大岡みなみのコラム風速計

(初出:人権団体の機関誌に連載)


INDEX

 21)安楽死問題を模擬裁判にした大学生 (1996年9月号)

 22)同性愛者ネタにした「笑い」の背景 (1996年10月号)

 23)何のための選挙報道 (1996年11月号)

 24)ODA/開発という名の侵略 (1996年12月号)

 25)社畜に非ず、原点は新聞記者 (1997年1月号)


 ◇風速計21◇

安楽死と生命の尊厳

模擬裁判に取り組んだ大学生

 「青春法廷/生命を問いかける学生たち」(NHK)の録画を見た。実際にあった安楽死事件をもとに、北里大学の一年生22人が3カ月の準備期間をかけて、模擬裁判をつくりあげる過程を追ったドキュメンタリー番組だ。死ぬ権利と生命の尊厳について必死に議論し、悩みながら自分なりの考えを導いていく学生たち。2時間たっぷり、画面にくぎ付けになった。

  ■頭を抱えて悩んだ■

 模擬裁判に取り組んだのは教養課程の法学ゼミのメンバー。看護学部、薬学部、獣医畜産学部、医療衛生学部など、将来は医療関係の仕事を目指そうという学生ばかりで、法学部の学生はいない。

 題材とされたのは、末期がんで苦しむ妻に頼まれた夫が妻を殺し、嘱託殺人罪に問われた安楽死事件だ。指導教授から供述調書などの裁判記録を渡されたメンバーは、判事、検事、弁護人、被告などの配役に分かれて準備に入ったが、最初からいくつもの壁に突き当たった。

 被告は人を殺している。これは事実だ。でも、その行為はどこまで責められるのだろうか。弁護側、検察側のどちらも、頭を抱えて悩んだ。事件の背景には、もちろん末期医療体制の不備もある。だが、問われているのは、被告が有罪か無罪か、非難されるべき対象はどこにあるのか−だった。

  ■泣きながら議論も■

 また、弁護側は被告の気持ちをつかむことでも悩んだ。被告はどんな気持ちで妻の命を絶ったのだろう。裁判記録から必死に読み取ろうとする。次には、弁護方針で立ち往生した。なぜ無罪なのか。そのうち、何のために弁護するのか、何を訴えたいのか分からなくなってしまう学生も出てきてしまった。議論、議論の連続になった。

 一方、検察側には「公益とは何か」というテーマが突き付けられた。公益の代弁者である検察官としての自覚を求められることにもなった。被告はなぜ有罪なのか。それなりの理由もあったのではないか。何が問われなければならないのだろう。こちらも議論、議論が続く。

 被害者や被告の追い詰められた心情を思い、答えが見つからなくて、泣きながら議論する学生もいる。テレビカメラは、そんな彼らの姿をひたすら追い続ける。「一人の人間に出会おうとしていた。僕たちは被告を通して、医療の問題や人間について考え始めた」。そんなナレーションが流れた。

  ■台本ない真剣勝負■

 弁護側の考えがまとまった。「死の間際の苦しみから解放されて、楽になる権利が人にはある。人間らしくあるために選ぶ死もあるはずだ。生きろと社会が強制することはできない」。弁護側は、憲法十三条の幸福追求権を根拠に、被告人無罪を主張する方針を決めた。

 検察側の考えはこうだ。「どうにもならないから死にたいと思ったが、真の願いは生ではないのか。被告は妻の生への望みを広げるべき人間だった。生き抜くことを精神的に支えるべきだった」。生命の尊さを前面に押し出す方針が固まった。

 学生たちは、模擬裁判であることを忘れていた。自分たちが一人の人間の運命を決める、そんな真剣さが伝わってきて感動的だった。あらかじめ出来上がった台本通りに演ずる芝居ではない。参加者全員が自分なりの考えをぶつけあい、話し合って裁判をつくり上げたのだ。

 【メモ】「青春法廷/生命を問いかける学生たち」は、95年2月10日にNHK衛星第2放送で放送。その後、同年5月3日と同年7月21日の2回、NHK総合テレビで再放送されている。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1996年9月号)


