを行うための施設が代用監獄です。そうやって得られた調書を真実として裁判官が信用してしまう。警察の代用監獄を廃止しなければ自白の任意性は確保されません。

 少なくとも取り調べをテープレコーダーで録音すべきです。今ならビデオもあるのですから、どういう表情で被疑者が取り調べに答えているかが分かります。第三者がチェックできるように記録に残す方法を導入してほしいですね。それが冤罪事件を防ぐことになる。原則を守るのならば、現行法のままで十分だと思います。代用監獄などという特例を設けるからおかしくなるんです。

 陪審制は日本にはまだ早いと思います。日本人は議論をして、自分の意思を貫けるような育ち方をしていないじゃないですか。人の意見にすぐに合わせるでしょう。陪審員として選ばれて陪審裁判に参加した場合、自分の意見を最後まで主張できますか。ほかの人がみんな有罪と言っている時に、一人だけ無罪だと言えるでしょうか。

 それよりも裁判官を増やして、じっくりと判断できる体制にすべきではないですか。それは検察官にも同じことが言えると思いますね。警察から送られてきた書類や証拠をじっくりチェックできるように、人員を増やすべきです。


【輿掛良一さんプロフィール】 くつかけりょういち。1956年、大分県生まれ。1981年の大分・女子短大生殺人事件(みどり荘事件)で不当逮捕された冤罪被害者。1審で無期懲役判決、2審で逆転無罪判決を勝ち取った(確定)。事件前まではホテル勤務。逮捕後に解雇。現在はダンプカーの運転手をしている。「当番弁護士の無料救急活動を支援する市民の会・大分」メンバー。労働組合「大分ふれあいユニオン」書記次長。

初出掲載(「月刊司法改革」2000年8月号)


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