大岡みなみのコラム風速計

(初出:人権団体の機関誌に連載)


INDEX

 51)横浜市の市民学級が中止に? (1999年3月号)

 52)日の丸・君が代の法制化に思う (1999年4月号)

 53)新聞社批判は公益にかなう (1999年5月号)

 54)新聞記者を辞める理由 (1999年6月号)

 55)解釈でどうにでもなる「君が代」 (1999年7月号)


 ◇風速計51◇

横浜市の市民学級が中止に?

役人の事なかれ主義にあきれる

 役所と市民グループの共催による「報道を考える」講座が、役所の一方的な判断で中止されそうになる事件があった。「都知事選の立候補予定者を取り上げるのは困る」というのが中止理由だが、告示前の話だから問題などないにもかかわらず役人たちは過剰反応するのだ。せっかくの講座を中止させようとする役所の事なかれ主義には、あきれるばかりである。

  ■報道を考える講座■

 この講座は、横浜市南区役所が市民の生涯学習活動を支援するために行っている市民学級の一つ。「報道を考える」シリーズとして二月に計四回の講座が開かれた。区の呼びかけに応じて集まった一般市民が運営委員会を組織し、市民学級を役所と共催するのが特徴だ。

 役所が突然中止を申し入れてきたのは、三回目の「人権と報道」の講義。担当講師で同志社大学教授の浅野健一さん(元共同通信記者)から事前に送られてきたレジュメを見て、区職員が「選挙前に特定の候補者を取り上げるのは困る。削除しないと開催は難しい」と直前になって言い出したのだという。

 レジュメは元国連事務次長の明石康氏について触れており、「マスコミがつくった公正・中立という明石康氏のイメージは虚像である」という視点に基づいて、報道の在り方に対して厳しい批判が展開されていた。

  ■過剰反応する役所■

 浅野さんは「講師の話の内容を役所の人間が制限するのはおかしい。事前検閲ではないか」と申し入れたが、役所側は「責任者と区長の決断で講座中止を決めた」と回答した。

 だが、この役所の対応は明らかに過剰反応だった。確かに明石氏はこの時点で都知事選に名乗りを挙げているが、都知事選はまだ告示もされていないし、報道を考える材料として明石氏を引き合いに出すことに、不都合は何もない。しかも会場は神奈川県なのである。

 実は、この講座の一回目の講師は僕だった。その中で、岡崎洋神奈川県知事の堤灯記事を書き続ける地元紙記者の姿勢を徹底批判したのだが、今回の役所の論理では、県知事選に出馬するであろう現職の話は一切できないことになるではないか。

 そもそも、この市民学級は一般市民による運営委員会によって準備が進められてきたというのに、役所の人間が一方的に講座の中止を決めるというのも実におかしな話である。事の重大さに気付いたのだろう。講義前日に、役所は慌てて中止の撤回を連絡してきた。

  ■賢い市民を育てる■

 「メディアから流される情報をうのみにせず、報道の在り方を考えていこう」。そんな刺激的なことを訴える市民学級の講座を、役所が共催するというのは画期的だ。役所の催しと言えば「当たり障りがなくて無難なもの」と相場は決まっているのに、カルチャーセンターでは学べないような刺激的な講座が開けたのは、市民による運営委員会の存在が大きい。

 主体的な発想で講座を企画する運営委員会に対して、役所はお金と場所の確保の面でサポートする。市内の十八区すべてで行われているこうした市民学級は、横浜市が胸を張って誇れる施策である。意識の高い賢い市民を育てるための支援制度を、役所の事なかれ主義の体質でぶち壊しにしてはいけない。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1999年3月号)


 ◇風速計52◇

日の丸・君が代の法制化に思う

不思議な「強制」の発想

 「日の丸」「君が代」を日本の国旗・国歌として法律で定めよう、という動きがこのところクローズアップされている。広島県立高校の校長が、卒業式での「君が代」斉唱に悩んで自殺したことから、法制化の動きはさらに加速しているようだ。それにしても、この問題でいつも不思議だなあと思うのは、個人に思想・信条を強制して平気でいられる感覚である。

