論説面に池田大作氏の寄稿連載

揺らぐ「紙面の公正さ」

神奈川新聞・埼玉新聞の現場から


【前文】神奈川新聞と埼玉新聞に、池田大作・創価学会名誉会長の寄稿が長期連載されている。背景には地方紙の厳しい経営状況があるが、公正・中立であるべき新聞のあり方が根底から問われるこの事態に、両社の社内は大きく揺れている。

 新聞ジャーナリズムの公正・中立の原則を大きく踏み外し、新聞社としての独立性が揺らぎかねない事態が起きている。創価学会名誉会長の池田大作氏の寄稿を、首都圏の地方紙である神奈川新聞と埼玉新聞が、一般記事として「破格の扱い」で長期連載を始めたのだ。メディア関係者の間に衝撃と危機感が広がっている。

●広告や特集面でなく「一般紙面」に連載

 これまでも、紙面の1ページを使って「特集」「企画特集」などと銘打ち、創価学会や池田氏の活動などの特集記事を掲載することは、全国の新聞で行われてきた。

 一般読者の多くは、創価学会の書籍や雑誌の新聞広告を見て「通常の広告」の一つと認識しているだろうが、「特集」「企画特集」となると、広告なのか記事なのか、かなり曖昧で不透明な扱いになる。新聞編集としては実に「際どい」手法と言えるが、それでも多くの新聞社は、とりあえず一般紙面の記事とは区別しようとしてきた。

 ところが、神奈川新聞や埼玉新聞が池田氏の寄稿を掲載しているのは、広告や特集面ではなく、「論説・解説面(オピニオン面)」や「総合ニュース面」といった一般紙面だ。しかも単発掲載でなく、長期にわたって連載されるというのである。

 神奈川新聞は今年1月から5面の「意見」のページに、「こころの探究」のコーナー・タイトルで池田氏の寄稿を連載している。隔月掲載で全12回(2年間)の予定。記事の大きさは紙面の約3分の1を占める。1回目は1月29日付に「未来を照らす子どもたちへ」、2回目は3月26日付に「いのち輝く『長寿社会』を」という見出しのエッセーが掲載された。

 毎週月曜日に掲載されるこのページは、神奈川新聞の論説委員会が担当し、識者や著名人がさまざまな視点から論文やエッセーを寄せている。通常は「言いたい聞きたい」「こんにち話」という2つのコーナーと、弁護士や学者らによる「紙面直言」のコーナーで構成される。論文やエッセーは毎回違う人物が執筆しており、自社で原稿を依頼するほか、共同通信の配信記事を使うこともある。

 ところが、池田氏の寄稿だけが異例の扱いなのだ。いつもは「こんにち話」というコーナー名称で、執筆者も毎回異なっているのだが、池田氏の寄稿が掲載される際には「こころの探究」となり、しかもなぜか隔月連載なのである。論説委員会が担当するページの一角にいつの間にかするりと入り込み、唐突にスタートした格好の「こころの探究」について、紙面での説明は一切ない。

 一方、埼玉新聞は昨年秋から3面の「第3総合」に、「未来を照らす6つのキーワード」というタイトルで池田氏の特別寄稿を掲載する。こちらは隔月で全6回(1年間)。1回目は昨年11月21日付に「『家族』の絆」、2回目は今年1月23日付に「『芸術』の力」、3回目は3月20日付に「『正義』と『勇気』」と題するエッセーを掲載した。

 タイトルに「6つのキーワード」とあるので、「6回掲載されるのだろう」とかろうじて想像はできるが、やはりどのような位置付けの連載記事なのかは全く不明で、唐突な感じは否めない。

●ギリギリの一線を越えてしまった

 池田氏はこれまでにも、新聞紙面にさまざまな形で登場している。論説・解説・オピニオンや文化面などに、池田氏の発言が寄稿やインタビューという形で掲載されることは少なくない。

 全国紙では、朝日新聞が2001年5月に教育基本法の擁護を主張する池田氏の寄稿を「私の視点」に掲載したほか、読売新聞は同年7月に政治部長の池田氏へのインタビュー記事を掲載し、同年9月には産経新聞と毎日新聞も論説副委員長や主筆のインタビュー記事を掲載した。

