新・大岡みなみのコラム風速計

【インターネット版】

(書き下ろし不定期連載。毎月末更新の努力はします)


INDEX

16)思い込みで発言する人々 (2006年8月)

17)「命令放送」は報道への政治介入 (2006年11月)

18)「記者」の呼称への愛着 (2007年1月)

19)「まず結論ありき」の新潮取材 (2009年4月)

20)「酔って全裸」で家宅捜索とは (2009年4月)


◇新・風速計16◇

思い込みで発言する人々

理解力と対話能力をまず磨きましょう

 東京・新宿で、「平和のための戦争展」の特別企画「教育の現状」に招かれて話をした。「日の丸・君が代」をめぐって、東京の教育現場で「管理と統制」が強まっている現状を解説したのだが、あまりにも低レベルの質問が多くて驚かされた。いろいろな集会や学習会で話をすることがあるが、こんなにも理解力がなくてコミュニケーション能力に劣る質問がいくつも寄せられたのは、これまでにちょっと経験がない。ちなみに主催者やスタッフの皆さんの対応はきちんとしていた。たまたま変な来場者が多かったのかもしれないが、いわゆる「市民運動」に熱心な人たちの典型的な欠陥が露呈された形となった。

  ■運動を語れと詰問■

 驚き呆れたのは、話が終わった後の質疑応答の場面だ。まず初老の男性から、「現状についてはよく分かったが、われわれがどうすればいいかという運動論が語られなかった。講師の方は話の構成をどう考えているのか」と詰問された。

 ばっかじゃないか。人の話をちゃんと聞いていたのだろうか。問題の背景や考え方や見方に関するヒントは、話の中に盛り込んであったはずだ。あとは自分で考えて判断して行動すればいいだろう。だれかに方向を示されないと自分自身では考えられない「指示待ち人間」なのか。

 それに、僕はジャーナリストであって運動家ではない。運動論を語ってほしければ運動家に話を聞けばいいだろう。そもそも、この日のテーマは「教育の現状」であって、教育現場の状況について話をするように頼まれたのだ。「運動論」を議論する場ではなかろう。

 自分の理解力不足と一方的な思い込みをもとに、どうしてこれほど偉そうに質問できるのか。失礼にもほどがある。もちろん僕は、これほどまでストレートな言い方はせずに遠回しに説明した。そうしたら初老の男性は「甘受します」と応じたのだった。内心、怒り心頭というかと唖然とするばかりだった。

  ■典型的な思考停止■

 次に質問に立ったのは、戦争体験者だという高齢の男性。「戦争で使われた『日の丸・君が代』は絶対に許してはならない存在だ。講師の方は、強制が問題で好きな人は自由にすればいいと言われたが、受け入れられない」と意見表明をされた。

 まあ、そういう意見はあるだろうと予想していたし、戦争体験者がそのように考えるのは理解できる。その人がそう思うのは自由だが、僕も同じように思えというのならそれは受け入れられない。

 そもそも「日の丸・君が代」でなくて、別の旗や歌なら問題はないのだろうか。問題の本質は、旗や歌を道具として使って、「全員を一律に同じ方向に向けさせようとする動き」にある。そういうことが平然と行われる先に、戦争へと突き進む社会が待っているのではないか。

 講演の中でもそんな話をしたはずだが、戦争体験者の男性は何も理解していないようだった。典型的な「思考停止」状態だ。どっと疲れた。

  ■人の話を聞かない■

 もう一人は、中年の女性。「教師が生徒や親に向き合わず、対話をしてこなかったことにも問題があると講師の方は指摘されたが、戦争や都政や教育についてマスコミが書かないのが悪い。マスコミの責任についてどう考えているのか」と糾弾された。

 確かにマスコミの責任は大きい。しかし、マスコミだけの問題ではないだろうし、ことは日本社会の「民主主義の成熟度」の問題だと思う。だからこそ、説明責任を果たしてこなかった教師自身にも責任があるし、僕も含めて市民の一人一人が、会社や組合や地域や家庭で言うべきことを言わなければダメだと指摘したのだが、中年女性は「とにかくマスコミがすべて悪い」の一点張りなのだった。

 そもそも、なぜ僕が叱責されなければならないのか全く理解できない。僕はマスコミの代表としてこの場にいるわけではないし、マスコミの問題はまた別の論点だろうに。おばさん、思い込みが激しすぎるよ。

 とまあこんな感じで、かなりエキセントリックな方々が、ご自分の脳内に凝縮した一方的な思いを噴出された。

 「なんて失礼な人たちだろう」と最初は怒りを覚えるだけだったが、いい年齢の大人が相手の話をまるで聞こうとせず、言いたいことだけを一方的に発言する風景を眺めていると、驚くやら呆れるやら絶句するやらで、なんだかすごくかわいそうに思えてきた。どうすれば自分の考えが相手に伝わるか、他人とコミュニケーションするとはどういうことなのか、まずはそこから学習した方がいいのではないか。そうでないと、社会を変えるなんて到底不可能だと思う。

