大岡みなみのコラム風速計

(初出:人権団体の機関誌に連載)


INDEX

 16)新聞社を去る記者たち (1996年4月号)

 17)忘れ去られた「推定無罪」の原則 (1996年5月号)

 18)小野悦男容疑者の冤罪事実は消えない (1996年6月号)

 19)弁護士集団ミランダの会の活動 (1996年7月号)

 20)記者は孤独な職業だ (1996年8月号)


 ◇風速計16◇

新聞社を去る記者たち

決断の背景を理解しない上司

 就職人気企業ランキングの上位に新聞社が入っていた時があった。学生運動の盛り上がりや、社会変革の熱気に満ちた時代の風を受け、新聞記者に対する期待が強かったからだろう。上位には顔を出さないが、学生のマスコミ人気は今も変わらない。新聞社でも100倍、200倍の競争率は普通だ。そんな難関を突破したのに、会社を辞めて行く記者が後を絶たない。

  ■退職者を追跡ルポ■

 「相次ぐ人材流出で、職場が重大な局面を迎えている」。こんな書き出しで、ある全国紙の労組が1994年秋から約1年間、組合機関紙に「自己退職者の追跡ルポ」の連載を始めた。

 その年の1月以降、同社を去った記者数は42人。そのうち中堅・若手記者が26人を占める。危機感を感じた組合が退職者の実態を取材した。

 退職の理由は、低賃金、人不足による加重労働への不満が多い。家庭の事情などもある。しかし一方で、「記者個人の苦労が報われない」「取材上のことで上司と意見が合わない」と訴える声も強くある。「待遇が悪いのは覚悟して入った。給料が安くて辞めたんじゃない」

 遺族を傷付け、容疑者の人権を無視し、ネタを大きく膨らませて、しつこく書き続ける事件報道合戦に嫌気がさした女性記者もいた。「私はいったい何をやってるんだろう」と。

  ■意欲や感性を摘む■

 こうした事例は、この新聞社だけの特別な話ではない。

 「広い紙面を埋めるための出稿が精いっぱいで、書きたい記事が書けない」「デスクやキャップに、やりたくもない無意味な取材をさせられる」「現場記者の感性や問題意識を上司が受け止めるどころか、摘み取ってしまう」。意欲的な記者ほど、こんな悩みを抱えている。感性が鈍く問題意識の低い上司に原稿をボツにされることもある。そして、不満と我慢の限界に達して退社を決意するのだ。

 問題なのは、新聞社や新聞記者の現状に絶望して貴重な人材が職場を去って行くこと、その損失の大きさと深刻さに会社幹部や上司がまるで気付いていないことにある。

 ところが、彼らは「個人的な問題」「挫折しただけ」「待遇のいい会社に転職したんだろ」「嫌なら辞めろ」と切り捨てるだけだ。もちろん、記者という職業が不向きで辞める人もいるが、取材意欲と志ある記者が退社を決断した理由を、幹部や上司は真剣に考えるべきだ。

  ■心に響くものない■

 役所の発表よりも一日早く書いた、といった種類の無意味な「特ダネ」が過大に評価され、そのための取材を強要される問題も大きい。記者の感性と意欲が磨り減らされるからだ。

 ある新聞社のマスコミセミナーを受講した記者志望の女子大生が話していた。「一線記者の座談会コーナーで、記者の気概や心に残った仕事が話題になったんですが、心に響くものがなくてがっかりしました」。無意味な「特ダネ」の自慢話が大半だったそうだ。

 役所が隠そうとすること、自分が書かなければ公にならないことを読者に知らせて問題提起するのが本当の「特ダネ」だ。市民の怒り、悲しみ、痛みを伝えるのが記者の仕事だ。

 伝える仕事に意欲を燃やしていた女子大生は、記者志望をやめた。新聞の未来は暗い。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1996年4月号)


 ◇風速計17◇

麻原被告の初公判

忘れ去られた「推定無罪」の原則

 物々しい警備の中、オウム真理教の教祖・麻原彰晃被告の初公判が東京地裁で開かれた。地下鉄サリン事件、坂本弁護士一家事件など、この教団が関わったとされる事件は、どれも異常な凶悪犯罪であることは言うまでもないから、人々の関心が高いのは分かる。だからこそあえて言っておきたい。「民主主義の原理・原則に従った厳正な裁判、報道を」と。

