新・大岡みなみのコラム風速計

【インターネット版】

(書き下ろし不定期連載。毎月末更新の努力はします)


INDEX

21)「被害者証言」の検証は当然だ・前編(2009年6月)

22)「被害者証言」の検証は当然だ・後編(2009年6月)

23)フェミニズム女性の的外れな主張 (2009年11月)

24)「市橋容疑者」に飛び交う怒号 (2009年11月)

25)「ビラ配布」有罪判決は妥当だ (2009年12月)


◇新・風速計21◇

「被害者証言」の検証は当然だ・前編

痴漢冤罪をつくらせないために

 「痴漢冤罪と被害者証言の信用性」について書いた記事に対して、読者の女性からご意見のメールをいただいた。「これはジェンダーの問題だ。被害者証言の信用性を問われて、痴漢や性暴力を訴えづらくなってしまうのはおかしい」という内容だった。

  ■垂れ流す逮捕情報■

 まず、最初に僕が書いた記事を紹介する。次の通りだ。

 ◇◇

 東京・霞が関の弁護士会館で、日弁連の「全国冤罪事件弁護団連絡協議会」の集会を取材した。電車内で携帯電話をかけていた女性に注意した男性が、女性から腹いせに「痴漢をされた」と言われ逮捕・勾留された「沖田事件」をテーマに、被害者証言と被告人供述の信用性の判断基準が議論された。

 この事件で嫌疑不十分で不起訴となった男性は、女性と東京都(警視庁)と国(検察庁)に賠償請求を求めて提訴。最高裁は東京都と国に対する請求は棄却したが、女性に対する賠償請求については原判決を破棄して、東京高裁に差し戻す判決を言い渡した。

 ウソの被害者証言がなされた場合について、心理学の見地から奈良女子大学の浜田寿美男教授は、「自称被害者の女性の証言は想像の産物としか思えない。無実を主張する被告人供述との間で水掛け論になると言われるが、間違った証言やウソの証言のチェックは可能だ」と分析した。

 また「沖田事件」の弁護団は、「羞恥心を乗り越えて被害を申告しているのだから被害者の証言は真実だ、などと裁判官は判決で言うが、そういうところから発想してもらっては困る」と述べて、女性の証言と客観的事実との矛盾を指摘。「裁判所に言い逃れさせない努力が弁護団には必要だ」と締めくくった。

  ■「被害者を疑うな」とメール■

 この記事に対して、読者の女性からご意見のメールをいただいた。

 「痴漢被害者の圧倒的多数は、痴漢の恐怖と被害者証言の信用性を問われる恐怖があるので耐え忍んでいる。これはジェンダーの問題であり、日本社会で女性の言葉の信用性は低い。ウソの証言をするごく少数の女性のために、被害者証言の信用性を問われて、痴漢や性暴力を訴えづらくなってしまうのはおかしい」という趣旨の内容だった。

 いろいろな意味で参考になるご意見だと思ったので、女性に返信メールを書いてた。以下、女性に返信した僕のメールを紹介する。

  ■「証言」の確認は捜査の責務■

 メールありがとうございました。痴漢は重大な人権侵害であり、言うまでもなく悪質な犯罪行為として、厳正に対処すべきだと私も考えています。しかし罰せられるべきなのは、あくまでも真犯人であって、無実の冤罪被害者が証拠もなしに拘束され、自由を奪われていいはずがありません。そこで重要なのが「事実とは何か」ということになるでしょう。

 「間違った証言やウソの証言」をきちんとチェックし、証言内容の真偽を確認した上で、客観的な物的証拠を確保することこそが、捜査当局の責務であり、弁護人の仕事だと思います。この作業が入念に行われていれば、そもそも裁判で被告人は有罪にはならないはずですし、逆に、この作業が入念に行われていなければ、誤った事実に基づいて、無実の被告人が有罪判決を受けてしまうことにもなりかねません。

 もしも、誤って逮捕された被告人が「無罪」となるとか、誤って逮捕された被告人が「誤って有罪」にされることになれば、貴重な時間を無駄に浪費させられたという点で、それは被告人も被害者も、どちらにとっても不幸と言わざるを得ないでしょう。