 ◇風速計22◇

同性愛者ネタの「笑い」

差別と偏見が下敷きに

 同性愛者が日常的に受けている偏見や差別、マスコミによる人権侵害の実態は目にあまる。ある集会で、同性愛者のそんな訴えを聞く機会があった。その中で特にドキッとさせられたのは、同性愛者をネタにした「笑い」についての指摘だった。同性愛者の言動をからかい、馬鹿にするシーンをテレビや雑誌で見て、これまで何気なく笑っていた一人だったからだ。

  ■「性的指向」の一つ■

 話を聞いたのは、伊藤悟さんと簗瀬竜太さん。二人は、自ら同性愛者であることを公言しているカップルで、著作や講演などを通じて、同性愛者に対する差別をなくすための活動を続けている。

 伊藤さんらが強調するのは、「同性愛は病気ではない」ということだ。たまたま、愛情を向ける対象が同性の人がいれば、異性の人もいる。それは「性的指向」の一つに過ぎず、WHO(世界保健機関)も、同性愛を「異常、倒錯、変態」とはみなしていない。

 ところが、「同性愛は異常」というレッテルは社会に根強く存在している。少数者として切り捨てられているばかりか、差別や不利益は当たり前。だから、同性愛者の多くは、自分が同性愛者であることを隠して生活している。この点は、多くの在日朝鮮人が本名を名乗らずに生活しているのと同じ状況だ。

  ■相手を見下す笑い■

 「同性愛は異常」「気持ち悪い」と同性愛者の存在自体が否定される社会の延長には、同性愛者が笑いやからかいの対象とされる社会が存在する。

 例えば、ラジオ番組をまとめた「野茂とホモの見分け方」という本は、「完投して喜ぶのが野茂、浣腸して喜ぶのがホモ」などといった偏見に満ちたギャグで、男性同性愛者を笑いの対象にしている。テレビや雑誌でも、「ホモ」「オカマ」「ミスターレディー」などをネタにしたギャグで笑いを取るシーンはいくつも登場する。

 正直に言うが、私は「野茂とホモの見分け方」というこの本を読んでクスクス笑ってしまった一人である。テレビを見て、司会者やテレビタレントの「ホモネタ」ギャグに大笑いしたことも数知れない。

 しかし、伊藤さんたちの話を聞いてからは、それまでのように「無邪気」には笑えなくなってしまった。そうした笑いが、「差別と偏見」を下敷きにした笑いであることに気付かされたからだ。「自分より相手を下に見ている笑い」。伊藤さんはそう表現した。

  ■自分の中の差別感■

 差別と笑いは紙一重だ。「人を馬鹿にして笑う」という気持ちは自分の中にもある。障害者や高齢者など弱い立場の人をネタにしたギャグに、思わず笑ってしまう自分もいる。なぜ、笑ってしまえるのだろうか。「不謹慎だけれど笑ってもいいんじゃないか」と感じるのはなぜなのだろうか。

 たぶん、笑いの対象にされる人たちと自分とは違うんだ、と見下す意識があったのだろう。笑われている人の気持ちを思う想像力に欠けてもいた。差別だと感じる感覚がまひしていたのかもしれない。

 愛情を向ける対象がたまたま同性で、その気持ちに悩んでいる人を笑えるだろうか。そう考えると、テレビのギャグを冷めた目で見ている自分がいた。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1996年10月号)


 ◇風速計23◇

何のための選挙報道

判断材料示してこそマスコミ

 新制度による初めての総選挙が終わった。「投票したいと思う政党も人物も見当たらない」「つまらない」と有権者の関心は低かった。政治と政治家に期待できないと感じているからだろう。だが、そうはいっても、大切な税金の使い方を委ねる代表を選ぶわけだから、無関心で困るのは実は私たち自身なのだ。そうした視点での選挙報道こそ、本当は必要だった。

  ■争点は生活に直結■

 選挙戦での「争点」は本当は山のようにあったのだ。行政改革、消費税、住専処理、破壊活動防止法、日米安保、原子力発電、高齢化、情報公開など、挙げていけばきりがない。決して、消費税の当面の税率が3%か5%かの問題だけが「争点」ではなかった。

 そしてこれらは、遠い世界の話ではなく、私たちの生活に直結した問題なのだ。

 行政改革だけ見ても、納税者たる市民をなめきったごう慢な官僚の在り方は、薬害エイズ事件で学習したはずだ。「省庁の数をいくつにするか」が問題なのではない。官僚に公僕たる自覚をいかにたたきこみ、情報をどうやって市民のものにするか、それこそが問題なのだ。

