大岡みなみのコラム風速計 (初出:人権団体の機関誌に連載)
INDEX30)ゲリラ虐殺・公開処刑に異議あり (1997年6月号)
◇風速計26◇「何を伝えたいか」が大切 新聞記者を志す女子大生へ 「新聞記者になりたい」という女子大生の作文を読ませてもらった。作文は、マスコミの入社試験には必ずあると言っていい受験科目だ。特に新聞社の記者職を希望する学生にとっては重要で、合否に大きなウエートを占める。しかし、作文の技術やコツなどをどんなに勉強しても、「何を伝えたいか」がない文章に意味はない。作文を通じて「なぜ記者を志すか」が少し見えてくる。
■朝鮮人虐殺テーマ■
Hさん。作文を読ませてもらいました。
荒川の橋のたもとで、ゼミ仲間と、関東大震災の時に虐殺された朝鮮人の骨を発掘したことを書いた作文でしたね。横で発掘作業をしていた老人の話を軸に、「平和」の背後にあるものを掘り下げていました。
地震発生の日、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」「朝鮮人が攻めて来る」などのうわさが流れ、町の自警団長だった老人は、警察からの通知をもとに、団員を集めて何人もの朝鮮人を殺しました。六日後、老人が受けた判決は執行猶予付きの懲役三年。たった四分の裁判。しかも、皇太子ご成婚で恩赦になります。
竹やりで突き刺された朝鮮人のゆがんだ顔を、今も夢に見るという老人は「今になって悔いている。掘らんと気が済まんのだ」と語るのでした。
■明確な筆者の視点■
「うまい文章だなあ」と思いました。文章にリズムがあって、とても読みやすかったし、分かりやすかった。
でも、実はこれこそが最も大切なことだと「僕は」思うのですが、読者に何を訴えようとしているのか、という筆者の視点や問題意識がはっきりと伝わってくる文章だと思いました。どこを向いて、何のために伝えようとしているのか。どんなに上手でこなれた文章であろうと、この一点が欠けている文章は評価できません。ジャーナリスト(を志す人間)が書くなら、当然のことですよね。
ところが、プロのジャーナリストであるはずの新聞記者の書く記事に、そこのところが全く抜け落ちたものが結構多いのです。何が言いたいのか良く分からない記事、どこに向かって書いているのか疑問に思うような記事、役所や企業を宣伝するだけで何の批判精神も感じられない記事。新聞にはそんな記事があふれています。そういった記事に比べて(比べること自体が失礼かもしれないけれど)、はるかにあなたの作文の方が優れている、と感じました。
■文章に生き方反映■
この作文は十分に記事として通用すると思います。立派なルポルタージュです。
文は人なりと言いますが、文章には書く人間の生き方や立場が色濃く反映されます。分かりやすい文章であることはもちろん重要だし、美しい文章であることに越したことはありませんが、何より大事なのは「どういう立場で何を訴えるか」です。あなたの作文からはそれが明確に伝わってきました。
どこの新聞社に入るにせよ、このような文章を書ける人が後輩として、記者を目指していることを、僕は心強く、頼もしいと感じました。
Hさん。志が実現できるように応援しています。素敵なこの感性がねじ曲げられたりしないように、と祈ります。
(初出:人権団体の機関誌に連載:1997年2月号)
発表に頼らぬ記者魂 ペルー公邸単独取材を支持する ペルーの日本大使公邸人質事件で、当局の「許可」を得ずに公邸内取材をした記者の行動が問題になった。「人質の生命を危険にさらして抜け駆け取材した」と、当局だけでなく日本のマスコミからも批判されたが、公邸内の様子を伝えようとするのは記者として当然の行為だ。もちろん、「許可」など必要ない。ほかの記者はなぜ、仲間を批判するのだろうか。
■人質は安全だった■
最初に公邸内取材したのは共同通信の原田浩司記者。数日後にテレビ朝日系列の人見剛史記者が公邸に入った。