 痴漢の被害者が、精いっぱいの勇気を振り絞って、声を上げる大変さは、少なからず理解しているつもりです。恐怖を乗り越えて、大変なエネルギーを必要とすることも分かります。ただ、悪意を背景に、あるいは逆恨みや愉快犯などの理由で、意図的に相手を罪に陥れるための虚偽の証言をする、といったケースは例外だと思いますが、「勘違い」や「誤認」によって犯人ではない別人を、犯人としてしまうことはあり得るのではないでしょうか。

 そういう可能性を排除して、無実の容疑者(被告人)を有罪にしないために、「間違った証言やウソの証言」をきちんとチェックし、証言内容の真偽を確認した上で、客観的な物的証拠を確保することが求められると考えます。

 「被害者証言の信用性」について書いたこの記事は、日弁連での集会を取材した際に、以上のような観点から議論されたことを短く報告したものです。ご理解いただければ幸いです。貴重なご意見・ご感想をいただいて感謝いたします。

(この項つづく)

(書き下ろし:インターネット版2009年6月)=「身辺雑記」を一部修正


◇新・風速計22◇

「被害者証言」の検証は当然だ・後編

ジェンダーを主張する人の論理の危うさ

 「痴漢冤罪と被害者証言の信用性」の記事に対して、読者の女性からいただいたメールは、あまりにピントのずれた的外れな内容だった。論点がまるで把握できていない典型的な事例として、参考になるだろうと思って紹介した。ところがその後、さらに輪をかけて論点のずれたメールが再び同じ人から届いた。前回のメールはそれでも一応は筋の通った文章だったのだが、再反論のメールはなんとも思い込みが激しく支離滅裂な内容で、正直なところ唖然としてしまった。

  ■あり得る誤認逮捕■

 「被害者証言の信用性」の記事は、1)無実の冤罪被害者が証拠もなしに逮捕され有罪となっていいはずがない、2)被害者の証言の裏付けを取って客観的証拠を確保し、間違った証言やウソの証言をチェックすることこそが司法の責務だ、3)これは被害者にとっても、無実の罪で逮捕された冤罪被害者にとっても、双方の利益となる作業である──この3点を基本的な考え方のポイントとして、刑事裁判の基本原則を指摘したに過ぎない。

 読者の女性に対して、僕から返信した説明のメールも同様だ。

 そもそも「痴漢行為を受けた」ことが紛れもないない事実であるとしても、被害者から痴漢行為の犯人だと指を指された人物が、そのままイコール真犯人とは必ずしも言えないだろう。痴漢行為のまさに真っ最中に手を掴むことに成功したというのなら文句なしの現行犯だが、多くの場合はそうとは限らない。体が離れてしばらく時間が経ってからとか、車内から駅のホームに出た直後といった時点で手を掴むケースも少なくない。

 そうだとすれば、「痴漢行為を受けた」ことは事実であっても、真犯人とは別の人間を犯人だと思い込んだ誤認逮捕が十分に起こり得る。これでは、みすみす真犯人を取り逃がしてしまうばかりか、無実の人間を犯罪者に仕立て上げる結果になってしまう。だからこそ、証言の裏付けをきちんと取って客観的証拠を確保することが重要になってくるのだ。

  ■冤罪を助長し加担■

 事実の確認をするのは社会常識だ。ましてや一人の人間の身体の自由を奪って拘束して刑罰を与えるという場合には、事実の確認をことさら慎重に行うことが求められる。証言の裏付けを取って真偽をチェックし、客観的証拠を集めるのは、捜査当局が当然やるべき最低限の作業だ。それが刑事裁判の基本原則である。それを怠って被害者の証言を鵜呑みにして有罪と判断してしまうことに、疑問を感じない方がむしろ怖い。

 そういう想像力が、メールを送ってきたこの人にはまるで感じられなかった。「被害者が証言にしくい」ということと、「被害者証言をきちんとチェックすべきである」こととはそもそもまったく別の話で、論点がかみ合っていないにもほどがある。

 しかもこの人の「再反論」のメールには、「被害者の証言だけで処罰できないのであれば、ほとんどのチカン犯罪は裁かれることなくやりたい放題ということになる」と書かれていた。唖然とした。刑事裁判の基本原則をまるで理解していないのだ。「被害者の証言だけで処罰できる」などということがまかり通れば、いったいどういうことになるか考えたことはないのだろうか。そちらの方がはるかに大変な事態ではないか。あきれてものが言えないとはこのことだ。想像力の欠如もはなはだしい。まさに、冤罪を助長し冤罪に加担するに等しい犯罪的な主張だ。

