大岡みなみのコラム風速計

(初出:人権団体の機関誌に連載)


INDEX

 31)「自由主義史観」を笑う (1997年7月号)

 32)マスコミは被害者の人権を守ったか (1997年8月号)

 33)横浜の2008年五輪の候補地落選を祝う (1997年9月号)

 34)新聞記者を志望した理由 (1997年10月号)

 35)記者が大切にすべきもの (1997年11月号)


 ◇風速計31◇

また始まった歴史教科書批判

「自由主義史観」を笑う

 歴史教科書批判がまた盛んになってきた。従軍慰安婦問題などへの執拗な中傷はいい加減うんざりだが、「教科書が教えない歴史」などと称して、「日本人ってこんなにいいこともしたんだよ」としたり顔で語るソフト路線が新しい手法だ。確かに分かりやすく、気持ち良くなれる主張ではある。しかし、この人たちの歴史と人間に対する想像力は驚くほど貧しい。

  ■アナクロさに仰天■

 従軍慰安婦がいた事実は曲げられない。強制連行があったかどうかの問題にすり替えても、あれは売春行為だったと言い募っても、決して肯定も免罪もされない問題だ。にもかかわらず、過去の汚点を抹消しようと懸命なのが、「自由主義史観」を掲げて歴史教科書批判を続けている人たちである。

 「自分の国を悪くばかり言うのでは元気がなくなる。教室で生徒も暗い気持ちになる」とこの人たちは言う。自国の悪い点を強調するのは、彼らによれば「自虐史観」なのだそうだ。だから、従軍慰安婦も南京大虐殺もなかったことにしたいし、植民地にしたアジアで日本はいいこともした、と大声で訴える。そこには、在日朝鮮人はじめ、アジア民衆の置かれていた状況を想像してみようという気持ちなど、まるでない。

 でも、それって結局は「皇国史観」と同じじゃないか?

  ■反省のない人たち■

 十年ほど前に、新聞の連載ルポで、「自分の彼氏や親よりも天皇陛下が大切」と言う少女の話を紹介したことがある。

 右翼団体の勉強会に熱心に参加する二十一歳で銀行員の彼女A子さんが、こんな話をする。「(太平洋戦争は)アジア民族を欧米の植民地支配から解放するための戦争。日本はやむを得ず開戦した。今の教育は日本の悪いところばかり強調する」

 「自由主義史観」の東大教授と同じ発言を、十年前に二十一歳の少女がしている。

 ある公立高校二年生のクラスで、この記事を読んだ感想を書いてもらった。高校生たちの反応はすごくまともだった。

 「『今の教育は日本の悪い所ばかり強調する』とA子さんは言うけれども、言わせてもらえば、この人たちは『日本の良いところばかり強調する』ことになると思う。悪いところが強調されたら直せばいいのに。今からでも遅くないと思う」

 明快で論理的。このような感想文が大半だった。過去の反省から未来を築くのは当たり前のことだ。教室の生徒たちは決して暗くなんかなかった。

  ■愛国者はどちらだ■

 過去を反省するどころか、目をつぶり、さらに事実をなかったことにして、ねじ曲げようとさえする。そんな恥ずかしいことを続けているのが、「自由主義史観」の提唱者たちだ。

 従軍慰安婦をテーマにしたテレビの討論番組で、外国人テレビマンが彼らにこう言って詰め寄っていた。「あんたたちの馬鹿げた発言が、世界中でどれだけ日本の評判を落としているか分かってるの?」

 核心を突いた意見だった。失敗は失敗として反省すればいいのだ。きちんと事実を認めて謝罪して、経験を今後に生かせばいい。それでこそ日本は尊敬される国となる。何も恥じることはない。国を愛するとは事実を隠蔽することではない。果たして本当の愛国者はどっちだ。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1997年7月号)


 ◇風速計32◇

写真週刊誌を批判する前に

マスコミは被害者の人権を守ったか

 神戸の男児殺害事件で、十四歳(当時)の中学三年生の少年が容疑者として逮捕された。この少年の顔写真を、写真週刊誌が掲載したことが問題になっている。「十四歳は保護の対象」「興味本位に扱うな」と、新聞をはじめ多くのマスコミが出版社の姿勢を批判した。しかし、写真誌を批判する彼らが、被害者の人権に一体どれだけ配慮したというのだろうか。