 ブロック紙や地方紙も同様だ。西日本新聞は2001年12月に編集局長と池田氏の対談を掲載した。中国新聞は2002年1月に「広島の心と平和教育/生命尊ぶ力の結集使命に」と題する寄稿、神戸新聞は同年12月に「ヴィクトル・ユゴーの叫び胸に」と題する寄稿、下野新聞は2005年7月に「国際交流こそ『平和の道』」と題する特別寄稿をそれぞれ掲載している。こうした池田氏の寄稿は全国各紙に掲載されている。

 宗教団体や政党、労働組合など、さまざまな組織・団体のトップの意見や考え方を広く知らせるのは、新聞を含めてジャーナリズムの大切な役割の一つだろう。池田氏の寄稿やインタビュー記事を紙面に掲載するのも、そうした報道の一環だとするならば、「特別扱い」をしない限りにおいて、それはそれで問題があるとは必ずしも言えない。

 また、青森県の地方紙「東奥日報」は2002年5月に、「日中国交正常化三十周年に寄せて」と題する池田氏の「特別寄稿」を朝刊の2面に5回にわたって連載した。連載初日には1面の社告で、「日中国交正常化をいち早く呼び掛けた創価学会名誉会長の池田大作氏」などと説明しており、一応の掲載理由になっていると言えないこともない。

 しかし、今回の神奈川新聞や埼玉新聞の池田氏の寄稿掲載は、こうした各紙の記事の扱いと比べても突出している。各界で活躍する多くの著名人の中の一人として紙面に登場させるのではなく、池田氏だけを「特別扱い」しているのは明らかだ。どのような理屈や言い訳を用意して寄稿掲載を説明するのか、むしろそこに注目が集まっている。

 特定の宗教団体のトップだけを紙面で優遇することになれば、「あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない」と定めた新聞倫理綱領に著しく反し、公正・中立であるべき報道機関として読者の信頼を損ねることになるだろう。神奈川新聞と埼玉新聞は、寄稿掲載の許容範囲を逸脱し、ギリギリの一線を大きく踏み越えてしまった。

●掲載中止を求めて労組など申し入れ

 こうした事態に、神奈川新聞労働組合がすぐさま反応した。池田氏の寄稿が掲載されるとの情報を直前になって得た組合執行部は、会社側に事実経過などの説明を求めるとともに、組合ニュースで「不偏不党を旨とする報道原則からの逸脱だ。広告面・企画特集でなく、報道・論説面での掲載はジャーナリズムの自殺行為ではないか」などと訴えた。

 組合は1回目の寄稿が掲載されてから、寄稿連載に反対する申入書や抗議書を、組合執行委員長名で社長宛てに計3回出している。また、2回目の寄稿掲載直前の新聞休刊日には、この問題で組合員を対象にしたシンポジウムも開いた。

 シンポジウムには、パネリストに立教大学の服部孝章教授(メディア論)と横浜国立大学の北川善英教授(憲法)を招き、それぞれ専門分野の観点からジャーナリズムのあり方について厳しい指摘が寄せられたという。

 服部教授は、「新聞倫理綱領や会社の倫理基準に照らして妥当な寄稿なのか、紙面を売り渡していいのか。掲載決定責任者の責任が問われる。社内で徹底して議論すべきだ」などと述べ、報道機関としての自立性や読者に対する説明責任にも言及した。北川教授は、「政権与党の公明党の支持母体である創価学会に対して、マスメディアは厳しい緊張感が必要だ。巨大宗教団体をチェックする役割がある。目先の部数に目を奪われると、将来の読者を失うのではないか」などと訴え、読者の信頼を損ねる事態を憂慮した。参加者は十数人と少なかったが、活発な質疑応答があったという。

 服部教授は、「ジャーナリズムの危機だ。全国的に考えられない状況が進んでおり、問題意識を共有化することが大切だ。神奈川新聞の場合は、労組が動いているだけよしとすべきなのかもしれない」と話す。

●論説委やデスク会も会社側と完全対立

 この問題では、同労組のほか、編集局のデスク会や論説委員会も、池田氏の寄稿の掲載中止を求める意見を表明した。池田氏の寄稿が掲載される「意見」のページを担当する論説委員会は、寄稿に関与することを一切拒否している。また、紙面を編集する整理部員も整理作業にはタッチしていない。