  ■思い込みが激しい■

 さらにこの人は、京都教育大学の学生による集団強姦事件を持ち出し、「その場のみんなが合意があったと言えば、被害者の証言はデタラメだということになるのか」などと言い出した。

 そんなことはだれも言っていないし、どこをどうすればそんな論理展開になるのか、まるでさっぱり理解できない。痴漢冤罪の証言内容のチェックの必要性と客観証拠の重要性の話をしているのに、この事例を持ち出すのは不適当ではないか。さすがにこれにはドン引きした。支離滅裂としか言いようがない。そもそもこんなメールを、どうして僕のところにわざわざ送りつけてくるのか訳が分からない。

 思い込みが激しいのは結構だし、読解力や想像力がないのも勝手だし、「ジェンダーバイアス」を振りかざすのもご自由になさればいいと思うが、相手の論旨や論点をきちんと理解できないでいながら、的外れでピントのずれたかみ合わない主張を一方的に展開するのはいかがなものか。世間一般には通用しないし、説得力も持たない。こういう思い込みの激しい人がいる限り、冤罪事件はなくならないだろうなと痛感した。

 なお、この人は「メールを全文掲載するなら私の名前を明記せよ」と意味不明の主張をしたため、メールの内容はすべて要約紹介にした。

(書き下ろし:インターネット版2006年8月)=「身辺雑記」を一部修正


◇新・風速計23◇

フェミニズム女性の的外れな主張

刑事裁判の「基本原則」を忠実に

 いわゆる「フェミニズム」の運動に熱心な女性たちが、痴漢事件の無罪判決に対し疑義を訴える主張を週刊誌で展開している、と知人の記者から教えられたので読んでみた。驚くやら呆れるやら、その主張はおよそ論理的でも理性的でもなく、全く説得力を持たないというのが率直な感想だった。

  ■嘘やでっち上げも■

 彼女らの論旨を簡単にまとめると、「被害者である女性は勇気を出して声を上げているのだから、その証言には間違いなどあるはずがない、女性側の証言に疑いを差し挟んで否定するのはおかしい」ということになる。

 もちろん痴漢は許し難い犯罪行為だ。被害者の女性はしっかり守られて権利の回復がなされなければならないし、痴漢をした犯人は厳正に処罰されなければならないことは言うまでもない。

 しかしそのことと、女性の証言によって名指しされた容疑者が犯人であることとは全く別の話だろう。容疑者とされた人物と犯人とは、必ずしもイコールではない。女性が痴漢行為をされたことが「事実」だとしても、容疑者と真犯人を取り違えているかもしれないし、事実誤認や勘違いの可能性もあるだろう。もしかしたら女性側の証言は嘘で悪意によるでっち上げの場合もあり得る。

  ■科学的な証拠こそ■

 だからこそ、証言や供述だけに頼ることをしないで、客観的で科学的な証拠を得る努力が、捜査当局には強く求められるのだ。きちんと裏付けをした上で、証拠を集めて立証するのは捜査の基本である。そういう基本的なことを怠って、あやふやな証言や供述だけで有罪にされてしまったらたまったものではない。

 容疑者の逮捕や取り調べは、法律と適正な手続きに基づいて行われなければならない。客観的で科学的な証拠が示されて、そうして初めて被告人は有罪を言い渡されるべきなのだ。十分な証拠が示されなければ被告人は有罪とはならない。これは痴漢事件に限らず、刑事裁判の基本原則だ。「犯罪の証明がない」「証拠不十分」「疑わしきは被告人の利益に」として無罪が言い渡されるのは、実は刑事裁判の基本原則を忠実に守っているだけのことで、当たり前のことを当たり前に判断しているに過ぎない。

