新・大岡みなみのコラム風速計

【インターネット版】

(書き下ろし不定期連載。毎月末更新の努力はします)


◆「新・大岡みなみのコラム風速計/ネット版」を開始します

 「大岡みなみのコラム風速計」の連載終了を残念がってくださるメールをいくつかいただきました。「毎月楽しみにしていたのに、がっかりです」とか、中には「大好きだったテレビアニメが最終回を迎えた時のせつなさです」というメッセージもあって、執筆者としては何とも複雑な思いです。そこまで残念がってもらえてうれしいと言うか、申し訳ないと言うか…。

 「ぜひまたネット版で続けてほしい」などという声を聞くと、続けて書かざるを得ない気持ちになってしまいました…。そんなわけで、とりあえず「新・大岡みなみのコラム風速計/ネット版」をスタートさせることにします。コラムタイトルがちょっと長いですけど。毎月更新できるように努力はしますが、書き下ろし不定期連載です。「サードインパクト」「身辺雑記」に書いた文章を加筆修正してまとめて掲載することもあります。またよろしくご愛読ください。


INDEX

 1)新しい旗と歌ならいいか (1999年9月)

 2)「脱・記者クラブ宣言」に異議あり (2001年6月)

 3)市民の支持失う記者クラブ (2001年6月)

 4)「週刊金曜日」の北朝鮮報道を支持する (2002年11月、2003年1月)

 5)反面教師としての中国「反日」 (2004年8月)


 ◇新・風速計1◇

新しい旗と歌ならいいか

問題の本質は強制されること

 日の丸・君が代に反対する人たちは、どうしてこの旗と歌を拒むのだろうか。侵略戦争の暗い影を引きずっているからなのだろうか、それともデザインやメロディーがダサいからなのだろうか。だとしたら新しい旗と歌を民主的に選んで、それを国旗・国歌として制定すればいいのだろうか。そうではない。どんな旗と歌であっても「強制すること」が問題なのだ。

  ■例えば組合歌でも■

 教職員組合には「緑の山河」という組合歌がある。定期大会などの場面では今も組合員全員が起立して、声をそろえて合唱することが多い。

 ある組合員の先生がこんな話をしてくれた。「みんな当たり前のように起立して組合の歌を歌うけど、私はどんな時も起立しないし歌わない。これって、日の丸や君が代をみんなで歌えと言うのと同じでしょう」。例え組合団結の歌であったとしても、その場にいる全員を一律に従わせることへの疑問を提示したわけだ。ちなみにこの人は組合の反主流派ではない。熱心な組合主流派の先生である。

 もちろん、みんなが席を立ち声をそろえているところで、一人だけ席に座り黙っているのはとても勇気がいる。「なぜあいつは起立しないで座っているんだ」と白い目でみられるのは、君が代斉唱の際に一人だけ立たない場合と変わらない。

  ■反対の原点は何?■

 「日の丸と君が代に代わる旗と歌を国民みんなで議論して選んで、それを新しい国旗・国歌として定めよう」という声を、日の丸・君が代に反対する人たちからもよく聞く。

 しかし、国民全員がそろって納得できるような旗と歌など果たして定められるだろうか。それとも多数決で決めるのだろうか。そしてその結果、やっぱり一律に掲揚・斉唱を求めることになるのだろうか。

 それに「新しい国旗と国歌」という考え方では、「再び戦争が起きたらまたその旗と歌が利用されて、同じことが繰り返されるだけではないか」と言われれば反論できないだろう。使われ方が問題だとするならば、日の丸や君が代には罪はないということにもなるはずだ。

 日の丸・君が代に反対する人たちは、なぜ反対なのかを原点に戻って確認してみる必要があると思う。みんなを同じ方向に従わせる発想や空気や力には断固ノーを言いたいと、少なくとも僕は考えている。旗や歌はそうした力のシンボルであり道具の役割を果たしているし、これからも果たすだろう。

  ■旗も歌もいらない■

 民主主義と人権と平和を崇高に歌い上げていればいいのか。そうではない。どんな立派な歌であっても歌いたくない人は歌わなくていい、それでいて精神的苦痛を感じないでいられる、そんな社会が大事なのだ。

 しるしとしての国旗や国歌はあっていいと思うが、国旗や国歌をわざわざ法律で定める必要などない。ましてや、学校や会社や一般家庭に強制する性質のものではない。旗や歌は記号であり標識なのだから、存在がみんなに分かればそれでいい。慣習として立派に通用している国は世界中にいくつもある。

 自然発生的に声を出したり振りたくなるような、そんな旗と歌があればそれでいい。国や人間を愛して応援する心は、そもそも強制するものではない。

(書き下ろし:インターネット版1999年9月)


