大岡みなみのコラム風速計

(初出:人権団体の機関誌に連載)


INDEX

 36)社会に育てられる記者のたまご (1997年12月号)

 37)労使強調の危うさを憂える (1998年1月号)

 38)的外れなナイフ規制 (1998年2月号)

 39)沖縄振興は日本政府の義務 (1998年3月号)

 40)「校長解任」報じない記者って… (1998年4月号)  


 ◇風速計36◇

取材現場から教わる

社会に育てられる記者のたまご

 新聞社に入ったばかりの記者の「たまご」は、社会のことはもちろん、記者活動のイロハも何も知らないのに、いきなり取材現場に放り出されることが多い。とにかく「現場で学べ」というのが記者教育だ。だが、大事なのは「取材のノウハウ」だけではなく、記者としての「姿勢」や「考え方」を取材現場から教わるということだ。記者は現場に育てられるのである。

  ■医者の世界でも…■

 「研修医なな子」というドラマ(テレビ朝日系)が十二月まで放映されていた。佐藤藍子演じる医者の「たまご」の主人公が、じたばたと失敗を繰り返しながらも、医者(医療従事者)としての在り方や姿勢を模索していく。話自体は他愛もないコメディーだ。

 「こんなことあるわけないじゃん」といった誇張された言動やシーンは、確かにいくつもあったが、医者について何も知らない「たまご」が真剣に医療の在り方を模索する姿は、「社会派コメディー」と言えるかもなあと思って見ていた。

 その中で強く印象に残った場面があった。「たまご」は、先輩医師や看護婦、職員、患者、友人など、それこそ数え切れないほどの人によって、ゆっくりと「育てられていく」というのである。「たまご」を持て余す看護婦たちに、医局の教授がさりげなく訴えるシーンだ。

  ■迷惑をかけながら■

 新聞記者も同じだ。多くの新人記者は、学校を卒業したばかりで社会のことなど何も知らないにもかかわらず、いきなり現場に放り出されてしまう。取材経験など何もないのに、一人前の記者のような顔をして取材活動を始めるのだ。

 取材される側にしてみれば、そんな事情は知らないから迷惑この上ない。怒られ、嫌われることの連続だ。失敗やポカもいっぱいするし、恥ずかしい思いもする。もちろん、優しくしてくれる人も大勢いるが。でも、記者の「たまご」はそうやって、取材先で出会った多くの人たちに少しずつ「育てられていく」のである。

 僕も最初の支局では、取材対象である市役所職員や警察官らから、行政や議会の流れ、選挙運動、警察捜査のあれこれを随分と教わった。

 記者クラブで机を並べる他社の先輩記者も、厳しい「先生」だった。酒の飲み方やタクシーの使い方、経費請求の仕方、原稿の書き方なども伝授してくれたが、何より記者としての「生き方」「姿勢」を身をもって教えてくれていた気がする。

  ■社会の矛盾を学ぶ■

 でも、一番の「先生」は街で出会った人たちだ。そこから社会の矛盾に気付かされる。

 環境問題や福祉行政のおかしさは、市民運動のメンバーや障害者らの取材を通じて教えられた。登校拒否の女子高生たちと付き合っていると、崩壊した家庭で行き場を失った彼女らの悲しさが、目の前に突き付けられた。外国人労働者が住むアパートに毎晩通って話を聞くにつれ、日本社会の人権感覚のなさに怒りを感じた。

 何のために記者をやっているのか、何を取材して、何を訴えるべきなのか。新聞記者としてのそんな「考え方」の多くは取材現場から教わってきた。今もそうだ。記者はそうした蓄積の数々を、しっかり社会に還元する責任があるのだ。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1997年12月号)


 ◇風速計37◇

組合は互助会ではない

労使協調路線の危うさを憂える

 労働運動だとか組合活動だとかに、積極的に関わってこなかった人間がこんなことを言うのも何だが、「労働組合よ、しっかりしろ」と声を大にして言いたい。労使強調路線をひた走る労組は前からあるが、最近はその傾向に拍車がかかってきた感じがする。やはり、労働者側と経営者側との間には緊張関係が必要だ。労組は仲良しクラブや互助会ではないのだから。

