コラム/インターネット論

◎大岡みなみの「HPジャーナリスト」


(5)「正当な評論」には愛がある〜サイト批評ページ/中

 前回から3回にわたって「サイト批評のページ」を考察している。今回も、前回に続いて「ホソキンズルゥム」を題材にしながら、サイト批評の在り方についてもう少し論じてみたいと思う。

       □■□

 「ホソキンズルゥム」の作者は、出版社勤務の愛・蔵太(あいくらた)さんだ。蔵太さんが、このような「サイト批評ページ」を作ったのは、他人のホームページをこき下ろすためではなくて、本来の目的は、面白いホームページがあることを広く紹介したかったからだと言う。

 「面白いサイトがこんなにあるのに、なぜ自分のページよりもアクセスが少ないのだろうとの疑問からですね。もともとは、悪口を言うためのページではありません」

 サイト批評は蔵太さんにしてみれば、玉石混交のホームページの中から「原石を探すための作業」なのだ。

 もちろん、切り口鋭く短い文章でばっさり批評するから、反感を買うこともある。面白くないページに対する蔵太さんの批評は、本質を突いているだけに辛辣(しんらつ)で容赦ない。

 褒められたらうれしいし、けなされれば悔しいと思うのは人間として当たり前の感情だ。しかし、それが事実に基づいた「正当な評論」の範囲内であるなら、世間に公開した著作物についてあれこれと言及されることは、ある程度は覚悟しなければならないだろう。

 「自分のページをみんなに読んでもらいたいけれど、悪口を言われるのは嫌だというのは虫がよすぎる。それに、読んでいる100人が100人とも面白いだろうと思うことがそもそもおかしい。どんなものであっても、必ず何人かは面白くないと感じる人がいるのが普通ですよ」と蔵太さんは話す。

 ただ、一日のアクセスが平均1000件を超えるだけに影響力も大きい。蔵太さんの評価に一喜一憂し、呪縛されてしまう人もいる。他人の目を気にしすぎて、第三者による見方を自分の中で相対化できない人も少なくない。それで、批評されると怒り出す人も出てくる。

 では、批評のためのガイドラインはあるのだろうか。「人を傷つけるのが目的であってはならない。これがサイト批評をする際の基準ですね」。まったくその通りだと僕も思う。評論するには最低限の「愛」が必要なのだ。見ず知らずの他人をただ単にこき下ろし、罵倒して侮辱するだけでは、とても批評や評論などとは言えないだろう。

 もう一つの基準は、身内だけに読んでもらいたいと考えて個人が開いているホームページには決して言及しないことだという。人の家に土足で入って暴れ回るようなことはできないからだ。

 だから、ホームページの作者が、自分自身で登録申請する「ReadMe!」というリンク集に掲載されたページだけを、蔵太さんは批評の対象にしている。

 一方、こうした個人運営のホームページが批評対象の「ホソキンズルゥム」に対して、公共性の高いページを対象にした批評ページもある。

 「あきれたページ」といって、役所や各種団体などの公的機関、企業、シンクタンク、学校、国会議員のホームページを批評対象にしている。コンテンツが整理されていなくて読みにくい、更新が全然されていない、といったページを見つけてきて反面教師にするのが目的だ。

 批評対象になっているページはどれも極めて公共性が高いので、内容のお粗末さはもちろん、アクセスのしにくさについても厳しく指摘して改善を促すのは市民として当然の権利である。弱い立場の個人を攻撃しない姿勢も徹底している。貴重なページだ。

  (この項つづく)


◇「ホソキンズルゥム」は現在、サイト名を「ヘイ・ブルドッグ」に変更して運営されています。

◇「ヘイ・ブルドッグ」URL:

http://www4.gateway.ne.jp/~lovedog/

◇「あきれたページ」URL:

http://www.pro.or.jp/~fuji/horrible/index.html


初出掲載(「ニフティ・スーパーインターネット」1999年9月号)

=雑誌掲載時とは表記や表現など一部内容が異なります

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