新・大岡みなみのコラム風速計

【インターネット版】

(書き下ろし不定期連載。毎月末更新の努力はします)


INDEX

11)NHK問題を矮小化するな (2005年1月)

12)ネット新聞「市民記者」の危うさ (2005年2月)

13)「記者ブログ」への暴力的攻撃・前編 (2005年2月)

14)「記者ブログ」への暴力的攻撃・後編 (2005年2月)

15)「嫌煙ファシズム」って何だ (2006年6月)


◇新・風速計11◇

NHK問題を矮小化するな

政治に屈する放送局の体質こそ問題

 自民党政治家の圧力で、旧日本軍の慰安婦問題を扱ったNHK番組が大幅改変された問題は、番組プロデューサーの内部告発を報じた朝日新聞と、朝日の報道をデタラメだとするNHK(プラス自民党政治家)との対立の構図に、問題が矮小(わいしょう)化されようとしている。

  ■距離の近さが問題■

 それを懸命に進めているのが読売と産経と新潮だ。しかし、まぎれもなく問題の本質は、独立した報道機関であるはずのNHKと政府・自民党との「距離」の近さにこそある。別の言い方をすれば、自民党政治家からの圧力や介入に簡単に屈してしまうNHK幹部の体質にこそ問題の本質がある。

 もちろん、政治家の意を汲んで自主規制するNHK幹部の情けない姿勢も含めての問題だ。慰安婦や戦犯法廷を扱ったこの番組だけでなく、多くの放送が自民党政治家の介入や圧力でねじ曲げられたのは事実なのだから。

  ■放送後に意見せよ■

 慰安婦問題を扱ったNHKの番組内容そのものに問題があるという主張を展開して、同じように、NHK幹部と自民党政治家との関係から話をそらそうとする動きも見逃せない。

 この際だからあえて言っておくが、「市民法廷」を実際に取材した経験も踏まえて、僕自身は「戦犯法廷」や「民衆法廷」の審理の進め方に対しては疑問を感じている(開催趣旨に疑問があるというわけではない)。しかし、仮に戦犯法廷そのものや番組での取り上げ方に批判的な意見があったとしても、それは放送を見てから意見を言えばいい話だろう。

 事前に外部から口を差し挟むのは「検閲」であり「介入」にほかならない。ましてや、国権の最高機関たる国会の議員(しかも政府与党)が放送前の番組内容に「意見」を言うなど、およそまともな民主主義国ではあり得ないことだ。

  ■事前意見は圧力だ■

 「政治家は放送に対して自由に意見を言うこともできないのか」と問われれば、「まさにその通り」と答えるしかない。政治家にはそんな自由はない。

 政治家が事前に報道内容に意見することは、どのような形であれ、それはすなわち「圧力」「介入」「検閲」そのものなのだ。

(書き下ろし:インターネット版2005年1月)


◇新・風速計12◇

ネット新聞「市民記者」の危うさ

無責任な情報発信の信ぴょう性を疑う

 インターネット新聞の「市民記者」なるもののあり方や、発信情報の信ぴょう性には前から疑問を感じていたが、「市民記者」から無責任に発信される情報をきちんと吟味せずに掲載する編集体制の無責任さを、実証する出来事があった。

  ■読みもせずに書評■

 あるインターネット新聞が、僕の単行本『裁判官Who's Who/首都圏編』を紹介してくれて、それを受けて「市民記者」の一人が「有意義で面白い書籍だ」と評価する書評を書いてくれた。

 そこまではいいのだが、その書評に対して別の「市民記者」が、「現実離れし美化された裁判官像」とタイトルを付け、「私はその本を実際に読んだ事はないが……」との書き出しで、「類を見ない画期的な書籍と言えるとの過大評価はおかしい」「裁判官を無批判に偶像化する本だ」などという意見を書き込み、記事として掲示されているのを見た。

 僕の書いたこの本のどこが「裁判官を美化」しているのか、どこが「裁判官を無批判に偶像化」しているのか、具体的な根拠を示してほしいものだ。取材の積み重ねと事実に基づいて、むしろ裁判官を徹底的に評価・批判しているのが本書である。