  ■さらし者の被害者■

 「少年逮捕」を報じる新聞各紙は、一面や社会面に被害者の男児の写真を大きく載せた。逮捕以前にも、男児の写真は新聞や雑誌、テレビに何回も登場している。少年が逮捕された後も変わらない。まるで、被害者である男児がさらし者にされているみたいだ。

 行方不明で捜索中だというのならば分かるが、それ以上、被害者の顔写真を公開する必要が果たしてあるのだろうか。

 東京電力のOLが東京・渋谷で殺された事件の時もそうだった。被害者であるはずの彼女の顔写真はもちろん、日常生活から行動まで、あらゆるプライバシーが暴かれ、あることないこと公開されてしまった。何の権利があってマスコミにこんなことができるのだろう。

 記事自体は比較的冷静だった新聞も、顔写真が入った雑誌広告を堂々と掲載しているのだから決して免罪はされない。

  ■人権を等しく守れ■

 「重大事件なので慎重に議論して決断した」というのが、少年の顔写真を掲載した写真誌の言い分だ。もっとも、この出版社の別の出版物や過去の論調から考えると、「加害者の人権ばかり主張するが、それなら被害者の人権はどうなるんだ」「被害者はプライバシーも人権も侵害されているのに、加害者だけが保護されるのは不公平だ」というのが本音だろう。

 しかし、「被害者の人権」などと御大層に訴えるこの出版社が、実は被害者の人権を平然と踏みにじっている。東電OL事件の報道がいい例だ。何のことはない。「人権とは何か」という基本的なことがまるで分かってないのだ。というよりも、この出版社にとっては人権なんかどうでもいいことなのである。

 本当に人権について考えているのならば、被害者、加害者のどちらの顔写真も掲載しないはずだ。もちろん、どちらのプライバシーも暴かない。両方の人権が守られていいはずだ。

 被害者をさらし者にして平気なマスコミ他社が、少年の顔写真を載せた出版社を批判する光景も、だから異様に映る。

  ■少年法論議に便乗■

 神戸の事件をきっかけに少年法改正が叫ばれている。写真週刊誌はそれに便乗した形で、悪い奴に対しては何でもアリの風潮をつくってしまった。

 「あんなことをやったのに、すぐに社会に戻るなんて」「被害者の立場からは許せない」。ちまたに結構あるこんな声を理由にして、インターネット上では少年の実名や顔写真が公然とはん濫した。

 少年法が現状のままでいいとは必ずしも思わない。しかしだからと言って、それが少年法の精神を無視して十四歳の少年のプライバシーを暴き立てる理由にはならないはずだ。それでは、ただのリンチ(私刑)だろう。 日ごろから人権感覚に欠けるマスコミがこうした風潮を批判しても、説得力はない。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1997年8月号)


 ◇風速計33◇

2008年五輪の国内候補地招致

おめでとう横浜落選

 二〇〇八年五輪の国内候補地が大阪市に決まった。納税者の一人として、横浜市の落選を心から祝いたい。フツーの市民にとって、五輪の地元開催がどんなメリットがあるのかさっぱり分からないが、ばく大な開催費用を負担しなくていいことはよく分かるからだ。招致運動の後もさらに巨額の出費を続ける大阪市の住民の皆さんに、心からお悔やみを申し上げる。

  ■だれのために開催■

 あまりにも唐突すぎる横浜市の立候補だった。きちんとした議論もなく、「お上」が一方的に決めた立候補だった。決して、市民の側から「ぜひ横浜でやりたい」と盛り上がって生まれた立候補宣言ではない。

 「お上」が一方的に決めたという点では、大阪市の立候補もたぶん同じだろう。まあ、行政主導の巨大イベントや事業計画などといったものは往々にしてそんなものだ。

 「だれのために、何のために、そして今なぜ」。いくつもの疑問を抱えながら、横浜市は十カ月間の招致運動を展開したが、こうした疑問の声は関係者の中にもあったという。みんなが納得した上での招致運動とは言えないのが実態だった。

