司法改革●リポート・法教育の現状

自立した市民を育てる

「身近な司法」意識できる教育を

法律を使って権利守る必要性


●権利を守るための授業●

 「教科書は憲法などの公法が中心で、安保や基本的人権はあっても、民法や消費者法についてはほとんど触れていない」と話す都立府中高校の鈴木辰郎教諭は、社会科の政治経済の中で、消費者の立場に立った授業を意識的に行っている。

 PL法(製造物責任法)や消費者契約法を取り上げることもある。最初に「これまでは消費者が泣き寝入りすることが多かったが、消費者側に有利な法律ができた」などといった説明をしたうえで、商品の取り扱い説明書の分析をさせたりするという。

 「例えば、自転車のサドルを一番高い位置まで上げて乗ると折れてしまうとか、ブレーキが利かないとかで思わぬ事故に遭ったとしても、消費者の使い方が悪いということで泣き寝入りしたり、スズメの涙ほどの補償金しかもらえなかったりということがある。製品そのものに欠陥があってもです。自分だけで済まさず社会性を持った行動が必要です。そんな具体例を示しながら身近な問題として考えてもらえるようにします」

 契約やクレジットの問題など、鈴木教諭は3時間〜4時間かけて授業をする。高校時代に少しでも教わっていれば、社会に出て何かあった時に、消費者センターの相談窓口を気軽に訪ねることにつながると話す。

 「大学生や社会人になってアパートを借りることもあるでしょうが、借りた部屋を出る時に、不動産屋がいろいろな理由をつけて敷金を返さず訴訟になることも多い。実際に法律を使って権利を守っていく、真の解決能力を身に付けることが必要でしょう。暗記ものも大切だが、身近で生活感のあるところから理解させていこうと思っています」

 子どもたちの懐を狙った悪質商法による被害や、高校生のアルバイトをめぐるトラブルも後を絶たない。通販、携帯電話、インターネット、教材、マルチ商法など、紛争の種類は多岐にわたる。そんな実態を踏まえ、消費者教育支援センター(東京都渋谷区)は経済企画庁の委託で今春、弁護士や現場教師らの協力を得て、トラブルや紛争解決の手段などを分かりやすく解説した冊子を作った。こうした冊子を教材に使って、消費者問題について授業をする教師も増えているという。

●教科書に具体的記述を●

 東京工業大学工学部附属工業高校の保立雅紀教諭は数年前、殺人事件を題材にした模擬陪審裁判を、社会科の授業に取り入れたことがある。

 証拠認定などの場面では大いに盛り上がった。しかし最初のうちは面白がっていた生徒たちも、退屈な審理が続くと飽きてきた。それに授業の間隔がどうしても開いてしまうので、前に聞いた内容を忘れがちになる。実際の裁判手続きを進めていくと相当な時間を取られ、模擬裁判だけで年間に10時間も使ってしまった。教科書と時間の制約がある中で、反省として残っているという。

 「それにしても、教科書はここ20年ほど全然変わっていませんね」と保立教諭は不満を漏らす。「司法についてもっと取り上げた方がいいんじゃないでしょうか。授業の中で話題にすると、生徒は関心を持って聞くのですが」

 人権、逮捕、刑事訴訟法などについて、国の立場からの記述は少しある。しかし例えば刑法の意味や、刑事罰と行政罰との違いなどは、教科書にも資料集にも載っていない。

 「どうしても入試が前提になるし、教科書はページ数も決まっている。単元として司法の入るところがないんですよね。学習指導要領ではっきりと触れてもらわなければ、教科書はなかなか変わらないでしょう」

 弁護士会がPRしている「当番弁護士」などの言葉は載っている。しかし、教科書の記述は具体性に欠ける。弁護士を頼むのに料金はいくらかかるか、どうやって頼めばいいのか、本人だけで訴訟はできるのか。そんな視点が抜け落ちていると保立教諭は批判する。生活する上で知っておいて欲しいことを、プリントにまとめて生徒に配るという。

 「他人に殴りかかった場合はどういう犯罪になるか、友達の髪の毛を勝手に切ったらどうなるだろうとか、大学の法学部に進学する人でなければ、そんな話を聞く機会はたぶんもうないでしょう。最低限の知識を身に付けて高校を卒業して欲しい。法律について1回でもいいから具体的な話を聞いていれば、いざという時に役に立つ。アメリカでは『市民として必要な話』が教科書にきちんと具体的に書かれていますよ」

 憲法以外のさまざまな法律について、教科書で説明されていないのが、保立教諭はとても不満だ。民法や相続、連帯保証、知的所有権、契約、法人、取り引き、行政訴訟など身近で重要な問題の説明がほとんどない。「平和主義について歴史的なことを延々と載せるより、そこを削ってでも載せた方がいいと思います」と提案する。

