司法改革●雑文編●裁判官を考える

 

徹底研究「町田顕・最高裁長官」

青法協出身で初の長官

賛否分かれる裁判官の生き方


 最高裁長官の年間報酬額は、内閣総理大臣と同等の約四千万円。三権の長として違憲立法審査権を行使し、独立した裁判を行うために、日本の司法トップの待遇は少なくとも経済的には首相と同格扱いされている。

 そんな最高裁長官とは、いったいどんな人物なのだろう。その素顔はマスメディアにはほとんど出てこない。司法関係者でさえよく知らない人が多いというのだから、一般市民は知るよしもない。

 しかし「憲法と人権を守る最後の砦」とされる司法トップに立つ人の姿を、国民はしっかりと知っておく権利がある。第十五代最高裁長官の町田顕氏の足跡をたどってみた。

 キーワードは「青年法律家協会(青法協)出身者として初めての最高裁長官」だ。

●表面的な表情は公開されるが…●

 町田氏は一九三六年十月十六日に山口県で生まれ、東大法学部を卒業した一九五九年に司法修習生となった。十三期である。

 長官就任後の新聞各紙や最高裁の公式情報などによると、少年時代の町田氏は、映画館でジェームス・ディーンやオードリー・ヘプバーンを見て「世界」を感じたそうだ。裁判官の仕事を志したのは、強い目的があったわけではなく、東大在学中に司法試験と国家公務員試験の両方に合格し、自由そうだからと考えて法曹界を選んだという。

 趣味は以前はテニスだったが、動く球を追いかけるのが大変なのでゴルフに変えた。最近は息抜きにパソコンゲームをすることもある。子どもは一男一女で、四歳の孫が一人いるが、現在は妻と二人暮らし。

 若いころは気付けにウイスキーを飲んで、仕事中の眠気を覚ました左党だという。仕事が終われば一升瓶を持ち出して職場で酒盛りをし、官舎に若手判事を呼んで酒を酌み交わして議論したこともある。自家製の梅酒は氷砂糖を少なめにした辛口だそうだが、妻のために甘口も作っている。

 愛称は「マチケンさん」。敵をつくらない円満な人柄から「お月様」の愛称も。「穏やかで人当たりがよく、物腰が柔らかくて論理的だが、信念を曲げない。オーソドックスな考え方の持ち主で、安定感とバランス感覚がある」というのが周囲の町田評だ。

 好きな言葉でもありモットーでもあるのは「自然体で生きる」。ストレスはためない方で、基本的に楽観的だから、大きな挫折感もなかった。「一つの目標を定めて集中するより、自然体で物事に処する性格」と自己分析する。

 印象に残る裁判は、東京高裁の裁判長時代に担当した「ごみ集積所をめぐる訴訟」を挙げる。「被害は分かち合えるはず」として、集積所の輪番制に反対する男性のごみ出しを禁じる判決を言い渡した。

 一方、最高裁長官としては、司法改革実現へ向けて努力することを表明している。裁判官制度について、人事の透明化や弁護士任官の推進が課題だとも述べている。

 …とまあ、国民の目にほんの少しだけ触れた町田氏の表面的な人となりは、このような感じだ。簡単にまとめると「お酒が好きで、人当たりはよいけれども信念は曲げず、バランス感覚のあるエリート裁判官」ということになるのだろう。

 しかし、そんな表面的な人柄など実はどうでもいいのであって、何よりも重要なのは町田氏の裁判官としての姿勢である。「この人は憲法の番人として、どのようなスタンスで何をどう裁いてきたのか」という事実こそ、広く知らされなければならないはずだ。

●裁判官生活の大半は司法行政官●

 とは言うものの、町田氏が裁判官として法廷で裁判に携わった経験は驚くほど短い。最高裁判事をはじめとして、いわゆる「エリート裁判官」はみんな同じような道をたどるのだが、裁判実務の経験よりも司法行政官としての経歴の方がはるかに長いのである。

 町田氏の裁判官生活は東京勤務でスタートする。初任地が東京なのは、司法修習の成績優秀者に多いパターンだとされている。町田氏も成績優秀で、司法研修所の「二回試験」は同期のほぼトップで修了したという。

 司法修習を終えて一九六一年に判事補任官した町田氏は、東京地・家裁に四年間勤務する。東京地裁民事部で、合議体の左陪席として行政事件を中心に担当した。

 一九六五年五月には、東京から札幌地・家裁室蘭支部に転勤。当時の室蘭支部は北海道で最も忙しいところと言われ、元気がよくて腕利きで、将来有望とされる若手判事補が派遣されていた。実際、後に高裁長官や所長となった人たちが赴任してきており、町田氏も「エリートコース」の一つを歩んだと言えるだろう。