  ■事実に即さぬ中傷■

 そもそも、「その本を実際に読んだことはない」などと言いながら、よくもまあヌケヌケとこんなデタラメが書けるものだ。笑わせてくれる。およそ常識的にあり得ない「書評記事」ではないか。

 もちろん、自分の書いた記事や本が褒められるばかりでなく、批判にさらされることがあるのは当然だ。まともな根拠や事実に従った正当な批評であれば、自分とは正反対の見解であっても納得して受け入れるだろう。

 だが、まるで事実に即していない見当外れの文章は、デマや誹謗中傷のたぐいとしか言いようがなく、名誉毀損に該当すると言わざるを得ない。

  ■責任伴う情報発信■

 「市民による市民のためのメディア」を標榜するその「インターネット新聞」では、市民が「市民記者」としてニュースを伝えているそうだ。趣旨はよく分かる。市民が主体的に発信する意義も理解する。

 中には優れた記事を書く「市民記者」もいると思うけれども、経験も素養も才能もない「市民記者」もいて、玉石混交の状態であるならば、きちんと取捨選択して発信する責任が編集部にはあるはずだ。

 他人に「物事を正しく伝える」という基本的な能力が決定的に欠如している人は、文章を広く第三者に向かって公表しない方がよい。情報発信には「責任」が伴うのだから。「市民記者」なるものの無責任さと、そういうところから発信される情報を吟味せずにスルーで掲載する編集体制の無責任さが、今回の書評の一件で改めてよく分かった。

(書き下ろし:インターネット版2005年2月)


◇新・風速計13◇

「記者ブログ」への暴力的攻撃・前編

袋だたきバッシングはファシズムだ

 友人の新聞記者が個人的に開設しているサイトのブログが、いわゆる「ネット右翼」に荒らされて開店休業に追い込まれた。ブログでNHKの番組改変問題を批判的に取り上げたところ、インターネットの某巨大掲示板で一方的な非難が始まり、続いてブログに書き込みが集中した。

  ■まさに言葉の暴力■

 それだけでなく、ネット検索やリンク先や記事内容からあっという間に本人が特定され、勤務先や本名などの個人情報が掲示板やほかのいくつものサイトで暴露された。さらには、職場に嫌がらせの電話までかかってくる事態にまで発展したという。

 「まともな論理」や「筋道立てたコミュニケーション」とはおよそかけ離れた世界で、しかも「集中攻撃」という形で一方的に誹謗中傷するのは、まさに言葉の「暴力」としか言いようがない。こういう袋だたきのバッシングはファシズムそのものだ。やっている連中はいっぱしの「言論」のつもりなのかもしれないが、こんなものは「言論」でもなんでもない。

 しかも、個人情報をさらして嫌がらせや脅迫まがいのことを平然とやってのけるとは、なんたる卑劣さだろう。4年前に書いたルポ「相次ぐ自宅や職場への脅迫」の状況と同じだ。人として恥ずかしくないのだろうか。

  ■現状では機能せず■

 常識的な意見交換やコミュニケーションができる環境にあるのであれば、掲示板やブログというのは、双方向で発言ができてとても有効なツールだと思う。しかし今のような状況では、僕は少なくとも自分のサイトでブログをやろうとは思わない。自分の知らない間に、わけの分からない大量の書き込みでサイトが占拠されるなんてぞっとする。そんなのは僕の「美学」に反する(爆笑)。

 それに、何でもノーチェックで載せてしまうブログ形式は、サイトの管理運営者として無責任かなとも思う。これは「インターネット新聞の市民記者」の問題とも関係すると思うのだが、せめて投稿をチェックした上で掲載する方式なら、言葉の「暴走」は食い止められるかもしれない。一つ一つチェックする時間の余裕があればの話だが。