 新聞記者は、こうした問題を公示前や公示後、きちんと整理して読者に伝えただろうか。今回の一票が、どういう意味を持つかということを。

  ■問題提起こそ使命■

 ところが、選挙報道の多くは「山田候補は支持団体をまとめ一歩リード」などといった、競馬予想のような「情勢分析」を垂れ流すことに終始した。こんな原稿をいくら書いても有権者にとっては何の意味もない。一生懸命読むのは選挙事務所の関係者くらいだろう。

 報道機関として、やるべきことは、ほかにいっぱいあった。何が問題で、その問題は自分たちの生活にどう関わってくるのか、自分はどんな判断(投票)をすべきか。そんなことを考える材料を読者(有権者)に示すことこそが、選挙に際してのマスコミの役割・責任だ。

 例えば、福祉作業所や老人ホームに出掛ける。経済的に追い詰められた生活実態が生々しく取材できたとする。消費税や住専処理、低金利、国や地方行政の福祉施策などと結び付けて、問題提起できるだろう。

 あるいは、米軍機の爆音や米兵の素行不良に悩まされている市民の日常生活、証言が取材できたとする。日米安保と沖縄、米軍基地の今後を考える記事が書けるかもしれない。

 材料はいくらでもある。

  ■業界話はいらない■

 政党の離合集散、公認問題のいざこざやタレント候補の動向など、その手の「業界」の話をいくら得意満面に書いても、大半の読者は関心を示さない。むしろ、政治の馬鹿馬鹿しさに愛想を尽かし、選挙から遠ざかるのに有効なだけだろう。

 それよりも、具体的な話とデータで投票の際の判断材料を示すことにこそ力を注ぐべきだ。無関心で困るのは有権者自身であることを訴えるのがマスコミの責任である。

 開票の翌朝、当選した候補者の喜びの表情をずらり、写真入りで社会面に並べた新聞があった。重複立候補による当選など、選挙制度の矛盾を指摘する記事はなかった。問題意識の欠如したその新聞の読者に、同情を禁じ得なかった。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1996年11月号)


 ◇風速計24◇

開発という名の侵略

日本のODAが奪ったもの

 「日本の皆さんは、自分たちの税金が、私たちの生活を破壊するために使われていることを知っているのですか。これは日本の第二の侵略です」。フィリピン人の女性区長は、日本のODA(政府開発援助)に対して、時に涙を浮かべ、しかし強い口調で抗議した。記録映画「教えられなかった戦争/フィリピン編」(高岩仁・監督)は、こんなインタビューで始まる。

  ■現地の生活を破壊■

 フィリピン・ルソン島南部のバタンガス市サンタクララ。1994年7月、1500世帯もの住居が地元軍隊によって破壊された。日本のODAを受けて大規模な国際貿易港を建設するためだ。ここから、日本企業の下請け工場の製品が積み出される予定だという。

 立ち退き条件など解決のための裁判の途中だった。一方的に追い出された住民は、鉄条網の外に仮小屋を建てて住む。明らかな人権抑圧だ。そこで、前文冒頭の女性区長のような訴えが出てくるわけだ。

 こうした例は、バタンガス市サンタクララに限った話ではない。ミンダナオ島南部のゼネラルサントスでは、日本向けの大型マグロ漁船専用港建設のために、地元漁民の家族が強制的に立ち退かされた。建設用地は鉄条網で囲われていて、だれも入れない。ここにも日本のODAが使われようとしている。

  ■事実を知った上で■

 戦前の日本のアジア侵略と体質的には変わらない。「開発」という名による「侵略」が、私たちの税金を使ってアジア各国で進められている。映画はそう告発する。しかもこの「開発」は地元の環境・生活を確実に破壊していくのだ。

 カラバルソン計画という観光開発では、造成と森林伐採による土砂流入が重なって、ラグナ湖の平均水深が半分になった。魚がほとんど捕れない湖になってしまったという。開発に伴う日本企業の工場進出では、工場排水の垂れ流しなどの公害も深刻な問題になっている。