◇新・風速計2◇

「脱・記者クラブ宣言」に異議あり

権力者が言うことではない

 長野県の田中康夫知事が今年五月に、記者クラブは排他的な権益集団と化す可能性があるなどとして、「脱・記者クラブ宣言」を発表した。現在の記者室を撤去して、すべての表現活動にかかわる市民が利用できるプレスセンターを設けるという。一見もっともな主張だが、この「宣言」を素直に受け入れるのは危険だ。問題の本質をすり替えることになるからだ。

  ■本来は抵抗の機関■

 僕は、記者クラブは「あるべきだ」と思っている。正確に言うと、現在の記者クラブのありようはおかしいが、それは本来の記者クラブとしての機能を逸脱して、馴れ合い・癒着・独占の温床になっていることがおかしいということなのであって、記者クラブの存在自体が悪いのではないと思っている。

 「本来の記者クラブ」は、権力を監視・チェックする機関として、記者が一致団結して連帯し、圧力に抵抗するために、権力の牙城にくさびを打ち込むようにして存在したはずだ。それは権力から「勝ち取った」ものだった。

 取材を拒否する、記者会見に応じない、情報を隠す…など、そうした傾向を例外なく見せる権力者に対して、きちんと話をするようにと迫るのが定例記者会見である。だからこそ、記者会見はあくまでも記者側が主催して、記者側が一貫してリードしなければならない。

  ■報道統制のおそれ■

 これが大原則だ。そうでないと権力者のいいようにされて、会見の開催時期も質問に応じるか否かも、権力者の一存で決められてしまう。お願いして会見を「開いていただく」のではなく、記者側が主体的に開いて、記者側の土俵で相手に話をさせるのは、そういう重要な意味と役割があるのだ。

 こうした記者クラブの「本質論」から考えて、田中康夫知事が「脱・記者クラブ」などと言うことに、僕はものすごく違和感を覚える。権力者が言うことではないと思うからだ。

 どんな立派な権力者であっても権力者には変わりはないわけで、報道の自由や知る権利を侵害し、報道統制につながる可能性のあるような言動を、権力者がすることを認めるわけにはいかない。権力者や公的機関を監視してチェックするのが、ジャーナリズムの最も大切な仕事・役割なのだから。

 しかしだからと言って、現在の記者クラブのままでよいわけでは決してない。問題は、記者クラブの中で行政の堤灯記事しか書かず、独自の取材もしないで、現場に行こうともせずに、のうのうと情報を独占している記者の「姿勢」にこそある。

  ■記者自らが解決を■

 そのような意味に限って言えば、田中知事の指摘そのものは的を射ている。加盟のクラブ員だけで排他的な運営をしているだけでは、一般市民の共感は決して得られないだろう。まさに記者クラブ体制の中に安住し、記者たちは自分たちで自分たちの首を絞めているのだ。

 けれどもそのことと、権力者が記者クラブ廃止を言い出すのとは、まったく別次元の話である。記者クラブの現状や記者の取材姿勢の問題は、記者の側が自分たちで解決すべきことだ。

 記者の取材姿勢と記者クラブの関係については、「大岡みなみのコラム風速計」(旧版)の<47>で「埼玉県がネットで資料提供/価値判断と分析が記者の役割」として書いているので、そちらも参照してほしい。(この項つづく)

(書き下ろし:インターネット版2001年6月)


◇新・風速計3◇

本来の記者活動をしなければ

市民の支持失う記者クラブ

 前回の「田中知事の『脱・記者クラブ宣言』に異議あり」の続きである。田中康夫長野県知事が「脱・記者クラブ宣言」をして記者室撤去を通告し、それが決して少なくない市民の支持を得ているのはなぜだろうか。マスメディアのプロ記者が、自分たちのこれまでの取材姿勢や特権意識を反省することなく、癒着・横並び・役所の発表情報の垂れ流しなどを平然と続けているからだろう。そこにこそ記者クラブをめぐる問題の本質がある。

  ■自分の首を絞める■

 だからこそ、市民サイドから報道に対する反発が起きて、不信感を招いているのだ。メディアの現状や体たらくをしっかり見ていれば、それが当然の反応だろう。つまり、記者たちは自分で自分の首を絞めているのである。

 どうして記者たちは、そこに気付かないのだろう。記者クラブでのうのうと毎日を過ごしている方が、記者クラブの外に出て独自取材するよりもはるかに「楽ちん」だし、波風も立たないから、どうしてもそうなってしまうのかもしれない。

