インタビュー/司法改革

娘の自殺の背景を知りたくて

学校の壁と司法の壁と

作文開示訴訟●前田功さん、千恵子さん


 東京都町田市の前田功さん(54)、千恵子さん(53)の二女、晶子さん(当時、市立つくし野中学校2年生)は、1991年9月1日に自ら命を絶った。「いじめを苦に自殺した娘に学校で何があったのか知りたい」と夫妻は、学校や市教委に説明を求め続けてきた。

 【作文開示訴訟】学校は全校生徒に「事件について知っていることを」と指示して作文を書かせた。両親はこれらの作文を見せてほしいと求めたが、学校は拒否。町田市の個人情報保護条例に基づいて個人情報の開示請求をしたが、学校・市教委は「生徒のプライバシーを侵害する」として非開示処分を決定したため、93年1月に非開示処分の取り消しを求めて提訴した。「親の請求権」は認められたものの、一審の東京地裁で前田さん側が敗訴、東京高裁でも控訴が棄却された。

 作文についての学校や市教委の説明は、これまでに二転三転。「作文は生徒に返した」と言いながら、返していないことが明らかになると「廃棄処分した」と答え、保管されていることが分かると「生徒の所有物だから見せられない」とするなど、言い訳は何回も変わった。

 【学校の調査・報告義務を問う訴訟】作文開示訴訟に続いて前田さん夫妻は95年2月、「学校は子どもの自殺について調査し、保護者に報告する義務があったのに怠った」として、学校や市教委に損害賠償を求めて提訴した。今年9月に裁判所は和解を勧告。学校・市教委側が前田さん側に謝罪する形で、11月12日に和解が成立した。


●お上のための司法か●

 作文開示訴訟では、裁判所って体制を守るためにあるんだなあと、「裁判所の壁」を痛切に感じました。あまりにもひどい目に遭っていれば私たち庶民のことも守ってくれますが、そうでなければ徹底して「お上」を守るんだと思いました。

 証人尋問で、子どもたちが「作文は返されていません」とはっきり証言して、学校の先生のうそや欺瞞性を明らかにしているにもかかわらず、裁判所は「子どもたちの証言には信憑性がない」と決め付けたのです。その判決内容には愕然としましたね。本当に腹が立ちました。「あなた(裁判官)も学校や先生と一緒ですね」と思いました。

 教師の言うことは信じるけれども、子どもたちの言うことは信じない。その姿勢に愕然としたのです。学校組織を守るために教師がうそをつくのには理由があるけど、そもそも子どもたちにはうそをつく理由なんてどこにもないじゃありませんか。「最初に結論ありき」の判決ですよね。せめて「作文は返していない疑いがある」くらいの表現にするのなら、まだ分かりますが。

 「学校は善で、教師はうそをつかない」という前提で裁判をしている。実態とかけ離れているにもかかわらず、教育に対する固定観念があるんですね。

 それにしても法廷で宣誓しているのに、教員たちが平気でうその証言をするのには驚きました。組織に守られているからかもしれませんが、うそのつきたい放題です。偽証することに罪悪感を感じていないんですね。民事事件では偽証罪に問われることはあまりないと聞かされましたが、おかしいなと思いました。宣誓の意味がないわけで、型通りで終わっているんですよ。

●庶民の痛み分かって●

 裁判官というのは、弁護士もそうなんですが、学校とか教育制度に乗っかって優等生できた人たちだから、よほど感性のいい人でないと、私たち庶民の痛みが分からないのかもしれません。そういう意味で言えば、原告以外はみんな「向こう側」の人なのかもしれません。

 福岡県の弁護士会が2年前に、私たちの作文開示請求訴訟を題材にして、模擬陪審裁判を開いたんです。一般公募された市民陪審団が2つのほか、司法担当記者、大学生、元裁判官と元検察官、元教職員が合計6つの陪審団をつくって評決しました。結果は、一般公募陪審団は2つとも開示すべきとの結論で、司法担当記者の陪審団と、大学生陪審団もそれぞれ開示だったのですが、法曹陪審団と教育関係者の陪審団は非開示の評決を出したんですよ。法律家と教育関係者が一番、庶民感覚と隔たりがあるんだなあと、改めて思いましたね。