  ■証言だけに頼るな■

 繰り返して指摘するが、だからこそ証言や供述だけに頼らず、客観的で科学的な証拠を集めて立証する責任が、捜査当局には強く求められるのだ。

 「女性の証言に間違いはない」と主張する「フェミニズム」の運動家は、刑事事件の基本原則はおろか人権そのものを理解していないのだろう。論理的で科学的な思考能力が、そもそも欠如しているとしか言いようがない。批判するべき相手はまともな捜査や立証活動をしなかった捜査当局なのに、攻撃の鉾先がまるでずれている。

 こういう「フェミニズム」運動家の的外れな主張が、痴漢冤罪に加担していることを論者は自覚して猛省すべきだ。

(書き下ろし:インターネット版2009年11月)=「身辺雑記」を一部修正


◇新・風速計24◇

「市橋容疑者」に飛び交う怒号

醜悪な映像を垂れ流す感性に絶句

英会話講師の英国人女性の死体遺棄容疑で、全国に指名手配されていた市橋達也容疑者が大阪市内で逮捕された。夜のニュース番組を見たが、NHKも民放も市橋容疑者が移送される映像を繰り返し流し続けた。新幹線の新大阪駅と東京駅のホーム、さらには東京駅の周辺は記者やカメラマンでごった返し、カメラのストロボがひっきりなしに炊かれ、怒号と罵声と悲鳴が飛び交う姿は醜悪そのものだった。

  ■マスコミに嫌悪感■

 整形までして2年7カ月も逃げ回った上に、英国でも問題になっていることもあって大事件のようになっているけれども、これほど大騒ぎするような話ではないだろうに。そもそも容疑者の移送を延々と追いかけて、ニュース番組で何回も繰り返し放送するようなことなのか。

 このような映像を垂れ流して、容疑者をさらし者にするテレビ局の報道スタッフの姿勢には大変な違和感がある。しかしさらに心底から驚きあきれたのは、移送される容疑者に群がって阿鼻叫喚の醜態をさらす現場のカメラマンの傍若無人さだった。そして、そんな恥ずかしい場面を堂々と臆面もなく視聴者に見せてはばからない番組ディレクターの感性に絶句した。

 怒号と罵声が飛び交う映像を見せられて、たぶんテレビの前の圧倒的多数の視聴者は、マスコミに強烈な不快感と嫌悪感を抱いたのではないかと推察する。メディア側の一員である僕でさえ嫌悪感を抱いたのだから、普通の視聴者はなおさらだろう。

 酒井法子被告をめぐる同様の過熱報道に対しても、多くの視聴者から放送倫理・番組向上機構(BPO)に批判の声が殺到したという。市橋容疑者の移送報道は、それをはるかに上回っていた。テレビのはしゃぎようというか興奮ぶりは、常軌を逸しているとしか言いようがない。こういうことを続けていれば、市民から完全に軽蔑され愛想をつかされてしまう。なぜそこに気付かないのだろうか。テレビは自分で自分の首を絞めている。

  ■なぜ両親を責める■

 もう一つとても気になったのは、市橋容疑者の両親に対するインタビューだ。市橋容疑者は未成年ではなく立派な大人なのだから、両親には何の責任もないはずだ。それなのに、顔や音声もそのままで、これまたさらし者のようにしてテレビで流していた。

 両親に取材して話を聞くのはジャーナリズムの当然の仕事だが、しかしそれをそのまま放送していいことにはならない。しかも、どこの局の記者だか知らないが、容疑者の両親を責めるような口調で詰問するシーンまで放送していたのには、あきれてしまうよりも悲しくなった。

 記者は警察官でも検察官でも裁判官でもない。事実を確認して、読者や視聴者が判断するための材料を集め、冷静に伝えるのがジャーナリズムの役割であり責任だ。居丈高に責め立てるのは記者の仕事ではない。どのような取材相手でも常に敬意を持って接し、質問する際は慎重に言葉を選ぶ必要がある。権力者である公人に対しては、権力監視の観点から厳しい姿勢で臨むこともあるが、私人を相手に横柄な態度で取材するなど論外だろう。

  ■傍若無人なカメラ■

 ちなみにテレビカメラマンの傍若無人さは、僕自身も取材現場でとても不快に感じている。会見中でも「邪魔だ!そこどけよ」などと大声を出すし、カメラ位置を変えて移動する際も遠慮なく動き回り、機材やビデオテープを放り投げたりして、平気でがちゃがちゃ音を立てる。とにかくもうやりたい放題なのだ。