 この間、横浜市が使った税金は総額一億六千万円。もしも招致合戦に横浜が勝っていれば、さらに巨額の税金が消えていくところだった。

  ■ばく大な税金投入■

 「招致にカネは使わない。横浜市の招致費用は総額一億六千万円で、大阪市のわずか十分の一しかかけていない」と横浜市は説明する。「ふざけるな」と言いたい。納税者の一人として猛烈に怒りを覚える。一億六千万円も使っておいて「カネは使わない」とはどういう金銭感覚と発想だ。

 使われるのは、私たちの貴重な税金なのである。

 カネがいくらでもあるというのならば、五輪開催準備に巨額を投じるのもいいだろう。だが実際には、国と同じように横浜市も財政再建に取り組んでいる最中だ。どこにそんな余裕があるのか。

 それでなくても、横浜市の住民税はほかの市町村に比べて高いのだ。その分、住民がレベルの高いサービスを受けているかと言うと、これが決してそうではない。ごみを例にとってみても、分別収集は最近やっと全市で始まったばかりだし、ビンや缶といった資源ごみの収集が毎週ある訳でもない。

 「五輪よりも福祉や教育、環境問題こそ優先すべき」との主張には一理も二理もある。

  ■招致でなく誘致?■

 横浜の立候補が明らかになった時に、地元経済界は「五輪は経済効果が大きい」と歓迎のエールを送った。実のところ、これが五輪招致というか「誘致」の本音だろう。

 もちろん、フツーの庶民だって、五輪による「経済効果」があれば、うれしいに決まっている。でも、本当に「とてつもない恩恵」があるのは庶民ではなくて大企業やゼネコンだ。巨費を投入して競技場や施設を整備することで建設業界などは潤うだろうが、その「巨費」を負担するのは私たちなのだ。

 「あらまあ、横浜に五輪が来なくて残念ねえ」とテレビカメラに向かって答えるおばさまがいた。大事な税金が使われていることを分かっての発言だったのかなあ。ちょっと心配だ。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1997年9月号)


 ◇風速計34◇

新聞記者を志望した理由

就職動機を自問する

 テレビや映画に登場する新聞記者は下品だ。傍若無人で無節操、居丈高。事件や事故が起きると関係者を取り囲んで質問攻めにする。人の気持ちやプライバシーには無関心。こんな職業にだけは絶対に就くまいと思っていた。それなのに、なぜだか新聞記者になってしまった。初心に戻り、志を再確認する意味で、この仕事を選んだ時の気持ちを振り返ってみたい。

  ■自分が被害者なら■

 職場で「被害者の人権」を考える機会があった。これまでマスコミは、事件や事故があると被害者の名前や顔写真を当たり前のように出してきたが、果たしてそれでいいのか、という問題提起だ。

 例えば、火事で死んだ子どもの顔写真を新聞に掲載することに、どういう意味があるのだろうか。航空機事故の死者の名前や顔、旅行目的などを報じるのは、プライバシーの侵害ではないだろうか。事件の被害者の個人的な話を書く権利が、マスコミにあるのだろうか。

 自分が取材され、書かれる立場だったらどうだろう。同僚の女性記者とそんな話をしていたら、彼女は「もしも私が交通事故で死んだら、名前も事故があったことも報道してほしくないなあ」と言った。

 「そうだよな、まして顔写真やプライバシーに関する話なんて出されたくないよね」

  ■軽蔑していた職業■

 今のマスコミだったら、何を書かれるか分かったもんじゃない。そもそも、そういう仕事をやってる新聞記者って何だ、という話になった。

 「私、ずっと、新聞記者なんか絶対になりたくないって思ってた」「あ、僕もそう。実は学生時代は、あんな仕事って感じで軽蔑してたんだ」

 土足で人の生活に踏み込んできて、根掘り葉掘り興味本位の質問をした揚げ句、プライバシーを外にまき散らす。しかも態度はデカい、セコい。ドラマで描かれる記者は確かにかなり誇張されているが、ワイドショーやニュースで映される本物の記者も似たり寄ったりだ。

 そんな「嫌なやつら」に対する認識が大きく変わったのは、大学一年の時だった。たまたま書店で手にした新聞記者・本多勝一の「アメリカ合州国」(朝日文庫)がきっかけだ。

 黒人や先住民といった少数派の立場から、米国の民主主義の本質、危うさを鋭く描いたルポだった。本多勝一記者に徹底しているのは、差別される側、殺される側からの視点だ。そして事実の積み重ねだ。