 二つの裁判では何十回と法廷を経験してきましたが、証人尋問は別にして、大半が文書のやり取りなんですよ。ほとんどが形式的な手続きで、そんなのだけならメールでやり取りしていればいい。裁判官もずっと黙っているだけで、たまに口を開いても「書類は出ていますか」などといった質問しかしない。

 人というのは心と心でつながり合ったり、あるいは対立したりするものだと思っていましたが、法廷の場で私たちは、そんな本当のやり取りというものを、残念ながら経験したことがありませんでした。

 「学校の調査・報告義務訴訟」の和解で、初めて私たちは裁判官の人となりを知りました。

●裁判官に心が通じた●

 裁判長が和解文案を読んでくれている時には、込み上げてくるものがあって、涙が出てきました。冷たい法廷の中でのやり取りではなくて、人としての考えを理解してくれたことに感動しました。長い裁判の最後の最後になって、ようやく裁判官と心が通じ合えた気がします。和解をやってよかったなあと心から思いました。

 こういう裁判官もいるんだということが分かってよかった。こんな人が裁判官として司法に携わっていることを知り、日本の司法に少し安心感を覚えました。これまでの裁判では何人も裁判官が異動で変わりましたが、中には、私たちの訴えを真摯に聞こうとする姿勢が感じられない、ひどい裁判官もいましたから。

 和解に入って2回目の席で、裁判長がこんなふうに私たちに話しかけてくれたのが忘れられません。

 「(お二人が書かれた)『学校の壁』を読ませていただきました。あそこに書かれていることは事実だと認識しています。抑えて書いていて、自分への分析や反省など原告として不利なことまで書かれているのに驚きました。よくあそこまで書かれましたね。前田さんたちのやってきたことは決して無駄にはなっていません。(世の中や社会や学校を)変えていっていますよ。学校教育を前進させることに大きな役割を果たしています」

 とても力づけられる言葉でした。私たちの裁判の趣旨を分かってくれたんだ、これまでやってきたことは無駄にはならなかったんだな。そう思うと涙が出てきました。「ライフワークとして、教育行政が変わるまでずっと活動は続けていくつもりです」。裁判長にはそう答えました。

 本当は和解ではなくて、できれば裁判所に判決を出してもらいたかったのですが。それができないのなら、親としてはこれから法的不備を変えていくような、新しい法律や条例をつくる働きかけが必要なのかなあとも考えています。

●裁判官にも壁がある●

 和解を勧告してくれた裁判長も、本当は自分の手で判決文を書きたかったのではないでしょうか。でも、書くとしたら(子どもに関して学校には親への調査報告義務があるとする)法律が必要になってきますが、適用する法律がない。教員と学校、教育委員会の関係についての法律しか存在しなくて、親と子どもの関係について考えてくれるような法律が日本には皆無なんです。

 法律の支えがないところで判決を出すというのは、裁判官にとってもやりにくさを感じるものなのでしょうか。法的不備を判例という形で補って、新しい視点を示すことも有り得るとは思いますが、やっぱりそういうのは出しにくいのかなあ。たぶんそこのところを一番感じて悩んでいるのは、裁判官なのかなと思います。

 裁判官自身も実はおかしいと思っているのに、法律がないから判決が書けない。市民感覚で言えば仮に法律がなくても、社会通念で考えておかしければ「おかしい」と判断します。裁判官もそんな社会通念に従って、制度改革のために英断を下してくれたら、きっと「歴史に残る判決」となるんでしょうけれど、それは難しいのでしょうか。判例も法規範の一つなのであって、世の中を前進させていくのが裁判の役割のはずですよね。

 そういう判決を出す裁判官が、もしも「冷や飯」を食うような状況にあるのだとするなら、とても残念だと思います。裁判官にも子どもがいたり家族がいたり、出世競争もあったりするそうです。一人一人が独立しているはずの裁判官が、上の目を気にしながら判決を書いているのだとしたら、内申書を握っている教師に対して発言できない子どもたちと同じですよね。

