大岡みなみのコラム風速計

(初出:人権団体の機関誌に連載)


INDEX

 41)ある新聞社のホームページを笑う (1998年5月号)

 42)日本の検察はストーカー (1998年6月号)

 43)「学校の壁」を崩す作業 (1998年7月号)

 44)民意とかけ離れた報道 (1998年8月号)

 45)制約多い新聞記者 (1998年9月号) 


 ◇風速計41◇

ある新聞社のホームページを笑う

優先すべきは紙面の充実

 ある新聞社が作っているインターネットのホームページ(HP)を見て、思わず噴き出してしまった。あまりにも稚拙でお粗末な内容もそうなのだが、むしろその「本末転倒」ぶりにあきれ返った。まず充実した紙面があって、それから新たな情報発信のためにHPを作るのなら分かるが、貧困な紙面をそのままにしていながらさらに貧困なHPを作る感覚は何だろう。

  ■載らないニュース■

 まず笑えるのは、この新聞社のHPには毎日のニュースが何一つ掲載されていないということだ。新聞社のHPならば、紙面化された全国ニュースや地域ニュースなどが、毎日更新されて提供されるのが普通だろう。毎日更新しないにしても、反響のあった連載記事をまとめるとか、大きな事件の関連記事を特集して掲載するなどの情報提供があっていいはずだ。

 インターネットで新聞社のHPにアクセスしようとするユーザーの多くは、それを期待している。新聞社のページなのに、ニュースが載っていないというのが信じ難い。いったい何を考えているのだろうか。

 それではほかにどんな記事があるのかと言えば、観光案内やイベント紹介、採用セミナー、人物紹介、エッセーなどが載っているだけだ。これでは観光協会のHPと何ら変わらないではないか。

  ■あきれる本末転倒■

 しかし、本当に噴飯ものなのは、HPの内容が稚拙でお粗末なことではない。毎日作っている紙面内容が貧困なのに、HPに人と時間を使って平然としていられる感覚にあきれる。

 新聞社だったら、まず紙面の充実が最優先のはずだろう。読者の心を揺さぶる連載ルポ、行政の腐敗を斬る批判記事、社会の矛盾を鋭く突く調査報道。そんな記事が満載されている新聞こそ読者は望んでいるのだ。

 ところが、この新聞社の新聞には最近、どうもそういった記事が見受けられない。行政や企業のちょうちん記事はよく見かけるのだが。しかも大事なニュース、伝えるべきニュースがなぜか小さく扱われている。環境ホルモンと給食食器の問題、日交管グループへの警察OB天下り問題、スポーツ施設の公共工事をめぐる談合問題など、ほかにもきちんと伝えていないニュースは山のようにある。

 読むべき記事、読ませる記事が紙面にない。そんな新聞を出していて、それでいながらHPに力を入れるなんて、滑稽としか言いようがないではないか。まさに「本末転倒」だ。

  ■力入れる順序が逆■

 まずは何をさておいても、紙面内容をこそ充実させるべきだろう。力を入れる順序がまるっきり逆なのだ。伝えるべき記事を新聞に載せないのは、高い購読料を払っている読者に対する詐欺的行為である。

 ある通信社の元編集主幹が、僕にこんなことを言ったことがある。「これまで六紙購読していたんだけど、今月から◯◯新聞を止めたよ」「どうしてですか?」「郵便受けが狭くなってね、入りきらないんだよ」

 ◯◯新聞とはこの新聞のことである。元編集主幹は暗に「つまらないから購読を止めた」と指摘しているのである。新聞と新聞記者に限りない愛情と理解を抱いているはずのこの大先輩記者に、そんなことを言わせてしまうのが悲しい。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1998年5月号)


 ◇風速計42◇

日本の検察はストーカー

甲山事件控訴に驚く

 甲山(かぶとやま)事件で、被告の山田悦子さんに神戸地裁が無罪を言い渡した差し戻し審判決を不服として、神戸地検が大阪高裁に控訴した。こんなことが許されるのだろうか。これまでに無罪判決が2回も出ているのである。有罪が立証できなかったのだ。それなのにしつこく控訴するのは、著しく被告の人権を侵害している。日本の検察はストーカーと同じだ。