 三年間の室蘭支部勤務を終えた町田氏は東京に戻り、一九六八年四月に最高裁民事局付となる。

 最高裁事務総局の各局に数人配置される局付という職は、裁判実務経験が二〜三年以上の判事補が任命され、それぞれの局で企画・立案・調査を担当するほか、局内各部署の調整や、他局との折衝事務などを任される。裁判官にとって、こうした最高裁事務総局のポストは、将来の高裁長官や最高裁判事につながる重要ステップとされていて、司法修習で成績優秀だった町田氏は、早い段階から将来を嘱望されていたのである。

 三年余の局付生活を終えた町田氏は、一九七一年七月から札幌地・家裁判事、札幌高裁判事職務代行として、再び裁判実務に復帰する。しかしその約二年後の一九七三年四月にはまた、最高裁事務総局に舞い戻る。着任したのは経理局主計課長。予算の編成や執行、決算事務などを担当する重要ポストだ。一九七五年二月には経理局総務課長も経験し、経理業務に幅広く精通することになる。

 続いて町田氏は、一九七七年一月から約六年半、内閣法制局に出向し参事官を務めた。法制局参事官は、法律問題について首相や大臣に意見を述べたり、各省庁が出してくる法案や政令案を審査したりする役目を担う。いずれも各省庁で経験を積んだキャリア官僚たちが出向してきており、もちろん裁判官出身者も「エリート」が選ばれる。

 法案審査は、通常国会直前には徹夜作業が続くという。町田氏も相当な激務を経験したらしいが、最高裁長官就任時のインタビューで、町田氏は「紛争を未然に防止するための法律制定の仕事は、裁判とは違う面があり、非常にいい経験だった」と述べている。

 一九八三年六月にようやく裁判実務に復帰した町田氏は、東京地裁判事として七月から部総括(裁判長)となる。実に十年ぶりの法廷だ。ところが翌年九月にはまたもや最高裁事務総局へ。最高裁秘書課長と広報課長を二年間兼務して、一九八六年九月から古巣の最高裁経理局長を約五年間務めた。

 この後、町田氏は一九九四年から四年半ほど東京高裁判事(部総括)を務めるが、裁判実務経験はこれだけ。二○○○年三月に最高裁判事に就任するまでの間、甲府地・家裁所長、千葉地裁所長、福岡高裁長官、東京高裁長官を歴任している。

●法廷の「姿勢」から判断すると●

 こうして見てくると分かるように、ほかの「エリート裁判官」と同じく、町田氏の裁判官生活の大半は司法行政官だった。判事補任官から最高裁判事に任命されるまでの三十九年間のうち、法廷で裁判に携わったのはわずか十四年半に過ぎない。残りの十八年間は司法行政を担当し、さらに六年半は法案審査の業務をこなしていたのである。

 しかしそれでも、このわずかな期間の裁判実務から、町田氏が「どのようなスタンスで何をどう裁いてきたのか」を垣間見ることはできる。

 判事補任官後の東京地裁民事部で、町田氏はいくつか注目される判決に関与している。私立大学生の署名活動などを理由にした退学処分に無効を言い渡した「昭和女子大事件」(白石健三裁判長)や、留置場に勾留中の被疑者に対する書籍差し入れ拒否を違法とした判決(同裁判長)などがある。

 また、札幌地裁室蘭支部では、従業員の演説内容を理由にした解雇を無効とした「王子製紙解雇事件」(奥村長生裁判長)や、組合の争議行為による取り引き先への損害賠償責任を負わないとした「王子製紙苫小牧工場損害賠償請求事件」(古田時博裁判長)などの判決に関与した。

 いずれの判決も、法律の条文を公正かつ厳正に適用することを重視し、リベラルな姿勢が示された判決と言えるものばかりだ。合議体による判決なので、町田氏がどのような関与の仕方をしたかは分からないし、裁判長の意見に従っただけという可能性も否定できない。だが、当時の町田氏を知る法曹関係者はこう証言する。

 「そのころの町田さんは人権・人道・ヒューマニズムの立場に立った判決を、自分自身の考えで書いていたのではないかと思いますよ。ある程度信念を持って動く人だと感じていたし、周りの情勢や人の言うことに左右されるような人間ではなかったから」

 司法修習生時代の町田氏は、憲法擁護を掲げる青年法律家協会(青法協)の会員として活発な活動をしていた。青法協による「安保条約反対」の文書を起草したのは町田氏だと言われている。判事補任官後も、青法協裁判官部会に所属して同期の世話役を引き受け、若手判事補と熱心に議論した。当時を知る法曹関係者は、少なくともこのころの町田氏は「信念の人だった」と評する。