 会社側は編集部門の現場と完全に対立した格好だ。組合執行部の度重なる申し入れや交渉の場でも、会社側は「経営担当役員と編集局長が協議した結果、編集局長が自ら掲載を決めた」と繰り返すだけで、寄稿掲載までの経緯などについて、明確な説明や回答は一切ないという。もちろん会社側は、今後の掲載を中止するとの姿勢は見せていない。

 神奈川新聞労働組合の熊谷和夫・執行委員長は、「寄稿が掲載された面は、神奈川新聞の論説機能の中心をなすページの一つだ。しかし、編集局内で十分な議論もないまま、編集局長の指示で連載が始まった」と指摘し、編集現場がないがしろにされたことを問題視する。

 「巨大宗教団体のトップで与党公明党と関係の深い池田氏の寄稿を、統一地方選や参院選の期間中に掲載することは、紙面の公正・中立や不偏不党の報道原則から逸脱するとの

疑いを、編集現場や組合は強く持ちました。原稿自体に問題があるというのではなく、報道の原則、モラル、手続きとして重大な問題がある。微妙な時期や人物については、編集局で十分な検討があってしかるべきだが、編集局員や組合員に納得のいく説明がなされていないことに、非常な危機感を持っている。読者の信頼と評価を傷つけることを懸念しています」

●池田氏の寄稿掲載「特別扱いではない」

 では、神奈川新聞の編集局長はどのように考えているのだろうか。

 加藤廉・編集局長に「池田氏の寄稿掲載についての経緯やご意見などをお聞きしたいのですが」と電話すると、加藤局長は「どこも何も悪いことはない。何が悪いのか全然分からないんだけど。いろんな多方面の方に意見を書いてもらうのは今までもやっていることだから、何も問題はないでしょう」と一方的にまくしたてた。いきなりこのような反応を示すのは、よほど後ろめたい気持ちがあるからとしか考えられない。

 結局、「編集局長としては取材に応じられない。会社として回答する」とのことで、質問内容を文書で提出し、回答も文書で受け取ることになった。読者広報センター長の名前による回答は次の通り(抜粋要約)。

 ──池田氏の寄稿が記載された「意見」のページの位置付けは。

 「このページでは広く各界、各層の方々に折に触れさまざまなテーマについて寄稿してもらっている」

 ──池田氏の寄稿掲載の経緯について。

 「紙面作りの経緯について外部に説明していない。筆者の選定などを含め、紙面製作の最終責任は編集局長が担っている」

 ──寄稿掲載に際し、新聞の買い取りや定期購読といったことの有無は。

 「買い取りや定期購読の契約を寄稿と引き換えに結んだことはない」

 ──池田氏の寄稿掲載の時だけいつもとはコーナー名称が異なり、しかも連載となっている。どうして特別扱いなのか。

 「これからもいろいろな方々のコラムなどを随時最適な形で掲載していく予定だ。池田氏だけを特別扱いしているわけではない」

 ──選挙期間中に池田氏の寄稿を掲載するのは、報道の公正・中立や信頼性を損なうという意見もあるが。

 「毎回の寄稿内容は厳重にチェックしており、そのようなことはないと考える」

 ──池田氏の寄稿掲載について、読者から質問や疑問の声は寄せられているか。読者に説明する予定は。

 「意見はこれまでに数件あった。懐疑的な声と肯定的な声の両方だった。紙面がすべてであり、紙面作成について読者に特段の説明責任があるとは考えていない」

●買い取りや定期購読、部数増とバーター?

 先に述べたように、池田氏は全国の新聞各紙に寄稿している。しかし、寄稿掲載が表面化するたびに、各社の現場記者や労働組合からは、「紙面が創価学会の宣伝に利用される恐れがある」「創価学会によるメディア支配ではないか」などと問題視する声が上がってきた。

 創価学会はインターネットのホームページで、「新聞各紙などの依頼を受けて、池田名誉会長が寄せたエッセーや提言の中から、代表的なものを掲載いたします」として、池田氏の寄稿を積極的にPRしている。

 創価学会の広報担当窓口である聖教新聞読者応答部は、「ほとんどの新聞に池田先生の文章が載っているのではないですか。新聞社から池田先生にぜひ書いていただけないかという要請があって、寄稿されている。もちろんどれも本人がすべて執筆されています。それぞれの県にふさわしい内容で、地元の文化やエピソードが散りばめられています」と誇らしげに説明する。