  ■被告の人権を侵害■

 有罪が立証できなければ被告は無罪である。それが「法治国家」というものだ。

 しかも事件から24年、起訴から20年も経っている。求刑の懲役13年よりもはるかに長い年月を裁判に費やして、さらに裁判を長期化させるとはどういうつもりなんだろう。明らかな人権侵害ではないか。憲法第三十七条には「被告は公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」と書いてあるではないか。

 検察はいったい何を考えているのだろう。そういえば、だれかが「日本の検察はストーカーだ」と言っていた。被告を有罪にするまでどこまでも追いかけていくのである。たとえ無罪判決が出ても「それでも有罪だと確信している」と大声で宣伝する。まさにストーカーだ。こんなことをする権利が果たして検察にあるのだろうか。公権力による暴力・犯罪である。

  ■公訴権は消滅した■

 被告の山田悦子さんの話を聞く。「司法を利用して私を追っかけているんですわ。司法ストーカーなんですよ。22歳から47歳まで司法に振り回されてきました」。山田さんの場合、再逮捕の時の捜査を担当した検事が、現在は大阪高検の検事長に君臨していて、これからも甲山事件の控訴審を指揮していくのだという。

 これはどう考えたって異常な話である。無罪判決が2回も出たということは、検察側の証拠が否定されたということなのだから、控訴を断念するのが普通だろう。検察の「公訴権」は消滅したと考えてもいいはずだ。消滅までしないにしても、少なくとも「公訴権」の行使は自粛するべきだろう。

 しかし、神戸地検は性懲りもなく再び控訴したのだった。この先、裁判を何年続けようというのだろうか。恐るべき「検察ストーカー」である。

 もちろん、批判されなければならないのは、検察だけではない。逮捕の時点から容疑者を犯人視する報道を繰り広げたマスコミの過去は、決して免罪されるものではないからだ。

  ■想像力が働かない■

 しかも、無罪判決が出されているのにもかかわらず、新聞社の編集局幹部の中にも「こいつは有罪に決まっているんだ」と何回も繰り返す馬鹿がいる。

 何を根拠にそういう無責任な発言ができるのか、信じられない。自分で検証取材でもしたというのならまだ話は分かるが、調査もせず法律の勉強もしないで、よく平気でそんなことを公言できると思う。被告や被告の家族の前でも、同じような無責任な発言ができるのだろうか。自分の家族や友人が被告の立場に立たされた場合にも、同じように言うのだろうか。

 「人権感覚の欠如」などというよりも「人間としての想像力のなさ」の問題だ。心から軽蔑する。でも残念ながら、こういう人間が新聞社には多い。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1998年6月号)


 ◇風速計43◇

「学校の壁」を崩す作業

作文開示を求め続ける両親

 「平気でうそをつく。事実をねじまげた上に隠蔽工作までする」。保身とメンツのために、学校ぐるみでそんなことに明け暮れる教師たちの、それが実態だった。「自殺した娘に学校で何があったのかを知りたい」と願った両親は、教師集団のそんな醜い姿を目の当たりにすることになった。学校と教育行政に異議申し立てを続ける両親が、これまでの歩みを本にした。

  ■娘の心を知りたい■

 本を書いたのは、東京都町田市の前田功・千恵子さん夫妻。「学校の壁/なぜわが娘が逝ったのかを知りたかっただけなのに」(教育史料出版会)をこのほど出版した。

 前田さん夫妻の二女晶子さん(当時中学二年)は1991年9月1日に自ら命を絶った。いじめを苦にしての自殺だった。

 「娘はどうして死を選んだのか、学校で何があったのかを知りたい。本当のことを教えてほしい」。親としてごく当たり前の切実な思いに対して、学校側はあろうことか陰湿でしかも不正な方法で事実を覆い隠そうとした。

 わが子を亡くした両親に真相を伝えないばかりか、隠蔽工作や教委への虚偽報告という信じ難いことを学校・教職員ぐるみで平然とやるのである。「学校の先生がうそなんかつくわけがない」という前田さんの考えはとんでもない幻想だった。