  ■思想・信条を強制■

 僕がいつも考え込んでしまうのは、他人に対して「こう思いなさい」と思想・信条を強制するとは、どういうことなんだろうということだ。

 「日の丸」「君が代」に対する思いや感情は、人それぞれである。「日の丸」はデザイン的には優れているし、大昔から日本船舶の旗印として使われてきたことから、比較的受け入れられやすい土壌はあるだろう。しかしそれでも、太平洋戦争で悲惨な使われ方をした歴史的経緯から、今でも拒否反応を示す人たちは国内外に大勢いる。ましてや「君が代」は、その歌詞の内容から考えると根強い反発があることは理解できる。

 嫌だと思っている人に対し、なぜ強制するのかが僕にはさっぱり分からない。個人の心の中に踏み込んでくる行為は、だれであっても許されないはずだ。国を愛するというのはそういうものではないと思う。

  ■君が代の「君」は■

 もちろん「日の丸」を掲げたい人は自由に掲げればいいし、「君が代」を歌いたい人は自由に歌えばいい。それは同時に、掲げたくない人や歌いたくない人には拒否する自由があるということでもある。

 けれども、法律で「君が代」を国歌として定めることには違和感を感じるのだ。「君が代」の「君」が天皇を指しているのは歴然としているわけで、決して二人称の「君」ではない。だからこの歌は「天皇の治める世の中が未来永劫ずっと続きますように」という内容なのだが、それを「国歌」として法律で定めるのは、日本国憲法の理念とは矛盾していると考えざるを得ないからである。

 僕が不思議に思うのは、そういう歌を児童・生徒に斉唱させるように、教育委員会が校長を「指導」するという発想そのものだ。「天皇の治める世の中が続きますように」と思う人は自由に歌えばいいけれど、そう思わない人にまで歌うように指導するとは、どういうつもりなのだろう。他人の心の中に、よくもそこまで平然と踏み込んでこられるものだと思う。

  ■基本的人権の問題■

 教育委員会(文部省)の傲慢さ・不遜さ・横暴さには驚くばかりである。国家や行政が、市民に対して「天皇の治める世の中が続きますように、と歌いなさい」などと指導する権利がどうしてあるのか、残念ながら僕にはまるで分からない。

 断っておくが、国旗や国歌の存在そのものを否定しているわけではない。しかしどんな旗や歌であっても、それを個人に強制してはならないと思うのだ。旗や歌はあくまでも、記号や標識に過ぎないのだから。最も大切な国民の人権を侵害してまで強制するものではない。

 思ってもいないことを無理やり思わされ、歌いたくないものを強制的に歌わされるのは異常な事態だと思う。これは「基本的人権」の問題である。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1999年4月号)


 ◇風速計53◇

新聞社批判は公益にかなう

実態紹介は記者の責任

 伝えるべきニュースを平気で握りつぶす編集幹部や、ちょうちん記事を書いて平然としている記者、人権感覚がまるで感じられない記者たちの実態を、僕はこれまでいろいろな形で会社の外に発表してきた。新聞社内で起きている「異様な状況」を外の世界に知らせるのは、公共の利益にかなっていると考えるからだ。それは会社の利益にもつながるはずなのである。

  ■「悪口」とは違う■

 ところが、新聞社内の実態をつまびらかにして批判すると、「自分の会社の悪口を言っている」という言い方をして攻撃を始める人たちがいる。

 何と視野が狭くて貧困な発想なのだろう。言うべきことも言わず、何の疑問も感じないで、会社や上司の言いなり。主体性の欠如したそんな「社畜」記者が多すぎる。そもそも、社内に自浄作用が働かないから、仕方なく社外に向けて情報発信している面もあるのだ。新聞社や新聞記者の在り方を考えるための正当な批判と、悪口との区別がつかないのだろうか。

 僕が紹介するエピソードは僕自身の個人的体験に基づいてはいるが、いずれも公共性の高い出来事ばかりである。「個人的体験」と「私的事柄」はまるで別ものだ。決して私憤を吐露しているわけではない。