 もちろんこれはほかの人の言論を排除するのではない。今の時代では、自分の主張はそれぞれ自分のサイトで自由に発信できるわけだから。

  ■ウソ百回で本当に■

 右翼とか左翼という形で単純に分けるのもどうかと思うが、少なくとも「ネット右翼」はインターネットを、街宣活動の場として最大限に活用しているのは間違いない。そして最も怖いのは、事実に反するウソやデタラメや非論理的なことでも、何百回、何千回と繰り返して流されることによって、いつの間にかウソが本当のこととして受け入れられていってしまうことだ。

 そういう意味では「あんなバカは相手にしない」などと切り捨てたりせず、一つ一つに対してきちんと発言していかないと、大変なことになるかもしれない。そんなことに時間は使いたくないのだが、なかなか悩ましい問題である。(この項つづく)

 ※ブログ=「ウエブログ」の略。双方向のネット掲示板みたいなもの。

(書き下ろし:インターネット版2005年2月)


◇新・風速計14◇

「記者ブログ」への暴力的攻撃・後編

一方的な嫌がらせと脅迫の卑劣さ

 「『記者ブログ』への暴力的攻撃・前編」について、いくつか補足をしておく。情報収集の仕方について一部誤解(意図的な誤読)をされている方が何人かいるようなので、それについて説明する必要を感じたのが第一点。それから、「とんでもない論理の飛躍と一方的な決め付け」によって、特定個人を集中攻撃している連中の主張があまりにも目に余るので、この際だからそれらについてもきちんと反論しておくべきだと判断した。

  ■集中的批判で挑発■

 まず、今回の「記者ブログ」の件について僕は、集中攻撃された「記者ブログ」のテキストはもちろんのこと、某巨大掲示板群の複数のスレッドのほか、たぶん20カ所以上の関連サイトに目を通した上で、「『記者ブログ』への暴力的攻撃・前編」を書いた。「一方の情報だけ」あるいは「一方からの伝聞イメージ」で、この文章を書いたわけではない。

 日常の記者活動でもそうだが、異なる立場の両者の言い分(複数の意見)を聞いた上で記事を書くのは原則だ。これこそが、ジャーナリズムがまさに「中立・公正」であるための姿勢であると考えている。その上で、記者としての判断や分析や立場といったものが必然的に発生してくるわけだ。「立場のない立場」などというものは本来あり得ない。

 それを大前提として僕の「認識」を述べると、「ブログを主宰する記者が批判者を挑発した」として一方的に攻撃されているが、そもそも最初に「挑発してきた」または「煽った」のは、「攻撃(批判?)」してきた側ではないのか。記者の方に「売り言葉に買い言葉」の部分もあったかもしれないが、一方的な誹謗中傷や、まるで論理的でない言いがかりのような書き込みが、集中豪雨的に浴びせられたのは事実だろう。

 さらにその後ネット上で展開されたプライバシーをさらすような言動が、「まともな言論」であるとは到底思えないし、これは嫌がらせや脅迫そのものではないか。

  ■個人への不当攻撃■

 もちろん、自分とは正反対の意見ではあっても、きちんと筋が通っていて真摯に述べられている主張に対しては、ブログ主宰の記者もきちんと対応したと思う。少なくとも僕はそう理解しているし、そういう「真っ当な反論や批評」に対しては、それが「記者だから」などというのとは関係なく、人として誠実な対応をするべきなのは言うまでもない。

 それからもう一つ。「所属している会社を隠して語った」ことがさも大問題であるかのように攻撃されているが、これは全く見当外れの不当な「言いがかり」だろう。

 サイトやブログの運営はあくまでも個人的にやっているもので、会社組織を代表して意見表明しているわけではあるまい。個人的な判断として「記者」の経験やバックボーンを明らかにしたとしても、だからといって会社員が会社をすべて背負って生活しているわけではない。これは、記者という職業に限らず、サイトやブログを個人運営している人たちすべてについて言えることではないのか。