  ■恥じない教師集団■

 そればかりではない。教師仲間ではかん口令を敷く。晶子さんの友達が学校生活の様子を話そうとすると、寄ってたかって「いじめはなかったんだ」と説得(口止め)する。さらに、ほかの保護者たちと前田さん夫妻との間の分断までするのだ。

 「痛ましい事態を繰り返さないように考えていこう」などという発想はかけらもない。あるのは、学校の体面を取り繕うために策を弄し、保身のために右往左往する教師たちの醜い姿だけだ。そんなことに膨大な時間を割いて、議論を続ける教師集団に背筋が寒くなる。

 晶子さんの死後、学校は情報収集のために全校生徒に作文を書かせるのだが、この作文を見せてほしいと申し入れた前田さん夫妻の願いを、学校側は断固拒否する。最初は「作文は生徒に返却した」と言っておきながら、返していないことが明らかになると、次には「廃棄処分した」と変わり、教師宅に保管されていることが判明すると、今度は「作文は生徒の所有物だから見せられない」などと言い出す。すぐにばれるようなうそを次々と平気でつくのだ。

  ■「心の壁」崩す試み■

 個人情報保護条例に基づく作文の開示請求は「非開示」とされ、舞台は裁判の場に移る。

 「愛するわが子が苦しんでいることに気が付かず死なせてしまった」という後悔と反省の気持ちを吐露しながら、事件の真相に迫っていく過程に目頭が熱くなる。夫妻の行動力は「娘の苦しみを理解してやりたい」との強い思いに支えられている。教師たちにその思いを想像する心はないのだろうか。

 言うべきことを言わない。見て見ぬふりをする。行動すべき行動をしない。そんな「もの言わぬ人々」が「閉鎖的な学校」や「閉鎖的な社会」を支えている。前田さんの「学校の壁」を崩そうとする取り組みは、そうした人たちの「心の壁」を崩そうとする試みでもあるのだ。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1998年7月号)


 ◇風速計44◇

民意とかけ離れた報道

新聞は政治のどこを見ているか

 参院選は自民党が惨敗し、橋本首相が退陣する結果で終わった。不況にあえぐ有権者の怒りが爆発したのだ。民主主義の道筋からすれば、次は解散・総選挙で民意を問うべきだろうが、実際には舞台は自民党総裁選へと移るのだった。でもここには民意は何も反映されない。それなのに、総裁選の記事をただ垂れ流すだけでは「報道機関」の名前が泣くというものだ。

  ■怒り示した有権者■

 参院選の結果が意外だったのは、「有権者の怒り」をマスコミも政治家も予想できなかったからだ。しかし、選挙前の報道が、有権者を「投票に行ってみようかな」という気にさせた側面も事実あると思う。

 特に投票直前のテレビは「どうせ何も変わらないなどとあきらめないで」と繰り返していたし、「投票に行くことの意味」や「政治に無関心になることの危険性」をかなり本気で訴えていた。意気込みが違っていた。その影響は大きい。なにを隠そう、僕自身もそんな報道特集番組のキャスターの呼びかけに心を動かされて、棄権しなかった一人なのだ。

 その結果、投票率は大幅に上昇した。投票内容を分析してみると、無党派層ばかりか自民支持層からも、大量の票が非自民に流れている。有権者は今回の選挙ではっきりと自民党にノーを宣言したのである。

  ■解散・総選挙こそ■

 さて、その民意の行方はどうなるのだろうか。本来ならば解散・総選挙で民意を問い、それから首相指名へと進むのが民主主義の手順というものだろう。だが、ここで選挙をやれば再び自民党が大敗するのは明らかだから、それはありえない。

 実際には、民意とはまるで関係なく自民党総裁に選ばれた小渕恵三氏が首相に指名された。衆院では自民党が過半数の議席を占めているから結果的には自民党総裁が首相になるが、しょせん総裁選は自民党の親分を決めるだけの話に過ぎず、そこに民意は反映されないのだ。

 それなのに、自民党総裁選にだれが出て、だれが選ばれたらいいか、などと大騒ぎするだけのマスコミとは何だろう。参院選で有権者が示した結果を尊重するならば「解散・総選挙をやれ」というキャンペーンを大々的に張っていいはずだ。