 僕は、会社に貢献していると考えてきたつもりなのだ。

  ■読者への背信行為■

 世の中の矛盾を検証して、問題提起し、弱い立場の人を守るのは、新聞記者の重要な仕事であり責任である。だから新聞記者には、さまざまな「特権」とでも言えるような取材上の便宜が与えられている。「知る権利に奉仕する」「報道の自由を守る」などの大義名分によって、記者としての取材活動の自由が保証されているのは、読者である市民の支持と信頼があって初めて成立するのだ。

 それなのに、新聞記者としての本来の仕事を意図的に怠っているのだとすれば、それは読者に対する背信行為と言えるのではないだろうか。高い購読料を払ってもらっている読者への詐欺行為でもあるだろう。読者には、そうした新聞社の実態を知る権利があると僕は考える。

 現場記者の思いや悩みなどの情報を外に向かって発信することによって、新聞やジャーナリズムの在り方を考える材料を僕は提示してきたつもりだ。それは、社会やジャーナリズム全体の利益になるものだと思うし、結果的には会社(僕が所属する新聞社)の利益にもつながるものだと考えてきた。

  ■会社にとって損失■

 昨年秋、日本ジャーナリスト会議(JCJ)で講演する機会があった。後日、僕の勤務する会社の編集幹部がJCJの本部を訪れて「うちの記者が講演したそうだが講演記録を見せてほしい」と要請したそうだ。

 僕にそのことを教えてくれたJCJ事務局の人は「あなたの新聞社では編集幹部が記者の素行調査をするんですか」と驚いていた。まさにファシズムである。JCJ奨励賞をかつて授与した新聞社の行動とはとても思えない、と言うのだ。

 その編集幹部のグループこそが、伝えるべき原稿を平気で握りつぶし、やる気のある記者の思いを押しつぶしている人たちなのだった。読者に対して、会社に対して損失を与えているのは一体どちらだろうか。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1999年5月号)


 ◇風速計54◇

新聞記者を辞める理由

編集の独立を脅かす局間異動

 勤務していた新聞社を今月で退社した。いわゆる「局間異動」で、編集局外への人事異動を命じられたからだ。入社する際に記者として、編集局員として採用されたのに、金儲けや企業宣伝のための記事を書くような仕事は僕にはできない。「記者」であり続けるために僕は、会社を辞めることを選んだ。会社員になるのが目的で新聞社に就職したわけではないから。

  ■宣伝記事は書かず■

 それにしても、編集局員の局間異動を平気で行える新聞社というのは、編集の独立を自ら放棄しているわけで、正常な感覚であるとは到底思えない。

 そもそも記者というのは、新聞社の経営からは常に独立した立場で、自由に取材・執筆できなければならない。同じ社員であっても、広告や販売など会社経営のさまざまな思惑から離れていなければならないのだ。もちろん記者は、内外の圧力に屈してはならないし、特定企業や団体の利益になるような宣伝記事を書いてはならない。

 そうでなければ、記事の信頼性が根本から揺らいでしまうからだ。記事の信頼性を維持してこそ初めて、言論・報道の自由が守られるのである。

 新聞記者は新人の時から、そのことをずっと叩き込まれてきた。取材・編集ともに、それは記者として最低限の職業意識であり、誇りでもあるのだ。

  ■職業意識を否定…■

 だから、編集局員である記者は、普通の記事のように見せて実は広告である「記事体広告」の執筆や編集にタッチしてはならないのである。けじめのある新聞ではそういうページには、通常の編集ページと区別するために「広告局制作」とクレジットが入っているはずだ。

 では、編集局員が広告局や販売局に異動すれば、身分は記者ではなくなるわけだから、問題はないのだろうか。

 とんでもない。それは問題の本質が何も分かっていない人の浅はかな発想である。一見すると問題はないように思えるが、編集局員が簡単に局外へ異動させられてしまうというのは、編集の独立を人事異動という力で脅かすことになるのだ。

 新聞社経営と記者活動が衝突した場合や、会社幹部にとって都合の悪い記者活動を行った場合、記者を編集局外へ異動させることがまかり通ればどういうことになるだろうか。自由な記者活動や発言が、著しく制限されることは明らかだろう。