  ■居眠りするなんて■

 初公判を伝える報道のひどさにはあきれた。日本国憲法も刑事訴訟法も全く無視したでたらめな報道ぶりには、正直言って絶望的な気持ちになった。

 「居眠りするなんてどういうつもりですか。だれの裁判だと思ってるんですか。目が見えないって言うから、被害者の名前を読み上げてるんじゃないですか」。公判終了後、地下鉄サリン事件の遺族の一人は、法廷での麻原被告の態度に対する怒りを報道陣にこう訴えた。テレビはこの発言を何回も繰り返して放送した。

 遺族がこのように思う気持ちは分かる。発言として出てきたとしても仕方がないと思う。しかし、報道機関がこの発言をそのまま何の注釈もつけないで放送してしまう(しかも何回も繰り返して放送する)のは、あまりに無責任な行為だと言わざるを得ない。視聴者をミスリードしたことになるからだ。

  ■裁判は私刑と違う■

 麻原被告が居眠りしていたかどうかは不明だ。傍聴者の中には、めい想していたと言う人もいれば、何も考えてなかったのでは、と言う人もいる。仮に法廷で居眠りしていたとしても、それは被告自身の問題だ。それに、起訴状の朗読は公判手続き上の検察官の義務であり、被告の意思とは関係ない。

 遺族としては「被告はちゃんと聞け」と思っても仕方ないと思う。だが、その声を報道するに際しては、法的手続きや被告の人権を無視する風潮を手助けしない工夫が最低限必要だ。

 裁判は私刑(リンチ)ではない。どんな凶悪事件で罪に問われている被疑者・被告であっても、法的手続きに従った裁判を受ける権利があり、判決が確定するまでは「推定無罪」とされるのだ。すべての被疑者・被告には人権があり、自己に不利益な供述は拒む権利がある。

 これは、民主主義の原理・原則だ。中学生でも社会科で習って知っている。「他人の人権を侵害した」とされる人を裁くのだからこそ、裁く側は被疑者・被告の人権を侵害しないように手続きを進めるのだ。

  ■自覚ない報道責任■

 推定無罪の原則を無視した報道は、テレビに限らない。

 初公判を伝えたある全国紙の社会面にはこんな見出しが踊った。「法廷で居眠り・あくび」「まるで他人事/麻原陳述/反省、謝罪の言葉なく」「宗教観?3分語り『以上です』」「あきれた何考えてる/ごまかすことしか…/はらわたが煮え返る/怒りの遺族ら」

 捜査機関から「悪者」とされている人には何をしても、何を言ってもいいという風潮は民主主義の根幹を危うくする。視聴者や読者にそうした風潮があるのならば、報道機関は率先して警告し、歯止めを掛ける責任がある。麻原被告の国選弁護団長は「被告の人権を守ることは、私たち自身の問題だと考える」と話している。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1996年5月号)


 ◇風速計18◇

小野悦男容疑者の逮捕

それでも冤罪の事実は消えない

 「松戸OL殺人事件」で1991年四月に無罪判決を受けた小野悦男容疑者が、今年四月に女児殺人未遂容疑などで逮捕され、同5月には殺人などの疑いで再逮捕された。「松戸OL殺人事件」は、冤罪(えんざい)だったとして無罪が確定している。にもかかわらず、一部マスコミは「あの時に無罪にならなければ、今回の事件は起きなかった」と平然と主張する。

  ■立証できねば無罪■

 小野悦男容疑者は、千葉県松戸市で信用組合の女性職員が殺された事件で、1974年9月に別件の窃盗容疑で逮捕、翌年3月に殺人などで起訴された。一審の千葉地裁松戸支部は無期懲役。しかし二審の東京高裁は一審判決を破棄し、窃盗は有罪としたが、殺人、死体遺棄、強姦(ごうかん)罪については無罪を言い渡した。検察側は上告せず、無罪が確定した。

 「松戸OL殺人事件」は、冤罪だった。二審判決は、警察による自白調書の証拠能力を否定したのだ。

 どんなに疑わしい、怪しいと思われたとしても、確たる証拠に基づいて容疑事実が立証されなければ有罪にはならない。疑わしきは罰せず、被告人の利益(無罪)とするのが法治主義の原理原則だ。この原則が守られなかったからこそ、冤罪がつくられていったのは歴史が証明している。