  ■立場違うから緊張■

 労働者側と経営者側との関係は、経営者側の方が圧倒的に力が強い。だから労働者には、労働三権(団結権、団体交渉権、スト権)が認められている。弱い立場の労働者を守るために、法律で権利を保証しようというのだ。中学生でも知っている当たり前のことだ。

 もちろん、労働三権を行使しようとすれば、そこには緊張関係が生じる。「資本の論理」が前提の経営者側と労働者側とでは立場が違うし、利害が反する場合が多いからだ。

 ところが、「会社と組合は信頼関係にあるパートナーだ」と労使協調を唱える労組は、団結権こそ行使するが、団交は馴れ合いで、間違ってもスト権など行使しない。そして、「会社と社員は対立しない」「会社の発展は社員の利益につながる」と主張する。さらには、組合役員を務めることが、出世するためのパスポートになるのだ。

  ■労働者の権利放棄■

 ある新聞社では、社報の編集を組合員の記者が担当させられている。普通はどこの会社でも、社報は総務部が作っている。新聞社も例外ではない。だから、編集局員の中から「組合員である記者が社報を作るのはおかしい」との声があがった。

 そもそも社報は、会社側が経営政策や労務政策を宣伝するために発行されている。「会社の経営方針に理解を」「合理化に協力を」。そんな記事が掲載される社報の編集作業に組合員が協力するのは、組合員の立場と矛盾しているのではないか。そういった訴えに、多くの仲間が賛成していた。

 ところが、何と「社員が社報を作ってどこが悪いんだ」という声が組合員から出てきたのである。しかも、それが組合執行部役員だというのだ。

 この組合は、年に二回要求できる一時金交渉も労使協調を理由に、年一回の要求で終わらせている「実績」がある。労働者の権利を自ら放棄しているわけだ。会社側と組合側との間に緊張関係はもちろんない。スト権投票すらこの十数年やったことがないという。

  ■健全な批判勢力に■

 問題意識や労働者としての自覚、権利意識に欠ける組合員が増えている。何もわざわざ、会社側と対立することはないが、最低限の原則を守り、緊張関係を維持しなければ、いざという時に批判もできないし権利も守れない。そもそも両者は立場が違うのだから。

 教職員の組合でも同じことが言える。ある地域の教職員組合役員を取材していて、どこかで聞いたようなことを言うなあと思ったことがあった。あ、教育委員会の役人の主張と同じだ、と気付いて絶句した。発想がまるっきり同じだったのだ。

 健全な批判勢力としての労組の役割は大きい。言うべきは言い、批判すべきは批判する。そんな姿勢を貫く教職員組合もある。組合のあるべき姿だ。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1998年1月号)


 ◇風速計38◇

的外れのナイフ規制

現象面だけに反応する愚かさ

 中学一年生が女性教師を刺殺したり、中学三年生が警察官を襲って短銃を奪おうとしたりするなど、ナイフを使った少年事件が相次いでいる。再発防止策としてナイフ規制を強化し、学校での所持品検査を復活させる動きが広がっているが、「またか」という感じだ。いつもながら現象面だけに反応し、規制さえすれば安心する短絡的発想はどうにかならないかと思う。

  ■刀狩りに意味なし■

 中学生が教師を刺殺し、警察官を襲った事件は、社会に大きな衝撃を与えた。親も教師も、「恐怖と戸惑いと危機感」を確実に募らせているはずだ。

 では、大人や社会は何をすればいいのだろう。所持品検査をして少年たちからナイフを取り上げれば、それで問題は解決するだろうか。ナイフがなくても武器などどこにでもある。いすや机を使っても、やろうと思えば殺人はできるのだ。問題はナイフではなく、少年の心と周囲の環境にあるのではないか。

 少年たちはなぜナイフを持ち歩くのか、なぜキレるのか、家庭環境や家族との関係はどうなっているのか、友達や先生のことをどう思っているのか…。考えなければならないのは、そういうことだと思う。

 ナイフ規制の動きに、刃物製造業者らは「刀狩りだ」「問題のすり替えだ」と反発しているという。もっともな訴えだ。

  ■ポケモンでも同じ■

 何か問題や事件が起きると、この国ではいつも「臭いものにふた」をして安心する。上っ面の現象だけ規制して解決したつもりになるのだが、実際には何の解決にもなっていない。「何かをした」という単なるアリバイづくりに過ぎないのだ。