原田記者はあらかじめ、ゲリラ組織トゥパク・アマル革命運動(MRTA)と連絡を取ってから取材、人見記者は事前の接触なしに公邸に入ったという違いはあるが、二人とも「突撃・潜入」したわけではない。玄関で身分証明書を見せ、ゲリラに許可を得てから入っている。この状況で人質の生命に危険が生じるとは考えられない。
ゲリラ側はもちろん、人質にとっても、マスコミ取材は歓迎すべき存在だったはずだ。ゲリラは自分たちの主張を広く伝える機会になるし、人質は安否を家族らに届けることができるからだ。人質のこうした思いを、原田記者は「カメラに向かう人質の表情から、無事を訴える無言のメッセージが読み取れた」と表現している。
■横並びのマスコミ■
日本のマスコミの多くは二人の記者を批判した。錦の御旗のように「人命尊重」を理由にあげてはいるが、本当はみんなで一緒に当局の発表を待っていれば安心なのだろう。だから「抜け駆け記者」は許せない。身柄拘束され、取材テープを没収され、日本政府から圧力がかかっても、仲間である記者を援護するどころか袋叩きにする。
日本マスコミの横並び意識の体質が象徴されている情けない話だ。悲しくなってくる。
ジャーナリズム本来の仕事をした記者を孤立させてはいけない。それを「抜け駆けだ」と非難して恥ずかしくはないのだろうか。記者会見から締め出すなど論外だ。自分たちの首を絞める行為だということに気付いてほしい。身柄拘束や取材テープ没収には、すべての記者が連帯して抗議すべきだった。
共同通信は公邸内取材に社長賞を出し、テレビ朝日は「記者が勝手に取材した」として政府に謝罪したという。こんな時にこそ、会社が記者を守らないでどうするのだろうと思う。テレ朝のような姿勢では、記者は安心して取材に打ち込めない。
■ゲリラの言い分も■
そもそも、政府や軍などに都合のいい取材だけをするのが記者ではないのだ。
公邸人質事件では、ペルー政府や日本政府の側の情報・言い分は大量に流されているが、ゲリラ側からの情報・言い分は圧倒的に少ない。「ゲリラ側の宣伝に利用される」という指摘がある。しかし、ゲリラがなぜ公邸占拠をしたのか、何を望むのかなどを聞き、事件の背景に何があるのかを伝えるのはジャーナリズムの大切な仕事だ。
なぜ、刑務所の囚人の釈放にこだわるのか、刑務所で何が行われているのか、ペルーの裁判制度はどうなっているのか、ペルーの民主主義・人権はどうなっているのか。政府の言い分だけを一方的に伝えるのがジャーナリズムではない。
(初出:人権団体の機関誌に連載:1997年3月号)
書きたい題材を連載に おもしろい新聞を作るためには 新聞の連載企画記事がつまらない。特に、新聞の顔であるフロント面(一面)の連載がおもしろくない。もちろん、中には読みごたえのある記事もある。しかし、何人もの新聞記者と話をしていて、「これはどこの新聞でも共通して抱えている問題だ」と意見が一致した。上司から割り振られた企画を、記者がノルマ的にこなす記事だから、読む側も苦痛なのだ。
■連載がつまらない■
新聞記者仲間で、「どんな手順で連載企画が新聞に出るか」という話になった。
A紙(論説委員)「一面の連載なんかは、局次長とか編集委員がまず、中国問題だとか政治状況などのテーマを設定してくる。それで、政治部や外報部、社会部に執筆者を割り振って、編集委員の方針に沿った取材をしてまとめる感じかな」
B紙(社会部デスク)「うちも一面連載はそんな感じだ。社会面の連載では、部員が自由に意見を出し合ってテーマを練り上げていくけどね」
C紙(デスク級)「家庭面なんかでは、記者個人の関心事に合わせて企画を立てて連載することが多いけど、一面連載はやっぱり、上に言われた仕事をこなしているようだ」
一同「なんだ、みんな一緒じゃない。だから一面の連載はどこの新聞もつまらないんだな。よくわかったよ」
■読者の心を揺らす■
ぜひとも伝えたい、考えてもらいたい、と記者が思うドラマがある。フラッシュニュースでは伝えにくい事柄だから、読み物やルポの形で何回にも分けて書く。それが連載企画だ。