 今回の件に関して言及しているサイトをざっと見て回ったが、自分自身の素性を明らかにしているものは一つもなかった。会社員だとか公務員としてではなく、みんな一人の個人として情報発信しているのではないのか。仮に自分が所属する会社に関連する出来事に言及することがあったとしても、いちいち「そこの社員ですが」などと断ったりしないだろう(もちろん所属を明らかにするのは本人の自由だが)。

  ■まともな議論無理■

 ましてや、所属部署や本名などの個人情報が暴かれ勝手にさらされ、職場に電話がかかってくるなど論外だ。そういう卑劣な行為による影響や恐怖感は、まともな感覚を持っている人ならば容易に想像できるはずだ。

 >>「まともな論理」や「筋道立てたコミュニケーション」とはおよそかけ離れた世界で、しかも「集中攻撃」という形で一方的に誹謗中傷するのは、まさに言葉の「暴力」としか言いようがない。こういう袋だたきのバッシングはファシズムそのものだ。やっている連中はいっぱしの「言論」のつもりなのかもしれないが、こんなものは「言論」でもなんでもない。しかも、個人情報をさらして嫌がらせや脅迫まがいのことを平然とやってのけるとは、なんたる卑劣さだろう。4年前に書いたルポ「相次ぐ自宅や職場への脅迫」の状況と同じだ。人として恥ずかしくないのだろうか。>>

 「『記者ブログ』への暴力的攻撃・前編」で書いた上記のこの部分こそ、今回の件で最も問題にしたかった点だ。「立場や思想が異なってもきちんとした議論ができる社会」であるためにはどうすればいいのか。その方策を考えることこそが民主主義社会を支える基本だろう。

 残念ながら現状はそうではなくて、「ネット右翼」が「大はしゃぎ」(某巨大掲示板群に生息する連中の表現だと「祭り」)している。彼らの多く(すべてではない)にとって、インターネットの掲示板とブログは、最高(最低)のおもちゃになっているような気がする。

(書き下ろし:インターネット版2005年2月)


◇新・風速計15◇

「嫌煙ファシズム」って何だ

自己正当化する人たちの論理の危うさ

 「嫌煙ファシズム」なる言葉を使う人たちがいる。なんだよ、そりゃ。盗人猛々しいとはこのことだろう。駅のホームから喫煙コーナーをすべて撤去するなど、「公共空間から喫煙者を排除する動き」がファシズムでケシカランのだそうだ。よく言うよ。一方的にたばこの煙を他人に吸わせて平然としている行為こそファシズムそのものではないか。

 個人が自分の責任でたばこを吸うのは勝手だ。健康に害があろうとなかろうと、そんなことは知ったことではない。好きなように吸えばいい。ただし、公共の場所で吸って他人に迷惑をかけることはやめなさい、というのが最近の世界的な流れだろう。それのどこがファシズムなんだ。馬鹿も休み休み言えよと思う。

 たばこを吸いたい人間は、自分の家や閉じられた私的な空間で、他人に迷惑がかからないように好きなだけ吸えばいいじゃないか。あるいは、ビニール袋を頭からかぶって勝手に吸ってろと言いたい。

 「嫌煙ファシズム」なる言葉を使っている人たちが、いかに自己中心的で他人の迷惑を顧みずに開き直っているか、ある意味でその人間性がとてもよく分かる。思想の本質が透けて見えてくるとも言える。ほかの場面でどんなに立派なことを発言していたとしても、こんな言葉を平気で使う人間を僕は絶対に信用しない。

(書き下ろし:インターネット版2006年6月)=「身辺雑記」を一部修正


【お知らせ&言い訳のようなもの】(1999/12/27)

◆「新・大岡みなみのコラム風速計/インターネット版」を書く時間がなくて、更新が滞っています。申し訳ありません。

◆新聞や雑誌に発表したルポルタージュやインタビュー記事や論説記事などは、執筆済みの原稿データがあるので、掲載記事をほぼそのままの形で「セカンドインパクト」にアップしています。

◆また、「サードインパクト」「身辺雑記」は毎日更新しています。ぜひ、そちらもご愛読ください。


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