インタビュー/司法改革

公害病患者の闘いに学んだ

裁判で国の責任を明確に

薬害エイズ訴訟●川田龍平さん


【薬害エイズ事件】血友病患者が、エイズウイルス(HIV)に汚染された非加熱の輸入血液製剤を投与されたことによって感染した事件。エイズを発症して死亡した患者は500人以上になる。

 1989年には大阪と東京で、国と製薬会社5社の責任を問う民事訴訟が提訴された。95年3月に東京HIV訴訟が結審し、同年7月には大阪HIV訴訟が結審。同年10月には裁判所から和解勧告と、国と製薬会社の法的責任について厳しく言及する「和解勧告に当たっての所見」が出された。翌96年3月に東京地裁と大阪地裁で和解が成立した。

 民事訴訟の和解に前後して、東京地検と大阪地検は関係者の刑事責任を追及。これにより両地検は、安部英・帝京大学副学長(医師)、松村明仁・元厚生省薬務局生物製剤課長のほか、製薬会社のミドリ十字の経営陣を、業務上過失致死の罪で起訴した。97年3月から裁判がスタートしたが、安部医師と松村元課長は無罪を主張して全面的に争っている。ミドリ十字側は起訴事実を認めて謝罪した。

【川田龍平さん】1976年、東京都生まれ。生後6カ月で血友病と診断。輸入血液製剤を投与され、86年にHIV感染の告知を受ける。93年9月に東京HIV訴訟原告団に参加した。東京経済大学経済学部に在籍。大学を休学して、98年からドイツに留学中。著書に「龍平の現在(いま)」(三省堂)など。


●まだ生きられる…!●

 裁判は長い時間がかかるし、どうせ長く生きられないんだから、やっても無駄だと思っていました。民事訴訟が始まったころは、裁判にはほとんど関心ありませんでした。

 HIV訴訟が提訴されたのは1989年で、僕が原告団に加わったのはそれから3年後ですね。高校2年の時には裁判に参加しようと思っていましたが、実際に加わったのは高校3年の時です。国を相手にした裁判は勝てないと言われていましたけど、「それはおかしい、何としても勝ちたい」という気持ちになっていました。

 小学6年生からHIV発症予防の治療を始めたのですが、インターフェロンの治療を週2回続けていくことで体調を維持してやっていけるんじゃないか、そのうちに新しい薬も出てくるだろうし、これから先も生きられるんじゃないかと思いました。感染してから7年を生きているうちに、まだこれから先も生きられるんじゃないかと考えられるようになったのです。

●責任を認めさせたい●

 具体的に裁判に関心を持つようになったきっかけは、大学受験とか将来のことを考えるようになったからですね。これから自分はどう生きていくのかとか…。ちょうどそのころは親の体調も悪くて、自分自身の生活をどのようにやっていくかということを考えると、国や製薬会社に責任を認めさせた上で、補償を勝ち取りたいと思いました。

 それと、高校の社会科の授業で朝日訴訟とか四大公害裁判のことを勉強したのですが、裁判で勝利を勝ち取って社会を変えていくということの大切さを知りました。これは裁判に参加してみんなと一緒にやっていく中で知ったのですが、朝日訴訟の弁護士さんがHIV訴訟の弁護団の団長でした。

 裁判所には、病院に行くとうそをついて学校を休んで傍聴しに行きました。若い人はほとんどいません。裁判所で会うのは年配の人ばかりでした。母親は弁護士と知り合いだったこともあって慣れていたのでしょうが、こんなにたくさんの弁護士が裁判にかかわっているんだなあと僕は驚きました。

●裁判を広くアピール●

 薬害エイズの被害者として実名公表したのは19歳の時です。公表したのは裁判に勝って責任を認めさせるため、裁判をみんなにアピールするためです。

 裁判を通じて弁護士と知り合い、病気のことを隠さずに付き合うようになってから、名前を出せるようになりました。周りの人たちが病気や感染のことを知っても普通に接してくれる。そんな環境ができてきたことで、変わっていったんですね。

 それまでHIV感染のことも血友病のことも、ずっと隠してきました。小学6年生の時には、そのことでクラスでいじめにも遭いました。

 今もそうですが、エイズへの差別はとても強い。しかし被害の進行速度はとても速いですから、被害者救済のために「とにかく訴訟を起こす」ということで、原告団が暫定的に匿名裁判をしたのは意味があるでしょう。でも、匿名の壁を打ち破らなければ差別はなくならないのではないでしょうか。被害者が隠れているのはおかしいと思います。

 被害者が直接訴えたり主張したりすることは、問題の解決に重要です。そのことを通して、被害者自身が尊厳を取り戻していくことにもなるからです。それに、病気や感染を隠したままで治療を受けるのは大変なのです。

●予想せぬほどの反響●

 実名を公表すると決めた時は、周囲には反対する意見もありました。「世間はそんなにいい人ばかりじゃない」とも言われました。でも、何としても僕は裁判に勝ちたかったんです。そうして社会を変えたいと思いましたから、実名を公表して訴えていく必要があったのです。