 池田氏の寄稿や創価学会の記事が編集現場で問題視されるのは、「なぜ池田氏なのか、なぜ創価学会なのか」という記事の意味付けや掲載の経緯が不明確だからだ。

 これまでにこの問題で、疑問の声を上げた労組のニュースや報告文書などを見ると、会社から現場や組合に十分な説明がなされず、まともな議論がないまま一方的に掲載が強行されているケースがほとんどだ。掲載経緯などを説明しないのは、編集現場にも読者に対しても、説明できないような理由があるからではないのか。そう受け取られても仕方あるまい。

 新聞各社が創価学会から多額の広告収入を得て、学会機関紙の「聖教新聞」などの印刷受注をしている(期待している)ことと、創価学会関連の記事を掲載することとの関係も不透明なままで、うやむやにされている。実際、聖教新聞や公明新聞の受託印刷は、新聞各社の経営にとって大きな収益源となっているのは周知の事実だろう。

 聖教新聞や公明新聞の印刷は、新聞社とその関連会社である印刷会社にとって、のどから手が出るほど受注したい「おいしい」仕事だ。それどころか、聖教新聞などの受託印刷を取れるかどうかは経営上の死活問題にまでなっており、全国紙からブロック紙、地方紙にいたるまで受注競争にしのぎを削っているのが実態となっている。

 全国紙では、毎日新聞の子会社の東日印刷が聖教新聞の大量印刷で知られるが、読売新聞や朝日新聞も全国各地の系列子会社などで聖教新聞の受託印刷を行っている。創価学会はなぜか自前の印刷所を作らず、500万部を超えるとされる聖教新聞のほとんどは、北海道から九州まで全国の新聞社とその関連会社で印刷されている。地方紙の中には、自社本紙の部数よりも聖教新聞の印刷部数の方が多い新聞社まで存在する。

 池田氏の対談本など創価学会関連の書籍発行も、確実に売れるので新聞社にとって大きな収益になっている。読売新聞社と同社系列の中央公論新社が、池田氏の関連書籍に力を入れているのは有名だ。

 また、必ずと言っていいほど指摘されるのが、池田氏の寄稿や創価学会の特集記事の掲載と引き換えに、学会側が掲載当日の新聞を大量に購入し、あるいは定期購読契約をしている問題だ。「大切な編集紙面を売り渡すことにならないのか」と批判されるゆえんでもある。

 神奈川新聞の社員によると、寄稿が掲載された時期に定期購読契約者が大幅に増えたのは事実だという。神奈川新聞の編集局長も、報道部会で局員の質問に対して、「池田氏の寄稿掲載によって部数が増えるだろうという期待は持っていた」と説明している。

●忸怩たる思い吐露「紙面の切り売りだ」

 こうした「不透明な関係」を懸念する声がくすぶり続けている背景には、販売部数の伸び悩みや広告収入の落ち込みなど、新聞業界全体が生き残りをかけて苦闘しているといった事情があるのは否定できない。

 埼玉新聞では、池田氏の寄稿掲載に対してデスクのほとんどが反対し、多数の編集局員から問題視する意見が出されたが、記者たちも労働組合も掲載を黙認せざるを得なかったという。激しい販売競争が繰り広げられ、苦戦を強いられている首都圏の地方紙の中で、埼玉新聞は発行部数や経営面でかなり厳しい状況に置かれているからだ。

 編集の独立と経営とのせめぎ合いの中で、「納得いかないけど仕方ない」と忸怩たる思いを吐露する編集幹部もいる。労組幹部らも「背に腹は代えられない」と苦悩する。

 池田氏の寄稿掲載当日の新聞は、4万部から5万部を買い取ってもらうという。そのために通常部数よりも多く印刷するので、池田氏の寄稿が掲載される日は、降版時間(紙面編集の最終締め切り)が45分から1時間も前倒しになる。当然のことながら、原稿の締め切りも編集作業の締め切りもそれだけ切り上げなくてはならない。

 「降版時間が1時間も早まったらニュースが入らない。新聞じゃなくなっちゃうよ」。編集局は不満の嵐だ。

 池田氏の原稿には、編集局員もデスクも一切タッチしない。見出しと本文原稿がフロッピーで編集局に届けられ、編集を担当する整理部員は決められたスペースに当てはめるだけだ。「広告版下の感覚」で紙面を組んでいるという。「これでは紙面の切り売りではないか」と自嘲する声も聞こえてくる。