 そんな中でも、ごく少数の記者は記者クラブの中で「改革」の努力をしたり、記者クラブの枠にとらわれない取材をしたりと、そこそこの「奮闘」はしているし、新聞労連も「記者クラブ改革」を提言している。

 でも残念ながら、そうした努力は主流派にはなっていない。しかもそういう「考える記者」ではない人間の方が、圧倒的に数多く採用されているのがメディアの悲しい実態である。

  ■権力者の統制願望■

 神奈川県の鎌倉市長が数年前に、田中知事と同じように、記者クラブをなくして「メディアセンター」をつくると言い出して、話題になったことがあったが、この人はかなり強引な市政運営をする市長だった。メディアを統制したいという思いが強かったのだろう。朝日新聞で編集委員をやっていた経歴から、情報の管理統制や一元化の重要性はそれなりによく分かっていたのかもしれない。

 自分に都合の悪い情報は出したくないし、批判や悪口はできれば規制したい、そう考えるのは当然の心情だと思う。どんなに立派な人であっても例外はないだろう。

 見過ごせないのは、権力者にはそういう情報統制がやろうと思えばできてしまうということだ。僕だって自分が権力者の立場になれば、同じように統制しようと考えるに違いない。

 東京都の石原慎太郎知事は、そこのところをうまいこと逆手に取っている。記者クラブというものを強権的に弾圧するのではなく、マスコミによる「宣伝効果」を周到に計算して、記者クラブやメディアを最大限に利用している。その一方で自分に批判的な質問をする記者は、徹底的に排除しているという。

  ■市民の敵でいいか■

 最大の問題は、記者の根本的姿勢がおかしくて、本来あるべき記者としての役割を果たしていないことだ。伝えるべきことを伝えず、権力機構と癒着しているばかりか、特権意識の上に胡座をかいてしまっている。だから、権力者が「記者クラブ批判」をしたら、市民はその言動を支持してしまう。

 実に分かりやすい構図で、記者クラブやメディアは「市民の敵」になっているのだ。

 まさにそこが問題なのだ。自分たちの立場や危うさをきちんと認識していないから、権力者にいいように利用されてつけ込まれる。そしていざ言論の自由や知る権利が侵害されようとしている時に、味方になってくれるはずの市民からそっぽを向かれてしまう。ジャーナリズムはとてもヤバい状況にある。困ったものだ。

(書き下ろし:インターネット版2001年6月)


◇新・風速計4◇

ジャーナリズムの使命について

「週刊金曜日」の北朝鮮報道を支持する

 拉致被害者・曽我ひとみさんが北朝鮮に残してきた夫と二人の娘に対するインタビュー記事を、硬派週刊誌の「週刊金曜日」が2002年11月15日号に掲載した。この記事については賛否両論があり、拉致被害者の家族や支援者らは記事そのものに激しく反発しているという。

 今回の「週刊金曜日」の記事について、大岡みなみはどんな見解を持っているのか、教えてほしいとの質問が本欄の読者からあった。あえてここで書くつもりはなかったのだが、問われたので書き記しておくことにする。念のためにあらかじめ断っておきたいのは、たまたま僕は「週刊金曜日」にルポなどを書く機会が多いが、同社の社員でも何でもないし、同誌の編集方針や姿勢に必ずしも全面的に賛成しているわけでもない、ということだ。そのことを理解したうえで、一人の報道関係者の意見として、以下の見解を読んでいただければと思う。

  ■事実を伝える責任■

 この件は、ジャーナリズムの在り方が問われる問題である。インタビューの対象が、なぜ「曽我さんの家族」なのかという素朴な疑問は残るが、しかし、北朝鮮に残された拉致被害者の家族が今、どういう気持ちで暮らしているのか知りたいというのは、ジャーナリズムとしては当然の欲求だろう。いや、むしろジャーナリズムの責任であり義務であり使命でもある。多くの市民も知りたいと考えているはずだ。ジャーナリズムは「知る権利」にこたえる責任がある。

 曽我さんら五人の拉致被害者は、いったん北朝鮮に戻ることをせず日本にとどまるという「国家的選択」をした。五人にそういう選択をさせた日本政府は、北朝鮮に残された家族に対し、五人の日本滞在の経緯と安否を何らかの形で説明・報告し、安心させる責任があるはずだろう。

 今回のインタビュー記事によって、少なくとも北朝鮮の家族には何も伝わっていないことが検証された。北朝鮮の政治体制を疑うことなく信じて生きてきた家族が、北朝鮮当局の言うがままに発言するのは当然だろう。けれども、妻や母親に早く会いたいという思いや安否を心配する心情は決して偽ることなどできないし、おそらく率直な感情の吐露のはずだ。そういう「事実」を伝えることで、背景にあるものを検証して問題提起してみせることこそ、ジャーナリズムの責任であると思う。そういう意味で今回のインタビュー記事は、間違いでも無駄でもなかったと考える。