(書き下ろし:インターネット版2006年8月)=「身辺雑記」を一部修正


◇新・風速計17◇

「命令放送」は報道への政治介入

毅然と対峙しなかったNHKの体質

 菅義偉・総務相は2006年11月10日、NHKの橋本元一会長を総務省に呼んで、短波ラジオ放送で北朝鮮の拉致問題を重点的に放送するように命令した。災害などの緊急性がある場合に、公共放送であるNHKに放送を要請するならまだしも、こんな政治的な問題で放送を命じるなんて信じられない。NHKを国営放送と位置付けて、政府の宣伝機関と認識しているからにほかならない。放送内容への不当な政治介入であり、報道・表現の自由を脅かすことになる。常規を逸しているとしか言いようがない発想だ。

  ■公共放送の独立は■

 NHKが自主・自立の独立したまともな報道機関であるならば、こういう動きは断固としてはねつける(あるいは正面から批判する論陣を張る)べきではないか。ただでさえ政権政党との距離感がなさ過ぎると批判されているNHKが、もしもこうした命令を唯々諾々と受け入れるようでは、自立した放送局としてまさに自殺行為となるだろう。そうなれば視聴者の信頼は確実に失うことになり、取り返しのつかない禍根を残すに違いない。

 総務相の命令に対して、橋本会長は「放送の自由・編集権を堅持して放送していく」と応じたというが、NHKが独立した報道機関としてどこまで本気で、このような政治介入に毅然とした姿勢で対峙(たいじ)するつもりなのか疑わしく思う。

 なぜならば、NHKが正午のニュースでこの「命令放送」を伝えたのは、番組が始まって10分以上も経っていたからだ。午後7時のニュースでは16分以上過ぎてからの放送だった。

  ■報道姿勢が他人事■

 ことは報道の自由と、報道機関としての独立の根幹に関わる話である。しかも公共放送であるNHK自身にとって、まさに正念場となる大問題ではないか。それなのに、まるで他人事のように政党の反応や日本新聞教会の談話を流すだけで、自分たちがどう考えているのかについては、NHK会長が記者団の質問に答える形で伝えるだけだった。

 ニュース枠のトップ項目でたっぷり時間を割いて放送し、例えば「法律に基づいた命令であることは認めますが、このような命令は憲法違反であり容認し難いと考えています」といった自分たちの見解を、堂々と視聴者に訴えていいのではないか。いや、むしろまともな報道機関ならそうすべきだった。

 もしそんなカッコいい放送をしていたら、これまでの不名誉な汚名を返上するどころかNHKの株は大いに上がって、たぶん国際的にも最大級の評価を得られただろう。名実共に「公共放送」の存在意義と真価を、大いに発揮するせっかくのチャンスだったのに、NHKは実にもったいないことをした。

  ■政府の宣伝機関か■

 それとも実は、政府・自民党から言われた通りに従うことを、NHKはなんとも思っていないというのが本音なのだろうか。それならもうどうしようもないわけで、「NHKは公共放送ではなくやっぱり政府の宣伝機関だったんだ」と認識するだけだ。

 しかし、そうだとするならば、NHKの橋本会長は「放送の自由・編集権を堅持して放送していく」などと、アリバイ的なコメントはしなくてもよろしいではないか。本気で戦うつもりもないのに、そういうポーズだけとるのは、視聴者に対する二重の裏切り行為になるからだ。

 放送を命令した菅総務相はもちろん論外だが、それに対するNHKの姿勢はさらに論外だということは、この際はっきりと指摘しておく。

(書き下ろし:インターネット版2006年11月)=「身辺雑記」を一部修正


◇新・風速計18◇

「記者」の呼称への愛着

苦肉の策で「ジャーナリスト」に統一

 名刺が残り少なくなってきたので、いつもお願いしている印刷屋さんに追加注文した。今回は版下を1カ所だけ修正してもらった。肩書きを「記者」から「ジャーナリスト」に変更することにしたのだ。

  ■名刺の肩書き変更■

 新聞記者時代の名刺の肩書きは「記者」あるいは「◯◯新聞記者」だった。新聞社を辞めてフリーランスになってからも、名刺には「記者」の肩書きを一貫して使ってきた。報道記者の仕事に対する誇りや使命感みたいなものがあって、それが「記者」という呼称を使うことへのこだわりになっていたのだ。愛着と言ってもいいかもしれない。