●教師は授業を工夫して●

 では、学校での法教育の在り方について、文部省はどう考えているのだろうか。

 教科書や授業の指針と位置付けられているのが学習指導要領だが、中学・高校の社会科を担当している文部省初等中等教育局の大杉昭英調査官は「限られた時間で何を教えるかということで、あれもこれもと何でも盛り込むことはできない。中学・高校で完結させるのではなくて、生涯にわたって学習するというのが中教審(中央教育審議会)の基本的なスタンスです」と説明する。

 そのうえで、中学・高校の社会科では基本的な枠組みや考え方を教えることが、重要だと強調した。

 「中学・高校では憲法の基本的な考え方や枠組み、個人の尊厳、平等などを学び、細かいことは大学で学ぶ。恣意的支配を防ぎ、人権侵害から身を守るといった民主政治の基本的な考え方は変わっていません。もちろん具体的で身近な事例で考えていかなければ身に付かないので、時事的事例などは、子どもの理解に合わせて現場で工夫して教えてもらいたい。消費者保護と行政の働きや、賢い消費者をどう育てるかといった内容は家庭科でも教えます」

 学習指導要領が改訂され、中学は2002年度から実施、高校は2003年度から実施される。新学習指導要領には「生きる力の育成」や「問題解決的な学習」などがうたわれているが、その一方で、完全学校週5日制の導入に伴い、高校の現代社会の標準単位数は4単位から2単位に減った。ただでさえ教えるべき課題は山のようにあるのに、さらにその中で司法についてどう教えればいいのかと戸惑いを見せる教師は少なくない。

 「現代社会は4単位から2単位になるが、新学習指導要領では『法と規範』という新しい項目を設けて、しっかり学習できるようにしている。教科書はミニマム・エッセンシャルなもので、普通の先生は新聞やテレビなどのニュースを教材にしながら、工夫した授業をしているのではないでしょうか」

 学習指導要領や教科書には、市民生活に身近で具体的な法律の記述が不足しているのではないか、という現場の声に対し、大杉調査官は「指導要領は基本的な枠組みや考え方などといった上位概念を示すもので、個々の学習内容を示すものではない。それぞれの授業の中で工夫をお願いしたいということです。教科書を教えるのではなく、教科書で教えてほしい」と理解を求めた。

 「中学では授業で討論したりすることは多いですよ。模擬裁判や模擬選挙、劇などをする学校もあります。ディベートや研究会活動も盛んだし、高校ではジュリストなどの裁判関係の資料を生徒に配って、法律をどう考えるか討論しています」

●指導要領に変化の兆し●

 新学習指導要領の作成に携わった筑波大学の江口勇治助教授は「法教育の面で言えば現行より少しは変わった」と述べ、新しい指導要領を積極的に評価する。

 「中学校社会科の公民的分野では『合意に基づいてルールがつくられている』という文章が入ったのは大きな変化かもしれない。前と比較するとほんの少しふくらんだと思いますね」

 文部省による中学校社会科の「新学習指導要領解説」には、「裁判官、検察官、弁護士などの具体的な働きを理解させること」などといった指針が示されている。現在検定作業が進められている教科書は、法律家の仕事や国民の司法参加について記述されるなど、これまでとはかなり変わった内容になるのではないかと分析したり、法廷傍聴についても書き始めるのではないかなどと予想したりする関係者もいる。

 「法律は知らなくてもいいというスタンスでこれまで国はやってきたのだから、そんなに急に変わるわけはないが、中坊公平さんが出てきて発言するようになってから少しは変わってきたかもしれないですね。そういう意味では、思ったほど変わらなくはない。だけど、思ったほど現実がついてこれるのかどうかは疑問です」

 江口助教授は法教育を取り巻く環境について、そんなふうに解説する。学校で法教育と言えば、長い間ずっと憲法教育を中心にやってきた。もちろん憲法の理念や考え方を教えるのは重要だが、しかし新しい学習内容を教えるためには、刑法や司法手続きなどを教師自身が勉強しなければならないということを考えれば、今まで通りの内容を教えていた方が、現場としては楽に違いない。

 そもそも、法律学は政治学の一分野だという考え方が強く、文部省の社会科の調査官も政治学や経済学の専門家が中心で、指導要領の作成作業の過程にも刑法や民法の専門家はかかわっていないという。「アメリカでは高校に法律の科目がちゃんとある」と江口助教授は指摘する。