 埼玉と東京で起きた連続幼女誘拐殺人事件の時は、ホラービデオやコミックが規制対象になった。容疑者の青年が持っていたことから、「見たら事件を真似するかもしれない」とされてレンタルビデオ店や書店から一斉に姿を消した。

 テレビアニメ番組の「ポケットモンスター」を見た多数の小・中学生らが体の異常を訴えて病院に運ばれた時も、同じだった。赤と青の背景が交互に目まぐるしく点滅する四秒間の映像に原因があるようだ、ということが判明した後も、問題シーンとは関係ない過去の番組ビデオまで、放送やレンタルを禁止する動きが広がった。

 実に短絡的な発想だ。ダイオキシンを恐れて、焼き芋やたき火まで規制しようという動きが出てくるのと同じで、過剰反応でもある。

  ■本質を見ない発想■

 ナイフで脅す場面が登場するドラマが放送されると、テレビ局に苦情電話をかける視聴者の発想がまた、理解に苦しむ。ナイフのシーンが放送されなければ少年事件は起きないと、ひょっとして考えているのだとすれば、実に想像力が貧困な人だと言わざるを得ない。

 同じように、生徒の所持品検査に積極的な人たちにも、想像力の欠如を疑う。人権やプライバシーの面でも問題があるが、所持品検査によって、大人(教師)に対して決定的な不信感が生まれること、その重大性が分からないのだろうかと思う。

 枝葉末節で表面的な現象にしか目が向いていないのは、肝心かなめの本質的部分に目を向けていないのと同じだ。そのことに気付いてほしい。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1998年2月号)


 ◇風速計39◇

沖縄振興は日本の義務

基地容認迫る政府に異議あり

 名護市長選で、米軍海上基地(ヘリポート)建設容認派の推す候補者が当選した。地元経済振興策と引き換えに基地建設を迫っていた日本政府としては、ほっとしたことだろう。だが当選した候補者は「私は基地容認派ではない」と発言して、喜ぶ政府をけん制した。そもそも、これまでの差別の歴史を考えれば、沖縄に基地建設を要求すること自体が無神経なのだ。

  ■不利益続きの歴史■

 「沖縄の人たちは本音では基地存続を望んでいる」と主張する人々がいる。大和(本土)の人間だ。確かに基地存続を望んでいる人は多いかもしれない。基地に依存して生活している人にとって、存続は死活問題だからである。でもそれは、「仕方なく」存続を望んでいるのではないのか。

 「本音」ということで言うならば、基地がない生活の方がいいに決まっている。危険や騒音と隣り合わせの生活が快適なはずがない。「基地存続を望んでいる」などと主張する人々は、そんなことすら想像できないのだろうかと思う。

 沖縄の歴史は差別の歴史だ。太平洋戦争では罪のない大勢の非戦闘員が殺された。戦後も大和の繁栄の陰で、一人沖縄だけが不利益を被り続けた。それは今も続く。基地がないと生活できないような状況を沖縄につくり出したのは、だれなのだ。

  ■原発の誘致と同じ■

 これまでに大和が沖縄に対して行ってきた数々の仕打ちを考えれば、海上基地の建設などを条件に持ち出すまでもなく、日本政府は全責任をもって無条件で地元振興策を打ち出すべきはずだろう。政府には沖縄振興の義務がある。

 それなのに、政府は地元の経済振興策と引き換えに基地建設を迫るというのだ。よく考えてみればすごくおかしな話ではないか。何の落ち度もない市民の家に押し入った強盗が「金を出せば命は助けてやろう」とすごむのと同じで、まさに「強盗の論理」そのものだ。

 それにしても改めて感じるのだが、名護市に経済振興策(利益誘導)をちらつかせながら基地建設を迫る図式は、過疎の村に原子力発電所や核廃棄物処理施設の建設を迫る手法と全く同じだなあと思う。将来の生活に不安を感じている人々の弱みにつけ込んで、目先の利益をえさにして「迷惑施設」を押し付けるのである。しかしそうした施設は、本質的な意味での地域振興には決してならない。むしろ将来、失うものの方がはるかに大きいだろう。