 裁判官も自己規制しているのでしょう。最高裁の人事政策には、異端を排除する姿勢を感じますから。

 5年ほど前に関西で開かれた弁護士さんの集会にたまたま出席する機会があったのですが、そこで、市民グループが大阪高裁管内の現職裁判官に行った匿名アンケートを見せてもらいました。地方支部に回されたり差別的な人事をされたりしないようにと配慮して、当局が気に入るような判決を書くことがあるといった回答がいくつも書かれていたのです。とても衝撃的な内容でした。

 どこも一緒だなあ、もっと息苦しい世界で裁判官は生きているのかなあ、などと感じました。だから行政訴訟では、原告側の敗訴率が異常に高いのかな。「英断」を下すような裁判官は出世できないのかもしれません。そんなふうにも思いました。

●異論を唱えると排除●

 裁判を通じて、学校教育も会社組織も司法の世界も、体質としては同じなのかもしれないということを感じました。おかしいと感じたことに対して何か意見や不満を言おうとすると、すぐに押さえ付けてくる。ある程度のガス抜きはさせるけれども、あまり突出したり強く批判するようなことをしたりすると圧力がかかってくるんです。

 「裁判なんかするやつは…」みたいな目は、会社の中にもやっぱりありました。そこから抜け出るまでにはかなりの年数がかかりました。地域社会でも、学校に文句を言う家族という目で見る人たちは多いですよ。お上や組織に楯突いたり異論を唱えたりする人を、どうしても異端扱いして排除しようとするんです。

 私たちは、押さえ付けてくるものに直面して初めて世の中が見えてきました。もしも晶子が亡くならないで、私たちもみんなと同じように「幸せ」に仕事や生活をしていたら、そんなことにはまるで気が付かなくて、自分自身が押さえ付ける側に回っていたかもしれません。

●「正義の砦」に期待●

 裁判をしようとする人は、やむにやまれなくなって裁判所に来ると思います。おかしいことがおかしいと通じる「最後の正義の砦」として、最後の救済機関に期待して駆け込んで来るのに、裁判所は時々、市民の思いとかけ離れた判断を下すんですよね。

 学校関係者は公務員ですから個人責任は取らされないし、組織に守られていますが、私たちは自分たちのお金と時間を使って裁判を続けてきました。お金の面だけでなく、精神的にも肉体的にも、普通のサラリーマン家庭が裁判をするのは大変です。しかも行政訴訟の場合は、資料の大半が相手側にあるわけですからね。

 情報公開制度や個人情報保護制度では、審査会は「請求対象物」の原物を提出させて、それを見た上で非開示の不服申し立てを審議します。ところが、裁判では「訴訟対象物」はだれも見られないと言われました。審査会では委員が見ているのに、裁判所で裁判官が見られないのはおかしい。私たちとしては、訴訟対象物だからこそきちんと裁判官に作文を見て判断してほしかったのです。

 私たちは弁護団にも恵まれていました。学校教育や情報公開を考えるシンポジウムや集会などに顔を出すことで、子どもの人権や情報公開の問題に関心が高い弁護士さんたちと出会えて、お互いに共感し合うことができました。でも中には弁護士と心がつながらなかったり、しっくりこなかったりして苦しんでいる人は結構多いようです。

 弁護士はプロとして、依頼人が本当は何を望んでいるのかを引き出さなければならないと思います。依頼人も自分たちが裁判で何を望むのか、きっちりと伝えなければなりません。そうでないと溝が広がったまま進んでいくことになります。

初出掲載(「月刊司法改革」1999年12月号)


●写真説明(ヨコ):晶子さんの遺影の前でアルバムを見る両親の前田功さん、千恵子さん。「学校の壁」の厚さと闘い続けた8年間だった=東京都町田市の自宅で


「ルポルタージュ」のページに、関連記事として「葬られた作文」を掲載してあります。事件の背景などを追跡した短編ルポです。


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