 しかし、新しい学習指導要領作成の過程には「政治だけでなく、法律で問題を解決していくルールが大切だ」という考え方や雰囲気があった。だからこそ、わずかながらの改善かもしれないが、政治と法の両方に配慮した内容になったのだという。

 「司法制度改革審議会がスタートするころには、新学習指導要領はもう完成していたんですよ。今だったら、司法改革や法教育についてもっと学習指導要領が影響を受けていたかもしれませんね」

●消費者からの視点こそ●

 今年3月に成立した消費者契約法が、2001年4月から施行される。国民生活センター研修生活研究部・主任研究員の安田憲司さんは、この法律の登場によって、消費者は「身近な司法」というものをより強く意識することになるだろうと予想する。

 「事業者は契約前に必要な情報を消費者に提供しなさい、告知しないままの契約は無効ですよ、などと規定しているのが消費者契約法です。例えばクーリングオフだと通産省が企業を強力に指導したりしますが、消費者契約法では所管官庁が業界を監督しているわけではないので、消費者自身が司法・裁判で問題を解決することになる。消費者が法律を使えるように、いかに教育・援助できるかというのが今後の課題になるでしょう」

 そういう意味では、これまで「消費者の権利を守る」ための法教育は、あまり熱心にされてこなかった。市民・消費者が司法を身近なものにするという視点は、すっぽり抜け落ちていたと言える。

 「それぞれの業界を所管する官庁や行政にお願いして指導・監督してもらい、守ってもらうのではなくて、消費者は自分自身をどうやって守るかという力を身に付けなくてはならない。守ってくれるのは司法・裁判しかないわけですが、法律を使ってどうやって闘うか、いかに損害を減らせるかという観点からの教育があまりされていません。学校では社会科や家庭科で教えますが、先生が熱心かどうかによって差があるようですね」

 安田さんはそう指摘して、市民の立場からの法教育とそのカリキュラム(プログラム)の必要性を強調した。

 「法律の知識を持った消費者が育っていくことで、法律を使って社会のルールを変えていくことや、あるいはルール通りに動くように進めていくことができる。企業の側からでなく、消費者の側からの司法改革が必要ではないでしょうか」

●法知識をもとに社会へ●

 市民・消費者に対する法教育は、消費者教育や生涯学習という形で、いくつもの地方自治体や消費者センターが積極的に取り組んでいる。市民講座やセミナーなどを開いて啓蒙活動をしている自治体も多い。

 東京都港区立生涯学習センターは今年10月、明治学院大学とタイアップして「法および社会における消費者」と題する連続8回の公開講座を開いた。「相談の現場から見た消費者の実像」や「消費者保護法制の現状と課題」などのテーマで、同大学の教授陣や国民生活センターの職員らが話をした。

 区立生涯学習センターは明治学院大学とともに毎年春と秋に区民大学講座を開いているが、消費者教育を扱ったのは今回が初めて。明学大の法学部が今年4月に専門学科として「消費情報環境法学科」を新設したのを記念して、市民に講義のさわりをかみ砕いて紹介しようと企画したという。

 内容は専門的で難しかったようだが関心は高く、20歳代から70歳代まで約50人の市民や学生が、メモを取ったり質問したりしながら熱心に受講した。

 「消費情報環境法学科は、法律的知識をベースに社会的問題を解決していく、自覚ある消費者を育てていく学科です。これまで法学部ではこういうことはあまり教えてきませんでしたが、これからは自己責任が重視される時代になるので、消費者として知識を持った人を育てていかなければならないと考えています」 

 新学科の立ち上げを推進した法学部長の京藤哲久教授は、消費情報環境法学科のコンセプトをそう説明する。法を体系的に学ぶ法律学科とは、「現代の法に即して学ぶ」という点が大きな違いだ。

 消費者の視点から法制度を見直そうという発想から、消費者法・環境法・企業活動法の3つに重点を置いたカリキュラム編成で、消費者法関係だけで30単位以上の科目がある。国民生活センターとも連携し、実務家を招いた消費者法の演習も3年生を対象に行う予定だという。ほかの大学の法学部にはない新しい試みの学科だ。

 これまでの大学の法学部とは違った、市民生活に密着した教育と言えるだろう。法律や消費情報を使いこなして社会にアクセスしようという高校生や社会人にとって、魅力ある存在になる可能性も秘めている。

 「消費者の問題は中学や高校では家庭科で教えることが多い。でも、先生自身に消費者法の基礎知識がなければ教えられないでしょう。教員志望の学生が他大学から受講できるような制度も、将来は考えていきたい」と京藤法学部長は話している。

初出掲載(「月刊司法改革」2000年12月号)


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