 それに、異動先では今までの職業意識が根底から否定されるわけで、精神的苦痛は大きい。

  ■記者を続けるため■

 経営に参画するくらいの役職に就いている管理職ならば、局間異動で編集局外に異動することはあるだろう。しかし、本人の同意もなしに一線記者が局間異動の対象になるというのは、「まともな新聞社」ではあまり聞いたことがない。

 全国にあるいくつかの新聞社では、確かに日常的に局間異動が行われているのは知っているが、それは異常なことなのだ。労働組合が機能していれば、会社にそんな異動はさせない。

 そんなわけで、僕は新聞社を辞めることにした。異動を受け入れれば「記者」ではなくなってしまうからだ。記者を続けるために会社を辞めるのである。前にも書いたが、会社の看板で取材するわけではない。記者は記者なのだ。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1999年6月号)


 ◇風速計55◇

やっぱり「君」は天皇だった

解釈でどうにでもなる「君が代」

 「君が代」が大好きな人たちは、「憲法で天皇は国民統合の象徴とされているから、君が代は憲法違反ではない」という言い方をするが、それはあまりにも歴史と日本語を無視した論理だなあと思っていたら、政府も同じことを言い出した。盗聴法や国民総背番号制などと一緒にこの際、国民の人権や思想・信条の自由を縛る「危ない法律」はすべて成立させたいらしい。

 ■日本語に対し失礼■

 一度は国会提出が見送られた「日の丸・君が代法案」(日の丸・君が代を国旗・国歌と定める法案)が閣議決定され、続いて政府は君が代の「君」は「天皇」を指すとの統一見解を発表した。「天皇を象徴とする日本の繁栄と平和を祈念する歌」だというのである。

 しかしそれは詭弁というものだろう。

 「君が代」という日本語は、「天皇の治める世の中」と取るのが自然なのであって、「象徴天皇のいる世の中」という意味ではない。明治時代からずっと「絶対君主である天皇の治める世の中」とされてきたのに、それを今さら取って付けたように「象徴天皇」という意味に解釈するのは、かなり無理があると言わざるを得ない。

 「治める」と「いる」では意味が全然違う。そのような節操のない解釈をするのは日本語に対しても失礼だ。

 ■言葉の本質をみる■

 それに、もしも仮に君が代の歌詞が「象徴天皇」と矛盾しないと解釈できたとしても、言葉というものは表層的な意味だけでとらえるのではなくて、その言葉が「これまで持たされてきた意味」と「これから持たされようとしている意味」を、理解した上で論じられなければならないと思う。それが「言葉の本質」を把握するということだと思うのである。

 君が代はずっと、「わが天皇陛下のお治めになるこの御代は千年も万年も、いやいつまでも続いてお栄えになるように、という意味で、まことにめでたい歌です」(戦前の修身教科書)と説明され続けてきた。元歌である和歌の本来の意味とは無関係に、天皇の治世を絶対唯一のものと説明するため、為政者によって、歌詞の意味・解釈が恣意的に決められてきたことを忘れてはならない。

 そして現代でも、そうした意味付けや解釈の延長線上で、君が代を論じようとする人たちが為政者を含めているという事実を考えると、額面通りに「象徴天皇の歌」とは理解しにくいのである。

 ■一方的な意味変更■

 そもそも、そんなにくるくると解釈の変わる「国歌」とは一体なんなのだ。教育行政は少し前まで「君」は「国民」を指すとも言っていたし、現に学校でそのように教わった人は大勢いるはずだ。それが今度は「象徴天皇」を指すのだという。

 このことだけを見ても、実にいい加減で、解釈次第でどうとでもなる危険な体質は今も変わらないという実態が垣間見えるではないか。国民を無視して、為政者の都合で一方的に歌の意味が変えられる。いつの間にか「国民」が「天皇」に変わってしまった説明は一切ない。

 そんなでたらめなものを、どうやって尊重して歌えと言うのか。「国歌」と言うからには、それなりの主張と願いが込められているはずだろう。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1999年7月号)


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