 曽我さんが、記事を読んで泣いたと伝えられるが、北朝鮮に残してきた家族の気持ちを思いやれば、それはあまりにも当然の反応だろう。「お母さんに会いたい」という娘や夫の気持ちと、家族がとにかく元気でいるという事実を、曽我さんはインタビュー記事を通じて一カ月ぶりにようやく把握したのだから。

 「曽我さんが怒っている」と伝えられているのが事実だとしたならば、それは記事に対してというよりは、家族が引き裂かれた状態にある「事実」のやりきれなさに対して怒っている(苦悩している)、ということではないのか。「十日ほど日本に行ってくると家族に伝えて北朝鮮を出発した」と曽我さん自身が、記事を読んだ翌日に記者会見で答えている。そのまま戻って来ない母親を心配する家族。その言葉を読んで号泣する曽我さんの心情は、察するに余りある。

  ■国家意識の排除を■

 拉致被害者の家族や関係者が、インタビュー記事を掲載した「週刊金曜日」を指して、「どこの国の雑誌なんだ」「出すぎた真似をするな」「余計なおせっかいをするな」などと発言しているのを聞いて、とても嫌な気持ちになった。拉致事件という北朝鮮の犯罪行為はもちろん許せないが、しかしだからと言って世論を一つの方向に誘導する情報操作のような手法は、北朝鮮の国家体制と同じようなうさん臭さを感じるからだ。北朝鮮の国家体制を激しく批判する人たちが、北朝鮮と同じように「国家意識」という錦の御旗を振りかざして、言論統制を図ろうとしているように思えてならない。

 そもそもジャーナリズムに国籍や国益や国家意識といったものを求めることこそが、とんでもない思い違いである。戦前・戦中にメディアが無批判に国威高揚や戦争推進に協力したのは、国家意識という一つのモノサシにすべてのメディアが染め上げられたのが原因だった。これからだって戦争になったらたぶん、国家意思に反する言動をするのは非国民であり反国家的行為だ、と決め付けられるだろう。

 しかしそういう圧倒的な風潮にあるからといって、恐れおののいて異論を唱えないのでは、ジャーナリズムは存在価値がなくなってしまう。どんな状況であっても、正しいと思える「事実」があればひるまずに異論を示して問題提起を続けることこそ、ジャーナリズムの使命だと考える。

  ■記者発表も宣伝だ■

 さらにもう一つ、付け加えて言及しておかなければならないことがある。今回のインタビュー記事を、「北朝鮮の一方的な宣伝になっているではないか」と批判する声についてだ。

 どんな記者会見や記者発表やインタビューや声明であっても、その声を広く伝えるという行為はすべて、発言する側の宣伝(代弁)に違いないだろう。警察や役所や企業や市民グループや容疑者や犯罪被害者の発表や発言には、それぞれに意図するものがある。そんな声を拾って伝えるというのは、そもそも「宣伝(代弁)」なのだ。しかし、実はそれこそがまさに報道の仕事である。発言している人物たちがさまざまな立場や思惑から発言しているのは、発言の主語と顔がはっきりしている限りきわめて明白で、そうした生の声(事実)をできるだけ多く集めて、判断材料として提供することこそが報道の仕事なのだ。

 一方の声は提供するが、もう一方の別の声は提供しないというのでは、戦前の大本営発表や軍事独裁国家の情報統制と何ら変わらない。

(書き下ろし:インターネット版2002年11月、2003年1月)


◇新・風速計5◇

反面教師としての中国「反日」

偏狭な「愛国心」の最悪のカタチ

 中国で開催中のサッカーアジア杯が、中国人の反日感情で大変なことになっているという。日本チームへのブーイングだけでなく、日本サポーターには野次やゴミが投げつけられ、日本の国歌演奏の時にも観客からブーイングが巻き起こる有り様だそうだ。

  ■非難の相手が違う■

 観客が自分の国の選手を応援するのは当然だろうし、反日感情の背景には、日中戦争の際の日本軍による爆撃などの歴史問題ももちろんあるだろう。小泉首相の靖国神社参拝や東シナ海の領土問題なども、大きく影響していることは想像に難くない。しかし、純粋なスポーツ交流の場であるはずの国際試合で、選手やサポーターに向けてこうした振る舞いをするのは常軌を逸しているし、何よりも人間として恥ずかしい行為だとしか言いようがない。なんて精神的に貧しくて情けない人たちなんだろう。