  ■本当の記者の仕事■

 ああ、そうか。新聞記者ってこういう仕事ができるのか。これが新聞記者の本当の仕事なんだな。本多記者のルポは、本来の記者のあるべき姿を示していた。「目からうろこが落ちる」とはこのことだ。

 記者っておもしろくて、やりがいのある仕事じゃないか。この時、新聞記者っていう職業もいいなと初めて思った。

 ずかずかと人のプライバシーを踏み荒らし、役所や企業のちょうちん記事を書き、横書きの発表文を縦書きにするのが、記者の本当の仕事ではない。そんなことを平気で繰り返している連中こそおかしいのだ。

 「新聞記者を軽蔑していたあの時の気持ちを、僕らは忘れちゃだめだよね」。同僚記者とは、そんな結論で一致した。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1997年10月号)


 ◇風速計35◇

記者が大切にすべきもの

大学院生の取材に答える

 英国の国立大学でジャーナリズム論を専攻している、という大学院生の女性からインタビューを受けた。博士論文を執筆するために何人もの日本の新聞記者に話を聞いているのだそうだ。二時間ほどの取材の中で、いくつか興味深い質問があったので僕の回答とともに紹介したい。「新聞記者の在るべき姿とは何か」を考える上で参考になると思うからである。

  ■記者は社員ですか■ 

 「あなたはプロフェッショナルのジャーナリストですか、会社に勤める社員としてのジャーナリストですか」。この質問を大学院生はいろんな新聞記者にぶつけたのだが、意外というか当然か、多くの記者が「社員」と答えたのだそうだ。

 確かに新聞社に勤める記者は会社員だ。会社から給料をもらって生活するサラリーマンに違いない。そのことについては、このコラムでも以前に少し触れたことがある。ただし、「会社のために働くのではなくて、社会のために仕事をする、その結果として会社にも貢献する、という順序になるべきだ」とその時に指摘したと思う。

 それで、彼女の質問に対して僕はどう答えたか。「精神的、理念的、信条としては『プロフェッショナル』だと思っているけれども、現実の身分としては『社員』なんです」。そう答えたのだった。

  ■限界まで理想貫く■

 断っておくが、建て前と本音を使い分けたのでは決してないし、「理想と現実」という形で逃げたわけでもない。乱暴な言い方だが、僕は基本的に「記者は会社のために働くべきではない」と常に思っている。現実問題として、会社員の身分に拘束され、業務命令には従わざるを得ない立場にいるという記者の「悲しさ」を述べたのだ。

 アホな上司(部長やデスク)はどこの会社にもいる。そういう連中は、人権を無視し、権力に媚びを売るような言動を平気でするし、保身や出世を優先させた判断も平気で下すのだ。そんな時には、もちろん精いっぱいの反論や抵抗を試みるが、それにも限界というものがある。人事権を持つ彼らとは対等な立場ではないのだから。

 でも、僕らは新聞記者を職業に選んだのだ。「理不尽な決定に対しては、精いっぱいの抵抗くらいはしておかなければ」と思うのだが、実際には、反論さえしない記者、何のために記者をやっているのか分からないような「社員」が多い。「新聞記者も普通のサラリーマンさ」と妙に冷めていたりする。

  ■喜怒哀楽こそ大事■

 「記者にとって最も大切なものって何でしょうか」。この質問に僕はこう答えた。「喜怒哀楽です。取材対象と一緒に怒ったり笑ったりする豊かな感情が一番大事だと思いますね」

 記者はもっと感情的であっていい。無味乾燥でクールな取材からは、無表情な原稿しか生まれてこない。一般に「記者は冷静でなければならない」と言われるが、それは記事を書くために判断し分析する時のことだ。取材対象に接している時に冷静で、機械的に取材をしていて相手の気持ちや立場に近付けたりするものか。

 感情豊かな取材から出た原稿には、記者の主張がある。何を訴えたいのかが読者にひしひしと伝わってくる。それが「おもしろい原稿」なのだ。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1997年11月号)


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