  ■かなしみ知るべき■

 灰谷健次郎の小説に「太陽の子」という名作がある。両親は沖縄生まれだが、神戸で生まれ育った小学六年生の女の子・ふうちゃんの目を通して、昔も今も変わらない沖縄の立場を少しずつ掘り下げていく物語だ。

 沖縄の料理はうまい。沖縄の歌は楽しい。沖縄の自然は美しい。大和の人間が抱く沖縄への一般的なイメージはそんなものだ。でも、ふうちゃんはふと思うのだった。「かなしいことはみんな沖縄からくる。どうしてやろ」と。問題の根底には「差別されてきた沖縄」がある。だが本当は「沖縄のかなしみ」を知ろうともせずに生活している日本人の中にこそ、問題の本質があるのだ。

 「知らない」のは「見て見ぬふりをする」のと同じだ。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1998年3月号)


 ◇風速計40◇

「校長解任」報じない記者って…

読者不在の背信行為に絶句

 神奈川県立瀬谷高校の校長先生が、定年まであと五日となった三月二十六日付で県教委から校長職を解任された。自費出版した著書に、知的障害者の高校入学をめぐる県教委幹部の差別発言などを書いたことが、処分の理由とされた。校長は経緯を記者発表し、翌日の新聞各紙は当然このニュースを大きく取り上げたが、一紙はなぜか記事を書こうとさえしなかった。

  ■記者発表を勧める■

 実はこの話は最初、校長先生から相談という形で僕のところへ持ち込まれたのだった。知的障害者の高校入学については議論があるが、少なくともそのやり取りを公にしたことを理由にして、定年まであと五日の校長を解任するというのは、おかしな話だと僕は思った。

 県教委はこの処分を発表していない。発表すれば自分たちに都合の悪い事実も一緒に出てくるからだ。僕だけ(一社だけ)が特ダネとして書くよりも、全部の報道機関が一斉にきちんと書いた方がいいのではないか。そう考えた僕は、校長先生に記者発表をするように勧めた。

 僕が発表を勧めたのには、ほかにも理由があった。県政担当を外された僕がこの原稿を書いても、掲載されない可能性が高いだろうし、現在の県政担当記者に情報を流したとしても、この手の原稿はまず書かないだろうという判断もあったのだ。

  ■特オチなのに平然■

 翌朝の新聞各紙は、校長先生の解任処分のニュースを社会面で大きく扱った。だがなぜか、「うちの新聞」と共同通信は記事にしなかった。この二社は校長解任の話をニュースとして認めなかったのである。

 どう考えたって面白いニュースではないか。伝えるべき価値の高いニュースだと言ってもいい。定年まで五日を残しての校長職解任、障害者の高校受け入れ、県教委とのやり取りを自著で暴露。どれを取っても、読者に事実をきちんと伝えて判断材料にしてもらうべき話だ。こういう原稿を書かないで何を書くというのだろう。ニュースの価値判断ができないのか。

 結果として「特オチ」となった「うちの新聞」は、一日遅れで配信されてきた共同通信の原稿を使って紙面にした。担当記者は最後まで原稿を書かなかったのだ。上司は書かせようともしなかった。なぜだろう。

 「あの校長は自分から記者クラブに売り込みに来たりして、各社の記者もみんな白けちゃったんだってよ」。整理部からの問い合わせに、編集局の幹部はそう答えたのだという。 

  ■どっち向いて取材■

 絶句した。耳を疑ってしまう発言だ。どこの記者が白けたというのだ。各紙の朝刊を見ていないのだろうか。

 それに「記者クラブに売り込みに来た」とはどういう言い草なのだ。校長先生は「こんな理不尽な処分が許されるのでしょうか」と訴えに来たのだ。弱い立場の市民の駆け込み寺としての役割を記者クラブが果たしていることを、まるで分かっていない。たぶん役所や権力者の側しか見ていないのだろう。この人たちがどっちを向いて仕事をしているか象徴する発想だ。

 市民に伝えるべき話を書かないというのは、新聞記者の使命を放棄しているとしか言いようがない。読者に対する背信行為でもある。迷惑だから今すぐに新聞記者を辞めてください。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1998年4月号)


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