コラム/インターネット論

◎大岡みなみの「HPジャーナリスト」


(3)掲示板は「便所の落書き」か

 僕がまだ、自分自身のホームページを開設する前のことだ。1997年6月。神戸市須磨区の小学生殺害事件で、容疑者として中学3年生の少年が逮捕された。いわゆる「酒鬼薔薇事件」である。

 少年逮捕の直後から、インターネット上に設けられたいくつもの掲示板には、容疑者の少年を特定するための個人情報が猛烈な勢いで書き込まれていった。少年の実名や住所、電話番号などの公表は当たり前。電話帳で調べたのか、近所に住む同姓の人の名前を手当たり次第に載せるなど、虚実入り乱れて何でも書き込まれる。写真週刊誌に少年の顔写真が掲載されてからは、写真を拡大して転載するサイトまでが数多く登場した。

 例えばこんな書き込みもあった。ある人物が「本名は◯◯◯◯です」と掲示板に書き込むと、間髪入れずに別の人物が「◯◯◯◯、決定! じゃあ、次、生年月日、住所、電話番号いってみよう!」と応じる。そんな調子だった。そして、これらの掲示板での発信者は、全員が間違いなく匿名で発言するのである。

 大半の人間は面白半分で「容疑者特定ごっこ」に加わり、あるいは野次馬的な感覚で少年への私刑(リンチ)を楽しんでいたのだろう。ところが、彼らは自分たちの行為をこんな論理で正当化するのだ。「容疑者が少年だから保護されるのはおかしい。被害者の人権はどうなる。だから実名も顔写真も掲載する」。さらに、インターネットを使った個人情報の暴露がマスコミに叩かれると、「表現の自由」「言論の自由」を持ち出してマスコミ批判を展開し始めるのだった。

 だが、この論理はおかしい。本当に人権について考えているのならば、容疑者が少年であってもなくても、そして容疑者と被害者のどちらであっても、すべての顔写真を掲載しないのが筋というものだろう。そもそも、どちらのプライバシーも暴かないはずだ。また、こうした無法な掲示板への批判に対して「表現の自由」や「言論の自由」を持ち出すのも、あまりにも場違いで的外れの物言いである。他人の人権を侵害して、事件そのものをおもちゃにしている側が、そのような崇高な理念を掲げても滑稽なだけで、説得力がなさ過ぎる。

 だがその一方で、彼らが掲示板などで指摘していた「マスコミの偽善」には、考えさせられるものがあった。「犯人が少年でなかったら、マスコミはわれ先に顔写真を公開したはずだ」「被害者の個人情報を必要以上に公開しているではないか」という指摘は、事件報道の在り方への鋭い批判だ。既存メディアであるマスコミが、こうした指摘に真摯に耳を傾けないでいると、取り返しのつかないことになってしまうだろう。

 これまではマスコミが報道することによって、情報は初めて社会に広く伝えられていった。つまり、マスコミは独占的に情報を管理・支配してきたのだ。それがインターネットの登場で、だれもが素早く世界に向けて情報発信できる時代になった。瞬時に情報が広がる点で、インターネットは間違いなく、大きな影響力を持った「もう一つのメディア」になろうとしている。

 だからこそ、何でもありで無責任な情報を垂れ流すような状態は、社会的には許されないのだ。インターネットの掲示板は「便所の落書き」ではない。個人による情報発信だから何を書いてもいいという発想では、自分で自分の首を絞めることに間違いなくなるだろう。少なくとも不特定多数に向けて情報発信する限りは、社会性を持った「公器の部分」が生じてくると思うのだ。

初出掲載(「ニフティ・スーパーインターネット」1999年7月号)

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