 では、なぜ「信念の人だった」と過去形で語られるのか。町田氏の転機は、最高裁民事局付だった一九七○年にやってくる。

●「転機」なのか「変節」なのか●

 ちょうどこの時代は、保守系ジャーナリズムと政治家が「偏向判決」キャンペーンを繰り返し、青法協が「反体制の左傾団体」として攻撃対象になっていた時期と重なる。長沼ナイキ訴訟に札幌地裁所長が干渉した「平賀書簡事件」では、司法の独立が脅かされたとして社会問題になった。だが、違憲判決を出した裁判官が青法協会員だったことで、同会への風当たりは一段と強まった。

 最高裁事務総局は、局付判事補に対して執拗に青法協脱退を迫った。一九七○年一月、町田氏を含む青法協所属の局付判事補全員十人が、そろって脱退届を提出する。事務総局の脱退工作は激しく、脱退を拒む判事補は村八分にされたというから、町田氏の脱退は止むを得ない選択だったのかもしれない。

 しかし関係者の話によると、脱退を躊躇する者に対して「全員で行動をともにしよう」と説いて、十人の脱退届をまとめたのが町田氏だったという。その二カ月前にも、町田氏は「裁判官部会を青法協から切り離して無色の親睦団体をつくろう」と主張していた。

 局付判事補全員の脱退は衝撃的だった。影響は大きく、全国に三百五十人いた青法協裁判官部会の会員は二百人に激減した。青法協関係者の一人は当時を振り返って語る。

 「裁判官というのはそれぞれが強い信念と独立心を持っている。そんな人間を百五十人も落とすなんて、事務総局の工作はかなりのものだったのだろう。脱退は止むを得ない選択だったのかなとも思うが、でも町田君には先頭を切ってもらいたくなかった。あの集団脱退がすべての引き金だったんだから」

 翌年には、青法協脱退を拒み続けた宮本康昭判事補が再任拒否された。五百人以上の裁判官から抗議の署名が集まったが、町田氏の署名はなかったという。

 町田氏の選択は「転機」だったのか、それとも「転向」だったのだろうか。当時の青法協仲間の一人はこう話す。

 「踏み絵を踏まされ、自分がそれまでやってきたことを捨て仲間から外れたのだから、一種の転向でしょう。裁判所での生き方の問題だ、と本人は言うかもしれないけどね」

 さらに続けて、青法協仲間だった一人は寂しそうな表情で、こうも指摘した。

 「修習生の時から新任判事補のころまではともかく、その後はごく普通の司法行政官僚として生きているんじゃないかな。最高裁判事としての仕事を見ると、新任のころの姿勢と一貫していないよ」

 その後、町田氏が関与した判決を拾ってみる。札幌高裁では、国鉄職員が勤務時間中に組合活動としてリボンを着用するのは服装規定に違反し、職務専念義務に違反するとした「国労青函地本リボン闘争事件」(朝田孝裁判長)がある。

 最高裁判事としては、「東電OL事件」で無罪となったネパール人被告が、勾留取り消しを求めた特別抗告棄却決定(第一小法廷)で、勾留を認める多数意見に立った。「参議院議員定数配分規定無効訴訟」の判決(大法廷)でも、選挙無効請求棄却の多数意見。また第一小法廷の裁判長として「大分人勧スト訴訟」では処分された教職員組合員百三十七人の上告を棄却し、「名張毒ブドウ酒事件」の第六次再審請求では特別抗告の棄却を決定している。決して「進歩的」ではない。

 町田氏と裁判所で机を並べていた青法協仲間は、こんな感想と期待を漏らした。

 「裁判官が憲法を守るというのは、一人一人が判決の中で思想を貫いていくこと。だから、攻撃の的である青法協に残って裁判から切り離されるより、裁判に関与して判決を書く方が裁判官の生き方として筋ではないかという考えもある。だけど最高裁長官になった町田君は、もうだれに遠慮することもないはずだ。若いころの抱負や情熱を自分でどのように清算するのか、どんな判決を書いて何をするのかに期待したいですね」

 

【主な参考文献】 

 最高裁判所公式ホームページ、朝日、毎日、読売、産経、東京、日経の各紙のほか、参考にした主な文献は次の通り。

・『今日の最高裁判所/原点と現点』(竹崎博允、日本評論社)

・『危機にたつ司法』(宮本康昭、汐文社)

・『犬になれなかった裁判官』(安倍晴彦、日本放送出版協会)

・『法服とともに』(守屋克彦、勁草書房)

・『青年法律家』(青年法律家協会)

・『全裁判官経歴総覧』(日本民主法律家協会司法制度委員会、公人社)

 

初出掲載(法学セミナー増刊「Causa/カウサ」第6号=2003年3月号)

=雑誌掲載時とは表記や表現など一部内容が異なります。


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