  ■一事不再理は原則■

 無罪判決を受け、16年ぶりに釈放された小野容疑者は、代用監獄や冤罪、犯罪報道などの問題を考える集会に出て問題提起をしていた。その小野容疑者が、女児殺人未遂、女性殺人などの容疑で逮捕された。

 多くのマスコミは「前の事件も小野容疑者の犯行ではないか…」と暗にほのめかすような報道を続けた。その程度ならまだましな方で、中には「あの時、無罪にならなければ…」「こんな殺人鬼を野放しにした無罪病裁判官と人権派弁護士の責任は…」などと堂々と言い放つ週刊誌があったのには、慄然(りつぜん)とさせられた。

 前の事件は冤罪で、無罪が確定している。今回の事件とは別のものとして考えるべきだ。仮に今回の事件が小野容疑者の犯行で、いかに凶悪非道な事件だとしても、「だからあの時、無罪にさえならなければ…」などという発想が、法治国家・日本の中でどうすれば出て来るのか理解に苦しむ。

 そもそもなぜ、無罪確定の事件を蒸し返すのか。憲法三九条に定められた一事不再理は、刑事裁判の基本原則だ。

  ■無罪判決の責任か■

 この週刊誌は、当時の県警捜査一課長の「私は今でも犯人は小野以外ありえないという確信を持っている」(こんな暴言が許されるのだろうか)などの言葉を並べて、「松戸OL殺人事件」の犯人は小野容疑者だと決め付けた。その上で、無罪判決を導いた弁護士と裁判官に今回の事件の重大な責任がある、とまで結論付けるのである。実に乱暴で怖い論理だ。

 今回、小野容疑者が罪を犯したのならば当然、その責めは負わねばならない。しかし、それと過去の冤罪事件を結び付けるべきでは断じてないし、冤罪事件の意義を否定するような風潮には注意が必要だ。刑事手続きや取り調べのあり方、犯罪報道についての問題提起は、今も生きているのだから。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1996年6月号)


 ◇風速計19◇

被疑者の権利拡充を

弁護士集団ミランダの会の活動

 「弁護士が来なければ話さないよ」。刑事に被疑者がそう答える場面は、アメリカのテレビドラマには登場しても、日本ではお目にかかれない。日本の弁護士は被疑者に、接見のわずかな時間に助言できればいい方だ。時には、その接見さえも「捜査に支障が出る」と拒否される場合がある。被疑者の権利を守り、密室の取り調べを監視するにはほど遠い現実がある。

  ■基本的権利を守る■

 「被疑者(被告人)の基本的な人権を守り、密室での取り調べ・尋問を監視する」。そんな弁護活動を目標に掲げる弁護士たちが集まって昨年2月、「ミランダの会」というグループを結成した。

 会の名前は、アメリカ連邦最高裁の「ミランダ判決」から取って名付けられたという。この判決は「被疑者の黙秘権」「被疑者の取り調べの間、弁護人を同席させる権利」を認めたことで知られる。

 「ミランダの会」の弁護方針はいたって明快だ。(1)弁護人の立ち会いなしには取り調べに応じない、(2)弁護人の確認なしには供述調書に署名・押印しない、(3)答えたくない質問には答えなくていい、などを被疑者にアドバイスするとしている。

 憲法に定められている基本的な権利から、ごく当たり前の弁護活動の気がするのだが、現実は当たり前とされていない。

  ■弁護活動に圧力も■

 「調書の内容が供述したことと違う」と思っても、大半の被疑者はそのまま署名・押印してしまう。しかし、証拠として採用される供述調書の署名・押印に、被疑者はもっと慎重であっていいはずだ。また、取り調べは朝から深夜まで長時間、しかも密室で行われる。捜査側は圧倒的に有利な立場に立つ。

 だから、「調書確認」「取り調べへの立ち会い」を弁護士が求めることになる。弁護士の責任として当然のことだろう。

 ところが、こうした弁護活動に対して、捜査側は威嚇行為を繰り返している、と「ミランダの会」の弁護士は訴える。

 通常なら在宅起訴で済む軽微な事件なのに、取り調べに弁護人の立ち会いを求めた途端、被疑者は逮捕される。保釈も認められない。被疑者をことさら不利益に扱うことで弁護活動に圧力を掛けるのだ、という。