 しかしその一方で、雑誌や新聞に書く署名記事や単行本の奥付けは、「ジャーナリスト」としてきた。取材先や講演などで自己紹介する時にも「ジャーナリスト」と名乗っている。

 「記者」だけにすると、どこの組織に所属する「記者」なのかと必ずといっていいほど聞かれるからだ。かといって「ジャーナリスト」なんて言い方は、なんだかすごく偉そうであまり好ましくないのだが、ほかに適切な表現が思い付かなかったから仕方がない。まあ、苦肉の策という感じである。

 そんなわけで、名刺の「記者」の肩書きと整合性がとれていないなあとずっと気になっていたのだけど、これからはすべて「ジャーナリスト」で統一することにした。

  ■なじめぬ「ライター」■

 ちなみに僕は、「ライター」という呼称は好きではないので使わない。ポリシーや誇りや使命感といったものと関係なく、エロでも未確認情報でもプライバシー侵害でも宣伝記事でも、無節操になんでも請け負って書き散らす「書き屋」といったイメージが強いように感じるからだ。公権力を監視するジャーナリズムとはかけ離れているように思える。そこにこだわりがある僕としては、「ライター」というのはどうしてもなじめない呼称なのだ。

 もちろん立派な仕事をしている「ライター」もいるだろう。だけど、少なくとも僕は前述の理由から「ライター」とは名乗りたくないので、「ライター」という肩書きは絶対に使わないことにしている。

(書き下ろし:インターネット版2007年1月)=「身辺雑記」を一部修正


◇新・風速計19◇

「まず結論ありき」の新潮取材

開き直った「おわび記事」の詭弁

 朝日新聞阪神支局襲撃事件などの実行犯を名乗る人物の「手記」を4回にわたって連載した週刊新潮が、「手記は誤報だったと認めざるを得ない」などとする「おわび記事」なるものを掲載した。相変わらずの新潮らしい詭弁と言い訳に終始したひどい内容にあきれてしまった。これほどまでにお粗末な「おわび記事」を読んだのは、これが初めてだ。

 そもそも「おわび記事」のタイトルがふざけている。「『週刊新潮』はこうして『ニセ実行犯』に騙された」だと。まるで自分たちは被害者であるといわんばかりなのだ。もちろん「おわび記事」の本文もすべてこの調子だ。週刊新潮がまともな裏付け取材をしようともせず、最初から結論ありきでこうした「手記」を掲載したことへの反省はかけらもない。そのことにあらためて絶句する。

 しかもこの期に及んでもなお、連載した手記は「捏造」でも「架空手記」でもないと週刊新潮は言い張っている。いかにも週刊新潮らしい荒唐無稽な独自の論理展開だなあと、別の意味で感心させられた。どこからどう見てもだれの目から見ても、これは「捏造」であって「架空手記」としか言いようがないではないか。

 まともな記者(ジャーナリズム)は、取材する前にまず仮説を立てて、そして取材した結果に従ってその仮説を修正していくのが普通だろう。ところが週刊新潮はまず最初に結論があって、その結論に合わせて都合のいい材料を集め、無理やりにでも「記事に仕立てていく」のを常套手段としているのである。今回のケースもまさにこうした手法で「記事を作っていった」のだろう。

 斜に構えて皮肉たっぷりに人や事件を茶化す記事を書き散らすのは結構だが、取材の基本作業や記者としての基本理念さえ知らないで、「雑誌ジャーナリズム」もへったくれもなかろう。厚顔無恥にもほどがある。人並みに恥を知るなら、あすにでも週刊新潮を廃刊して、別の仕事を見つけたほうがよろしいのではないかと思う。老舗出版社の新潮社の看板が泣いている。

(書き下ろし:インターネット版2009年4月)=「身辺雑記」を一部修正


◇新・風速計20◇

「酔って全裸」で家宅捜索とは

捜査を検証しないメディア各社

 都内の自宅近くの公園で酔って全裸で騒いだとして、アイドルグループ「SMAP」の草なぎ剛さんが、警視庁赤坂署に公然わいせつ容疑で現行犯逮捕され、自宅も家宅捜索されたという。酔っ払って裸になったくらい別に大したことないではないか。警察官が声をかけた際に暴れたというが、相手は泥酔状態だったのだから、逮捕ではなく保護で十分な事案だろうに。これくらいのことなら通常は、保護されてお説教されてそれで終わりとなるだろう。酔いがさめたら厳重注意ですぐに釈放され、起訴もされないのが普通だろう。こんなのはただの笑い話ではないのか。公園の近くのマンションに住んでいる人たちは深夜にうるさくて迷惑だったろうけど、マスコミはあまりにも騒ぎ過ぎだ。