 日本人選手やサポーターが中国侵略をしたというのなら、あるいは過去の侵略戦争を肯定したというのなら、中国人観客から非難されても仕方ないだろう。だが、スポーツを楽しむために大会に参加しているだけで、過去の侵略行為と何ら関係のない選手やサポーターに対して、不当な非難や礼を失したブーイングを浴びせるのは、まったくのお門違いだ。

 中国人観客が非難や抗議をする相手がいるとすれば、それは過去の過ちを認めずに事実をねじ曲げて、詭弁を弄して過去を美化しようと必死になっているタカ派政治家たちだ。または、そんなタカ派政治家や保守系メディアにいいように踊らされて、自覚もなく過去の侵略行為や残虐行為の正当化に腐心する草の根右翼の市民たちだろう。しかしいずれにしても、そもそもサッカーの試合会場で持ち出す話ではない。ましてやホスト国の観客が、他国の選手やサポーターに対して取る行動ではあり得ない。

  ■「愛国教育」の怖さ■

 こうした中国人観客の日本人に向けたブーイングなどの行動を見ていると、偏狭な「愛国心」や「民族主義」の恐ろしさと異常さをあらためて痛感する。自分たちの国や民族が絶対的に優れていると思い込み、根拠もなく不必要に特定の他国や他国民をおとしめて排除する。まさにこれこそが「ナショナリズム」「愛国全体主義」の最悪の結果だ。

 一方的で片寄った教育や政治宣伝の影響によって、なんとも物の見方の狭い排他的な「愛国心」が植え付けられていく怖さ。そんな最高のお手本を、サッカーアジア杯の会場で中国人観客たちは示してくれた。テレビや新聞の報道を見て、そのような感想を持った人もたぶん多いのではないか。

 「愛国心」の方向や力の入れ方が完全に間違っている。他国民との友好関係を著しく損なうわけで、長期的な未来志向の視点で考えると、むしろ「売国奴的な振る舞い」だとしか言いようがない。

  ■中国人観客に感謝■

 中国人観客の非礼な言動を見て、僕自身の心の中に深く根付いている日本人としての誇りや愛国心がかなり刺激され、中国人観客に対してすごく不愉快な気持ちになったのは事実だけど、そこで単に中国を敵視するのでは相手のレベルに合わせることになる。

 誇りある日本人の一人として、偏狭な「愛国心」や「民族主義」のマイナスを教えてくれた中国人観客に感謝しよう。反面教師として他山の石としよう。少なくとも自分たちは、こんなみっともない行為だけはするまい。それこそが真の愛国者としての態度だろう。

 少なくとも世界中に向けて恥をかいたのは中国の側だ。非常識で野蛮で礼儀を知らず、思いやりや慈しみに欠けたみっともない国民というイメージを、中国人は国際的にアピールしてしまったのだから。

 8月7日に北京で行われた日中決勝戦は3対1で日本が優勝した。会場の雰囲気が注目されたが、相変わらず日本の国歌演奏の際には、中国人観客からブーイングが巻き起こり、試合中も日本選手のプレーに罵声が飛び、日本サポーター席にも物が投げ込まれた。さらに試合終了後も、群集が日本選手団のバスを取り囲むなどの騒ぎが続いたという。

 ちなみに言うまでもないが、五輪などのスポーツの世界大会で自分の国の選手を応援するために、自ら進んで国旗を振ったり国歌を歌ったりするのと、一方的に押し付けられて強制されるのとでは、背景や意味は全然違ってくる。所属する集団や地域や国への愛着とか共感性というものは、自発的な気持ちによる自然発生的なものであって、決して強制されるものではない。偏狭な愛国心を押し付けようとする人たちや、歪んだ愛国心をふりかざす人たちは、このへんのことをよく理解していないのだろう。そういう人たちは、たぶん自分自身に対して自信や誇りを持っていない(持てない)から、その代償として国家や権威に自分のアイデンティティーを重ねようとするのだ。

(書き下ろし:インターネット版2004年8月)

※最後の段落部分「ちなみに」以降の文章を加筆しました(2004/8/22)


【お知らせ&言い訳のようなもの】(1999/12/27)

◆「新・大岡みなみのコラム風速計/インターネット版」を書く時間がなくて、更新が滞っています。申し訳ありません。

◆新聞や雑誌に発表したルポルタージュやインタビュー記事や論説記事などは、執筆済みの原稿データがあるので、掲載記事をほぼそのままの形で「セカンドインパクト」にアップしています。

◆また、「サードインパクト」「身辺雑記」は毎日更新しています。ぜひ、そちらもご愛読ください。


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