 掲載を主導した販売部門の責任者は、「今の会社の状況を考えて、とりあえず新聞を手に取ってもらう必要があった。キーワードをこちらから示して、普遍的な内容を書いてほしいと提案した。編集権の最後の砦は守りたかった」と話す。

 埼玉新聞の宮下達也・編集局長(今年4月に就任)は、「報道機関として言論の自由は守っていかなければならないと考えている。厳しい経営状況の中で、販売がギリギリの企画を持ってきたのだろう。連載を始める時には、広告か記事か文化人の寄稿なのかとデスク会で相当議論になったが、前任の編集局長の説明を受けて、結論として仕方がないと了承した」と説明した。

●報道の役割は何?危機感のなさ深刻

 経営的に切羽詰まった状態の埼玉新聞の記者たちには、同情を禁じ得ないし、悲哀を感じる人も多いだろう。もちろんだからと言って、公正で独立を守るべき新聞報道の原則を放棄することの言い訳にはならないが、追い詰められれば選択の幅が少なくなることは理解できる。むしろそういう経営の「弱み」につけ込む形で、ジャーナリズムの根幹部分を土足で踏みにじることこそ問題だ。

 しかしそれよりもっと深刻なのは、ジャーナリズムの役割と責任について、問題意識や危機意識をほとんど持ち合わせていない編集幹部の存在である。特定の宗教団体トップの発言を、なんら躊躇することなく平然と紙面で特別扱いするのは、公正・中立である報道機関としては衝撃的な事態だ。すぐに影響は出てこないかもしれないが、読者の不信感はじわじわと広がっていくだろう。

 東奥日報労組は、池田氏の寄稿問題をまとめた検証記録(冊子)で、「新聞にとって最大の危機とは、言論機関として読者の信頼を失うことである」と述べている。

 経営陣や編集幹部に共通するのは、危機感と緊張感のなさだ。ジャーナリズムの独立性や公正・中立性において、池田氏の寄稿掲載がどれほどダメージとなるか、どれだけ信頼を損ねて取り返しのつかない事態を招くか。想像力のなさは致命的ですらある。

 残念ながら同じことが、現場の記者にも言える。ジャーナリズムの役割や責任を意識して仕事をしている記者は、果たしてどれくらいいるだろうか。池田氏の寄稿問題について神奈川新聞労組が開いたシンポジウムの参加者が、十数人しかいなかったという話を聞いて不安になった。もし自分自身の問題として真摯に受け止めていれば、是が非でも参加するだろう。

 ジャーナリズムの大切な役割は、権力監視と問題提起だ。今のこの時期に池田氏を紙面で取り上げるのなら、ジャーナリズムとしてのやり方があるはずだろう。教育基本法の見直しに反対していた池田氏の言動と、同法改正に賛成した与党公明党の関係を検証し、憲法改正について見解をただすといった記事こそ、掲載すべきではないのか。報道機関としての使命と責任が問われている。

初出掲載(月刊「創」2007年6月号)

=雑誌掲載時とは表記や表現など一部内容が異なります。


●写真説明(ヨコ):論説委員会が担当する「意見」のページに連載されている池田大作氏の寄稿(神奈川新聞)

●写真説明(ヨコ):「第3総合」面に連載されている池田大作氏の寄稿(埼玉新聞)

●写真説明(タテ):神奈川新聞本社ビル=横浜市中区大田町

●写真説明(タテ):埼玉新聞本社ビル=さいたま市浦和区岸町


 【取材メモ】このルポでは、「新聞ジャーナリズムの公正・中立の原則を大きく踏み外し、新聞社としての独立性が揺らぎかねない事態ではないか」との観点から、寄稿掲載の背景や問題点について検証した。「創価学会名誉会長の池田大作氏」だから問題なのではない。例えばこれを、「共産党委員長」「自民党総裁」「右翼団体顧問」などに置き換えてみれば、紙面でのこうした扱いがいかに常軌を逸しているかが容易に理解できるだろう。さらに深刻なのは、編集幹部や現場記者の危機感と緊張感のなさである。ジャーナリズムの役割や責任を意識して仕事をしている記者が、果たしてどれくらいいるだろうか。ルポではそんな指摘もした。(2007年5月6日付「身辺雑記」参照)

 

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