  ■法律上無理がある■

 そもそも、酔って服を脱いで騒いだというだけで家宅捜索される日本って、いったいどんな国なんだ。こんな容疑で平然と家宅捜索が行われること自体が異常だ。

 草なぎさんの尿からは薬物反応は出なかったという。家宅捜索によって仮に何か薬物などが出てきたとしても、それは結果論に過ぎない。泥酔して全裸で騒いだという理由で家宅捜索までするのは、法律上かなり無理がある。明らかな警察権力の暴走としか言いようがない。こんなことがまかり通るような社会になれば、そのうち町中を歩いていて信号無視や立ち小便をしただけで家宅捜索されてしまうかもしれない、と危惧する。

 薬物反応もないのに家宅捜索した警察は、どういう名目で捜索令状を裁判所に請求したのだろう。「公然わいせつ罪」で隠滅されて困るような証拠保全の必要性などないだろうし、草なぎさんが逃亡するおそれもない。

 ところがそれにもかかわらず、裁判官は捜索令状を発行した。警察が請求さえすれば令状担当の裁判官は、例外なくほぼ100%と言っていい高率で右から左に令状を発行する。捜査機関に対するチェック機能も何もあったもんじゃない。残念ながらそれが「優秀」とされる日本の司法の実態だ。

  ■メディア騒ぎ過ぎ■

 大騒ぎしているテレビメディアの中でも、NHKのニュース報道の酷さは群を抜いて際立っていた。正午の定時ニュースでも夜9時のニュース番組でも、いずれも草なぎさんの逮捕がトップ項目。しかも夜9時の「ニュースウォッチ9」では常軌を逸しているとしか思えないほど、たっぷりと十分以上もの時間を割いていた。ニュースの内容そのものも、まるで破廉恥で反社会的な犯罪者であるかのような伝え方に終始していた。

 しかし実際には泥酔状態の草なぎさんが、だれもいない深夜の公園で1人で裸になって大声を出しただけの話ではないか。泥酔状態で飲酒運転をしたわけでもないし、市民に暴力を振るうとか器物損壊したわけでもなく、繁華街や電車内などで女性に性器を誇示したわけでもない。

 NHKはニュースの中で何回も「容疑者」を連呼していたが、必要以上に「容疑者」を強調するのは誤った印象や先入観を視聴者に植え付けることになるだろう。軽微な交通事故などの場合には報道機関は、肩書き呼称や「さん」付け呼称で伝えることもある。

 いくつかの民放の情報番組は、ニュース報道の部分では「容疑者」の呼称を使っていたが、番組アナウンサーやコメンテーターらはコメントの途中から「さん」を付けていた。今回のこのニュースの内容から言えば、本記部分はともかく、雑感部分は「さん」付けのほうが自然に思える。

  ■垂れ流す逮捕情報■

 たっぷり時間を使ってこのニュースを詳細に伝えるのは別にいいとして、それならば、警察の捜査のあり方について言及があったのかというと全く何もなかった。逮捕は妥当だったのか、なぜ保護ではなく逮捕だったのか、今回のこの容疑で家宅捜索までするのは法律や適正手続きの面から問題なかったのか、といったことを指摘し、公権力を監視することこそがジャーナリズム(報道)の役割ではないのか。

 少なくともNHKのニュースでは、そういった問題提起は何一つなされなかった。これでは警察の逮捕情報を無批判に垂れ流して、容疑者とされた人間を一方的にバッシングし、社会的に葬り去るだけではないか。まともな報道姿勢とはとても思えない。

 草なぎさんが地上デジタル放送の普及促進CMのキャラクターを務めていることから、鳩山邦夫総務相は「めちゃくちゃな怒りを感じている。なんでそんな者をイメージキャラクターに選んだのか。恥ずかしいし最低の人間だ。絶対許さない」と記者の質問に答えていたが、そこまで非難され罵倒されるようなことだろうか。

 こういう人格を全面否定するような公人の発言こそ、厳しく批判されるべきだろう。僕は別に草なぎさんのファンでも何でもないが、この日の一連の報道などを見ていて、警察の捜査手法もニュースの伝え方も異常だと思ったし、恐ろしさを感じた。

(書き下ろし:インターネット版2009年4月)=「身辺雑記」を一部修正


【お知らせ&言い訳のようなもの】(1999/12/27)

◆「新・大岡みなみのコラム風速計/インターネット版」を書く時間がなくて、更新が滞っています。申し訳ありません。

◆新聞や雑誌に発表したルポルタージュやインタビュー記事や論説記事などは、執筆済みの原稿データがあるので、掲載記事をほぼそのままの形で「セカンドインパクト」にアップしています。

◆また、「サードインパクト」「身辺雑記」は毎日更新しています。ぜひ、そちらもご愛読ください。


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