検察や法務省は、「ミランダの会」の活動を「捜査妨害の違法な弁護活動だ」と批判する。逆に「ミランダの会」は、検察や法務省の態度に対して「弁護活動に対する悪質な挑戦、弁護妨害だ」と抗議している。

  ■許されぬ人権侵害■

 多くの捜査官はまじめな捜査活動を続けているだろうが、違法・不当な捜査や取り調べは後を絶たない。松本サリン事件の悲劇は記憶にも新しい。

 人権侵害はどんな場合でも決して許されることではない。そもそも、違法な手段による自供は証拠として通用しない。それが民主社会のルールだ。捜査側にとっても、被疑者が納得する調書を得た方が、公判維持しやすいのではないだろうか。

 埼玉弁護士会は今年5月、ミランダ方式の弁護活動を支持することを総会決議した。単位弁護士会としては全国初だ。

 「ミランダの会」への連絡は、〒336 浦和市高砂4-3-21、三協ビル4階、萩原・町田法律事務所、萩原猛さん(電話=048-866-4931)。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1996年7月号)


 ◇風速計20◇

記者は孤独な職業だ

やる気にさせる読者の叱咤激励

 自信を持って取材して書いた原稿でも、こっぴどく批判・否定されたりすると、自信がぐらついてくることがある。「ひょっとしたら、全然おもしろくない話で、ニュース価値もないのだろうか」「独り善がりで、取材の視点がずれているのだろうか」。本当に自信があるなら、不安になる必要などないはずだが、そうは言っても記者の心が大きく揺れる場合もある。

  ■ルポとして不合格■

 最近、教育問題のルポを出稿した。教師と生徒の信頼関係がテーマで、全部で五回の新聞連載原稿だった。

 自分では十分な取材をしたつもりだったし、結構おもしろいルポが書けたという自信があった。ところが、報道担当デスクに「ルポとして不合格。これでは少なくとも社会面では使えない」と言われてしまった。

 ショックだった。「おもしろい原稿のはずなんだけど」と思う一方、「そんなにまずい原稿だったのか」と自信がぐらついた。信頼する同僚と整理部デスクは、原稿を読んで「おもしろい」と言ってくれたが、それだけでは安心できなかった。

 ルポライターの鎌田慧さんを担当した編集者と、全国紙の社会部前副部長に意見を求めた。「僕がデスクならこのまま載せるね」。その言葉を聞いて、小心者の私はやっと一安心したのだった。

  ■不安に揺れる感性■

 そんな時、女性フリーライターの体験談を聞いた。

 彼女は雑誌に原稿を書いた。ここを書き直せ、あそこを削れと担当デスクに何カ所も手直しさせられた結果、彼女の意図とは大幅に違う記事が出来上がった、という。雑誌の掲載記事は確かに分かりにくいと私も感じた。彼女から事前に聞いた話はおもしろかったのに、なぜ、あのおもしろい部分を書かなかったのかと疑問でもあった。

 「ベテランのデスクから書き直した方がいいと言われたら、その方がいいのかなあと思ってしまう。おもしろい話だと思って書いても、つまらないから必要ないと言われたら、そうかもしれないと心が揺れる」と彼女は率直な悩みを訴えた。

 力関係からデスクに反論できない面もあるだろう。しかし、価値観や感性の違いには、反論しにくい。事実関係なら正誤は明らかにできるが、価値観や感性の面はどちらが正しいと判断するのは難しい。

 しかも、「君の問題意識はおもしろくない」「君の価値観や感性はつまらない」と断言されれば、自分の感性に自信がなくなる記者も出てくる。

  ■反響が記者育てる■

 同志社大学で新聞学を勉強している学生たちに、話をする機会があった。

 新聞のあるべき姿などを論じた最後に、読者に何を望むかを学生から問われて私は答えた。「いっぱい批判して、いっぱい褒めてください。記者を育てるのは読者です。いい記事は褒めてほしい。それが記者をバックアップすることにもなる」

 記者は孤独で不安だ。読者からの反響や叱咤激励が一番うれしい。さらに、その声はデスクの感性や問題意識を刺激することにもなる。デスクを育てることにもつながるのだ。

 冒頭で紹介した教育問題のルポは、硬派週刊誌に全文載ることになった。

(初出:人権団体の機関誌に連載:1996年8月号)


風速計の【総合INDEX】へ戻る

フロントページへ戻る

ご意見・ご感想は norin@tky2.3web.ne.jp へどうぞ