 実名公表は、予想以上に大きな反響がありました。多い時は1日に3件も取材が重なって、週末には母親と手分けして全国へ講演に出かける。取材依頼はテレビでも新聞でも雑誌でも、ほとんど何でも受ける。そんな毎日が1年も続きました。月曜日と金曜日には必修の語学講義があったのですが、大学にはほとんど行けなかったですね。疲労で肝機能が弱まったりして3回も入院しました。

 もちろん、エイズの発症を抑える薬を飲みながらでした。エイズの薬は劇薬で、副作用もとても強いんです。腎臓や足の方にも一時は影響が出ました。

●世論に裁判所も反応●

 自分と同年代の原告団の友達が亡くなっていく中で、自分も死ぬんじゃないかと不安に感じながら、「責任の所在」をはっきりさせなければと思いました。責任や原因があいまいなまま終わってしまい、薬害が繰り返されるようなら意味がない、本当の解決にはならないですよね。

 世論の力はすごく大きかったです。実名を公表して、大勢の学生や若者たちが動いたからこそ、原告団も一気に増えていったし、厚生省前での座り込みに被害者も加わるようになりました。そうでなかったら、一般の人たちには「薬害エイズ」っていう言葉も知られずに、被害者はひっそりと死んでいったでしょうね。こんなにひどいことがあるんだということも分かってもらえずに、終わっていったかもしれない。

 裁判に対する世論の影響は大きいと思いますね。世論の動きに裁判所はとっても関心を持っていたでしょう。

 それは、東京地裁が和解案と一緒に出した「和解勧告に当たっての所見」にも現れています。国を相手にした裁判をたたかうのは難しいと言われながら、国と製薬会社の法的責任について「所見」は厳しく言及したのですから。

 NHKスペシャル「埋もれたエイズ報告」が放送されたことによる影響も大きいと思います。丹念に事件の真相や加害者側に迫っていくドキュメンタリー番組でした。マスコミの力が世の中を動かすんだと思いました。

●謝罪のない和解作成●

 和解交渉が始まってから、原告代表団の中の一人として週に1回は裁判所に行くようになったのですが、この和解交渉というのが変わってるんですよね。相手側と直接交渉しなくて、原告側は裁判官と話して、被告側も裁判官と話すんです。

 そして、和解の中身が具体的に決められていく途中のところで、弁護士と裁判官だけによる専門家の「ワーキングチーム」というのができたのですが、それからおかしくなっていったような気がします。

 当事者である原告団を一人も入れないで作り上げた文面には、「謝罪」という言葉が入らなかったんです。謝罪と責任の明確化は、被害者が一番求めていたところだったんですよ。真相が明らかになっていないのです。

●検察は国民の立場に●

 刑事裁判を聞いていると、今でも怒りがわいてきます。

 松村明仁・元厚生省薬務局生物製剤課長や安部英・帝京大学副学長の刑事責任については、いつからいつまでの間に患者が感染したかが分かっているから裁判になったけど、郡司篤晃・元生物製剤課長や政治家たちの責任は証拠がないから、なかなか刑事裁判としては問えません。

 それに、刑事裁判では加害者側が、医師のプライバシー保護を名目にして裁判の非公開を要望したり、重要な情報を隠蔽(いんぺい)したりということもしました。プライバシーの保護はもちろん大事ですが、これは大問題だと思います。

 裁判は書類でやり取りしていて、傍聴していても話が聞こえにくかったりしてよく分からないですね。民事の時は裁判が終わると報告集会が毎回あって、そこで弁護士が「きょうはこういうことでした」と解説してくれるので、「ああ、そういうことだったのか」と分かる。刑事裁判でも報告集会などを開いたりして、もっと分かりやすくしてほしい。検察はもっと国民の立場に立っていいと思いますが。

●若い世代を育てたい●

 一昨年9月からドイツに留学しています。留学先をドイツに決めたのは、同じ同盟国として第二次世界大戦を戦ってきて、戦後責任というものを考えた時に、日本との違いに興味があったからです。薬害エイズの責任がずっとあいまいにされてきた問題とも、もちろん関係があります。今は語学と経済を勉強しています。できればドイツの大学を卒業したいですね。

 社会を変えていくためには、若い人たちが変わっていけば変えられると思います。教育の与える影響は大きいですよね。社会は教育で成り立っています。ですから、親や地域も含めた教育で変えていく必要があります。若い人たちを育てたいんです。高校の社会科の先生とか、そうでなくても教育に関する職業に就きたい。

 「仕方がない」ってあきらめるんじゃなくて、自分の頭で考えて判断できる人、おかしいことはおかしいと言える人、周りがそうだからと流されない人、そんな人になってほしいですね。上から変えていくのではなくて、一人一人が身近なところで変わっていかなければ、と思います。

初出掲載(「月刊司法改革」2000年2月号)


●写真説明(ヨコ):「教育を通して若い人たちと一緒に社会を変えていきたい」と抱負を語る川田龍平さん=東京都小平市の自宅で


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