上司に言われたままに取材を進め、もっともらしいデータや役所の話、どこかで聞いたような識者コメントをまとめた記事は、無難で体裁は整っているかもしれないが、読者の心に響くとはとても思えない。
連載を始めるからには、読者を引き付けるエピソードやドラマが描かれていなければならない。そうでないと読者はついてこないし、読み手の心を揺さぶることはできないからだ。そのために、記者は地を這うような取材をする。第一報を掘り下げて問題提起する連載でも、こうした作業は同じだ。
良質のドキュメンタリーとして知られる番組に「NHKスペシャル」がある。数十人の記者が一つのテーマについて議論した上で全国へ取材に散り、いろんなエピソードを持ち寄って議論する。そして再び取材へ。これを繰り返してやっと一本の番組が完成する、という。
■心待ちにされたい■
連載企画は記者の問題意識や姿勢、視点、取材力が鋭く問われる。だからこそ、記者自身が書きたい題材を出すべきだと思う。書き手がおもしろいと感じない話を、読み手がおもしろがるはずがない。
先程のA紙の論説委員が話していた。「僕のところも社会面の連載は、数人の仲間で話している中からこんな連載したい、是非やろうよ、って企画するケースがよくあるよ」
B紙のデスクが言った。「読者が心待ちにするような連載企画を書きたいね」
次の連載はどうなるのだろうと、郵便受けの前で新聞配達を待ちわびる。記者の感動に読者が共感してくれる。情報のキャッチボールも始まる。そんな新聞を作りたい。
(初出:人権団体の機関誌に連載:1997年4月号)
暗然とする改正特措法成立 民主主義の在り方に危機感 駐留軍用地特別措置法(特措法)の改正が、圧倒的多数の賛成で成立した。沖縄の米軍基地用地を、期限切れの後も国が合法的に使えるようにするのが目的だが、この法律は憲法違反の疑いが強い。財産権を守るための適正手続きを無視し、地主である沖縄県民の抵抗権も事実上奪ってしまうからだ。そんな法律に国会議員の圧倒的多数が賛成したことに怖さを感じる。
■多数決で沖縄犠牲■
沖縄県の大田昌秀知事は「民主主義の名において、多数決で沖縄が犠牲にされることに暗然となる」と、改正特措法成立の感想を語った。
改正特措法は、現実には沖縄の米軍基地用地だけを対象にした法律だ。改正法では、基地用地の使用期限がすでに切れている場合であっても、国が暫定使用できることを認めているが、現にそうした事態が起きているのは沖縄だけだからだ。
これで、国が沖縄の米軍用地を「不法占拠」することは今後一切なくなる。同時に、沖縄の基地が固定化されることにつながりかねない。米軍基地を拒否しようとしても、沖縄にはもう拒む法的手段がないのだ。
「弱い立場の沖縄にしわ寄せし、その犠牲の上に平然と生きておれる。私にはそれが理解できない」。日本の民主主義(国会審議)に対する大田知事の怒りの言葉は重い。
■憲法や財産権無視■
そもそも、憲法で守られている国民の権利や財産に制限を加える場合には、法律に従って厳正で適正な手続きに則って行われるのが、法治国家のあるべき姿のはずだ。
そのために例えば、土地収用法は、収用委員会や適切な手続き、正当な損失補償について規定している。また、地方自治法では、知事が代行拒否した場合を想定し、職務執行命令訴訟の制度が定められている。
ところが、可決された改正特措法は、こうした手続きが終了しなくても、使用期限が切れた場合も国が暫定使用できるとしているのだ。適正な手続きからはほど遠い内容で、憲法違反の疑いが極めて強い法律だと言わざるを得ない。
何よりも、この法律の成立後は、米軍基地用地の強制使用に対する異議申し立ては事実上不可能になってしまったのが大きい。土地所有者が契約拒否し、知事が代理署名を拒否して使用期限が切れても、国はそのまま暫定使用できるのだ。不法占拠状態には決してならない。沖縄の人たちの抵抗権は多数決によって奪われてしまった。
■外交チャンス放棄■