 「有権者が発した怒りのメッセージを自民党は相変わらず全然理解していない」という視点で、皮肉と批判を込めて総裁選を報道する新聞社もあったが、何の哲学もなくただ大騒ぎしているメディアも多かった。

  ■おらが村の首相?■

 中でも仰天したのは、「(総裁選候補者の一人)小泉純一郎氏の選挙区では地元出身の首相誕生に期待が集まっている」などという記事を、地元紙が社会面トップに据えていたことだ。そんなものが、参院選で示された有権者の声とどんな関係があるというのだろうか。

 さらに、小泉氏が総裁に選ばれたら号外を出す準備もしていたというのだ。小渕氏や梶山静六氏が選ばれた場合には号外は出さないというから恐れ入る。今どき「おらが村の首相」でもあるまいに。その視点と政治感覚に絶句してしまう。

 「横浜高校が甲子園で活躍するのを応援します」というのと同じ感覚なのか。だったら「公器である報道機関」などという偉そうな看板は外しなさい。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1998年8月号)


 ◇風速計45◇

制約多い新聞記者

やりたい取材は休日に

 意欲と志を持っている新聞記者ならばたぶん、だれもが「自分のやりたい取材を好きなように自由にやれたらなあ」と思っているに違いない。でも、現実は厳しい。本当にやりたい取材はなかなかできないのが新聞社の実態だ。だからといって何もしないのでは記者になった意味がない。厳しい状況や環境の中でも、やりたいことをやるのが記者というものである。

  ■記者に自由はない■

 新聞記者にはあまり自由がない。好き勝手に自由に飛び回っているように見えるかもしれないが、実は制約がいっぱいあっていつも忙しいのだ。

 外勤の取材記者はまず、紙面を埋めるための決まりごとをこなさなければならない。ルーティーンワークというやつだ。それに、記者クラブ詰めならばお役所の発表を次々に処理しないとデスクから文句を言われる。番記者は政治家の追っかけ、警察担当はお巡りさんの家を昼夜関係なく訪問する…。そんな仕事が一日中続く記者もいる。

 内勤の整理記者は紙面作りが仕事だから、外勤記者が書いてきた原稿を次々にチェックし、見出しを付けて、ニュース価値を判断した上で整理・編集(レイアウト)する作業に没頭することになる。新聞社の中核の部署ではあるが、しかし、内勤をやりたくて新聞社に入ったという人間はあまり多くない。

  ■勤務時間外に取材■

 大勢いる新聞記者の中で、本当にやりたい取材が自由にできているのは、ほんの一握りの人間だけだ。日本の多くの新聞社の組織が、記者を自由に泳がさないシステムになっている。でもそれでいいのだろうか。

 言われたことを黙々と片付けるだけが記者の仕事ではないはずだ。多くはないが、しかし決して少なくない記者がそんな制約がある中でも、自分の本当にやりたい取材を続けている。

 通常の勤務時間は決まりごとの仕事で終わってしまうから、自分が追いかけたいテーマを取材するのは、どうしても休日や勤務時間外を使うことになる。僕も内勤だった記者二年生の時にそんな取材を続け、沖縄問題や教育問題などの特集記事、連載企画を紙面に載せてもらったことがある。そうした取材のスタイルは、内勤でも外勤でも僕は変わらない。

 「どうして休みの日をつぶしてまで仕事をするの。そんなのおかしいじゃん」。世間一般では、そういう反応になるのが普通だろう。確かに変だと思う。もちろん勤務時間内に取材できればいいに決まっている。

  ■書きたいことを…■

 だが、実際には勤務時間ではやりたい取材ができないのだ。ならば休日を使ってでもやってしまうのが記者である。そういう仕事がしたくて記者になったのだから。書きたいことが書けないのならば、記者を続けている意味がないではないか。

 朝日新聞のある著名な記者が若い時に、何カ月も取材に出たまま会社に戻らなかったことがあったそうだ。山奥で大の字になって空をぼーっと眺めるような生活もした。しばらくして出社したその記者は、書きためたルポの原稿の束をポンとデスクの前に置いたが、文句は一切言われなかったという。

 うらやましい話だ。みんなが本当に取材したいことだけを取材できるような新聞社があればいいのに、と心から思う。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1998年9月号)


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