 こうした日ごろの行動が、市橋容疑者の移送シーンの怒号や罵声につながっているわけで、報道倫理がどうこうよりも、むしろ人権感覚や人間性を疑ってしまう。これって最近の傾向なのだろうか。以前はこんなことは少なかった。譲り合いだとか気配りだとか、少なくとも報道する側の仲間意識や連帯感といったものがあったように思うんだけどなあ。

(書き下ろし:インターネット版2009年11月)=「身辺雑記」を一部修正


◇新・風速計25◇

「ビラ配布」有罪判決は妥当だ

戸別に受け取り強要するのは行き過ぎ

 共産党の「都議会報告」ビラを配るためにマンションに立ち入ったとして、住職が住居侵入罪に問われた「葛飾政党ビラ配布事件」の上告審で、最高裁第二小法廷は「表現の自由の行使のためであっても、管理組合の意思に反して立ち入るのは管理権を侵害する」として上告を棄却する判決を言い渡した。一審の無罪判決を破棄して罰金5万円を言い渡した二審判決が確定する。

  ■集合ポストで十分■

 僕は、この最高裁判決は妥当な判断だと思う。表現の自由を行使するためなら何をしてもいいというのは、極めて傲慢で受け入れ難い一方的な主張だ。政党ビラは政治的にも思想的にも公益性が高い印刷物なので、なるべく多くの人に読んでもらいたいというのは分かる。蕎麦屋やピザ屋のチラシとは意味が違うことも理解できる。

 しかしそれならば、玄関ホールの集合ポストに入れればいいではないか。チラシ広告などの投函や立ち入りを禁じる張り紙があるにもかかわらず、わざわざマンションの廊下にまで立ち入って、ドアポストにビラを投函するのはやり過ぎだ。

  ■不安を感じる人も■

 外部の人間がマンション内に出入りすることに対して、不安や恐怖を感じたり不快に思ったりする人は大勢いる。「部外者に勝手に立ち入ってほしくない」という住民の意思に反してまで、自分たちの表現の自由を盾に「ビラを受け取れ」と主張し、マンションの敷地に立ち入る行為を正当化して強要することが、絶対的な権利・基本権であるとは到底思えない。

 例えば仮に、朝日新聞の社宅に右翼の何者かが立ち入って、ドアポストに「朝日の社員に天誅を」などと書かれたビラを配布されたら、朝日新聞社員は大変な不安と恐怖を感じるだろう。

 書かれている内容はもちろんだが、家族と生活する住居のすぐ手前まで侵入されたこと自体を、不安に思うのは当たり前の感覚だ。裁判官や官僚の官舎でも、あるいは教員住宅や企業のサラリーマンの家でも、これは同じことが言える。

  ■ほかに手段はある■

 自分の意見や主張を自由に表現して訴える権利は、最大限に守られなければならない。どのようなビラを作成するかも含めて、表現内容は法律に違反しない限り自由だ。そこの部分に異論はない。

 しかし、だからといってマンションの敷地に立ち入ってほしくないと思う人の権利を侵害していいことにはならない。ドアポストに配布しなくても、駅前で配るなど「表現する手段」「ビラを配るための方法」はほかにいくらでもあるのだから。これを「言論弾圧」とするのは無理がある。

 ただし、ビラを配布した住職の自宅まで強制捜査されて、逮捕から起訴まで勾留されたのは、捜査権の乱用・不当捜査だろう。やり過ぎだと思う。さらにこれが、特定の党派を狙い撃ちにした意図的な逮捕・起訴だとすれば、それもまた許される話ではない。取り締まるのであれば公正公平に対処すべきだ。

(書き下ろし:インターネット版2009年12月)=「身辺雑記」を一部修正


【お知らせ&言い訳のようなもの】(1999/12/27)

◆「新・大岡みなみのコラム風速計/インターネット版」を書く時間がなくて、更新が滞っています。申し訳ありません。

◆新聞や雑誌に発表したルポルタージュやインタビュー記事や論説記事などは、執筆済みの原稿データがあるので、掲載記事をほぼそのままの形で「セカンドインパクト」にアップしています。

◆また、「サードインパクト」「身辺雑記」は毎日更新しています。ぜひ、そちらもご愛読ください。


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