法律に従った手続きを進めていたら、国にとって都合の悪い事態(不法占拠)が起きたので法律を変えてしまった、というのが今回のケースだ。これなら国は何でもできる。だが、それでは法治国家とは言えない。
それでもあえて、圧倒的多数の国会議員が無茶な法律に賛成したのは、「国益である日米安保体制を維持する」という大義名分があったからだろう。では「国益」とは何だろう。
日米は対等なはずだが、実際は米国の発言力の方が圧倒的に大きい。少女暴行事件への怒りや基地負担に泣く沖縄の声を背景に、日本の発言力を増すことこそ「国益」ではないのか。改正特措法は、沖縄の声を多数決で封じ込めるとともに、対米発言の機会も封じてしまった。
(初出:人権団体の機関誌に連載:1997年5月号)
ゲリラ虐殺に異議あり 「公開処刑」で公邸事件解決か ペルーの日本大使公邸人質事件は、特殊部隊突入という形で解決した。だが、ここではっきりと確認したいことがある。公邸突入の際に占拠ゲリラ十四人が「皆殺し」にされたが、あれは「有無を言わさぬ死刑・虐殺だった」ということだ。ペルー政府は、手続き抜きの公開処刑を行ったのだ。あまり、そういった視点の記事や指摘はマスメディアには出てこないが。
■殺されても当然か■
公邸に特殊部隊が突入して、人質たちは解放された。解放そのものは本当によかったと心から思う。家族や関係者の皆さんは、安否を気遣って寝られぬ思いだったに違いないからだ。
しかし、事件は「無事解決」と言えるのだろうか。そもそも解決の方法はこれでよかったのだろうか。
日本政府の提唱する平和的解決ではなかった。武力突入だ。人質一人と軍人二人、それにトゥパク・アマル革命運動(MRTA)の占拠ゲリラ十四人全員が犠牲になった。このほか負傷者は多数いる。決して「結果がよければいいじゃないか」と言える状況ではない。
「ゲリラは殺されても仕方ない。殺されて当然だ」という声がある。そうだろうか。犯人の身柄は生け捕りにするのが原則だろう。その上で、公正な裁判で事件の全容・背景を明らかにするのが普通だ。
■恐るべき人権抑圧■
ペルー政府の取った作戦行動はむしろ、犯人を抹殺してその声を永遠に封印し、証拠隠滅を図ろうとしたかのような印象が強い。
ゲリラは撃ち合いによって全員が死んだのではなかった。解放された複数の人質の証言によると、突入部隊は、投降の意思を示した無抵抗のゲリラをいったん連行しながら、その後で殺害したケースがあったらしい。国家による不法な虐殺行為があったと考えていいだろう。法と手続き、つまり裁判抜きで死刑執行してしまったのだ。
そもそも、ペルーで公正な裁判は期待できない。これまでのさまざまな情報を整理すれば、ペルー社会には民主主義など存在しないのだ。
公邸占拠ゲリラの主張の一つに、刑務所の待遇改善が挙げられていたが、テロ対策を理由にした軍や治安機関による拷問などの人権抑圧、政治犯の裁判や刑務所のひどさに対しては、アムネスティをはじめとして国際的に批判が集まっている。さらに、政府批判をする報道機関や記者への脅迫、身柄拘束、殺害も後を絶たない。
■国家テロとゲリラ■
こうしたペルーの状況を考えれば、フジモリ政権は「国家としてテロを行っている」と言っていいかもしれない。
公邸を占拠して人質を取るという手段はもちろん許されないが、「国家テロ」がまかり通る状況下で、MRTAが今回のような行動に出た背景や目的は理解できる。少なくともメディアは、その部分を正面から伝えるべきだった。人権抑圧や政治弾圧に抵抗する「ゲリラ」と「無差別テロ」とは違う。
日本のメディアの多くは、人質の無事解放と突入作戦成功を無批判に賛美した。ゲリラ皆殺しという形で、フジモリ政権が裁判抜きの死刑執行をしたにもかかわらずだ。世界の潮流は死刑制度廃止の方向にあるが、これはそれ以前の問題だ。
(初出:人権団体の機関誌に連載:1997年6月号)
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