 JICA(国際協力事業団)職員と、高岩監督の自宅スタジオでこの映画を見た。「今の状態でいくら金を注ぎ込んでも、日本企業が太るだけ。その基本的構造を理解してほしい」と高岩監督。これに対し、JICA職員からは「ODAには問題があると思うが、役立っている面もあるのでは」「ODA自体が悪いわけではない。事実を知った上で、やり方を考えていく必要がある。日本人の関心が高まり、ODAを監視することが大切」などの意見が出た。

  ■だれのための開発■

 「援助先の住民の人権や環境などに問題が生じる形のODAは行わない」というのが一応、外務省の方針だ。もちろん、政府間では合意の上の援助だろうが、現実には環境を破壊し、住民の生活と人権を踏みにじった「開発」が続いている。

 サンタクララの女性区長は言う。「この開発計画は大多数の人々の利益にはならず、ほんの少数の資本家、地主たちにだけ利益がある。あなたの税金が使われているのです。私たちの現状を知って、それでも多くの人々の生活を破壊するこのプロジェクトに、あなたのお金が使われることを望みますか」

 日本人は、税金の使われ方にあまりにも無関心だ。だが、税金の行方を考えるのは、主権者としての責任である。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1996年12月号)


 ◇風速計25◇

原点は「新聞記者」

「会社人間」にならないために

 「A社もB社も関係ない。新聞記者という一点ではみんな同じはずだろう」。新人のころ、別の新聞社の先輩記者にそう言われたことがあった。「会社のために記者活動をしているわけではない。市民の人権や民主主義を守るために仕事をしているのではないか」。カッコよく表現すれば、そんなところだろうか。だが実際には、「わが社」意識の強い記者が結構多い。

  ■市民のための新聞■

 「新聞記者」を名乗るからには、確かに所属する新聞社の看板を背負っているだろう。会社から給料をもらうサラリーマンでもあるだろう。

 だが、新聞記者はただのサラリーマンであってはならないはずだ。「極めて公共性が高い」という理由から、新聞社は一般企業とは一線を画す、とされているからだ。だからこそ、新聞社と新聞記者には高い倫理水準が求められるし、市民のために不正と闘い、権力を監視し、民主主義を守るための取材を続ける義務がある。しんどいけれど、それが記者の仕事だ。

 会社のためではなく、市民のために仕事をする。結果として、それが会社のためにもなる。順序としてはそうでなければならないはずだ。口を開けば「わが社は」「うちの新聞は」と連発する新聞記者。これでは、どこを向いて仕事をしているのか疑いたくなる。

  ■社畜記者でいいか■

 「企業内ジャーナリスト」の新聞記者には限界がある、と評されることがある。結局は会社組織の枠組みから逃れることのできないサラリーマン記者ではないか、との批判だ。

 お家(会社)大事の「社畜」に徹している記者は多い。会社や上司の命令に易々諾々と従って、組織の歯車になりきっている記者もいる。でもそんな記者が、「上司の命令でやった」と不正の言い訳をする企業人や役人を批判できるだろうか。

 こうした新聞記者批判を跳ね返すためには、「会社の利益」よりも「市民の利益」を優先させるという発想を、意識の中に常に持つ努力が必要だ。

 ライバル意識や建設的な競争は、新聞社や記者の間で大いにあるべきだと思う。やる気や活気につながるからだ。ただし、それ以外では「A新聞の記者」ではなくて、ただの「新聞記者」の意識でありたい。たまたまA新聞に所属しているだけで、まず「新聞記者」。

 所属する会社は違っても、尊敬すべき仕事をしている記者は同志であり仲間である、と少なくとも私は考えている。

  ■会社の枠を越えて■

 新聞労連の活動の一つに、JTC(ジャーナリスト・トレーニング・センター)がある。全国の若手・中堅記者を対象に、「新聞記者って何だろう」と問い掛け、記者活動のあり方を再考しようという研修機関だ。講師は現役新聞記者、OB、フリーライター、テレビディレクター、研究者ら。93年9月から計8回の研修会が開かれた。

 ここでは、所属新聞社の枠を越えて、記者の原点に立ち返ることができる。他社の記者から取材経験談を聞き、悩みや疑問などを話し合う。「あんな取材を自分も」というやる気と元気を得て、参加者はそれぞれの現場に戻って行くのだ。そこには「会社のための記者活動」などという発想はない。厳しい現実は待っているけれども。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1997年1月号)


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