●エッセイ

原子力の「平和」利用?

誰のための原発なのか

 

 原子力の「平和利用」について考えてみたい。原子力発電が100パーセントの(技術的)安全性確保を第一とするのは、当然である。これを前提とした上で次に問題なのが、原発の「管理・運営体制」ということになる。今、仮に右の2点に問題がない(あくまでも仮定の話である)として、それではこれで原発建設を推進して構わないだろうか。否。「核廃棄物の処理」という問題が残っている。次から次へと出てくる核廃棄物をどう処理するというのか。

 映画「チャイナ・シンドローム」(1979年・米)は、原子力発電所のずさんな、企業本位の(これが本質的問題だ)管理・運営体制を取り上げている。何も知らない一般住民の生命を脅かす重大な事故(チャイナ・シンドローム)を招く危険がありながら、生産性向上を至上命題とする電力会社は、出力アップを平然と行う。彼らは、設備に致命的欠陥があることに気付いた職員や、その証拠を公聴会に運ぼうとする人間を、平然と殺そうとする。発電所で働く一般職員は、会社上層部(資本家)に完全に管理されてしまっていて、「現状」に何の疑問も抱かない。疑いを持つ方が、狂っていて「おかしい」のだ。

 問題は単に技術的ミスなどにあるのでは、もちろんない。それに単なる一企業(電力会社)の問題でも、ない。誰のための、何のための原発なのか、つまり問題は現体制(政治的意味を含めて。むしろ、その意味の方が強いかもしれない)にある。「企業=資本家」の利潤追求が第一という資本の論理、そこからは当然、電力会社のための原発、安い電力を大量に必要とする大企業のための原発、という発想が出てくる。

 けっして「市民のための原発」ではない。そうした発想に従った原発の「管理・運営体制」がいかなるものであるかは、説明するまでもない。本質的部分で、「企業=資本家」と一般市民のどちらの立場に立っているか、おのずと分かろうというものだ。

 「レントゲンで浴びる放射線・自然界から受ける放射線よりも、はるかに少ない量しか原発は放出しない」というのは、原発推進派の人たちがよく口にするセリフだ。もちろん原発の「安全性」は重要な問題だが、大切なのは誰のための、何のための原発なのか、その管理・運営体制の「姿勢」はどうなっているのか、にある。問題の本質をはぐらかされてしまってはならない。

 例えば、「核廃棄物の処理」だ。日本政府は現在、日本から遠く離れた南太平洋にこれらを棄てようとしている(注1)。南太平洋の島に住む人々からの抗議は、無視した形で。これは何を意味しているのか。核廃棄物の処理にはカネがかかるし、それこそ安全性確保に細心の注意を払う必要がある。なぜ、海に棄てるのか。なぜ、遠くまで棄てに行くのか。

 原水爆反対、大いに結構。だが、「平和」利用なら単純に賛成していいのか。反核と反原発の意識は、別個のものなのだろうか。

初出掲載(「新聞と教育」No.173/1983年2月号)

=雑誌掲載時とは表記や表現など一部内容が異なります。

 

【注1】南太平洋諸国からの抗議や国際世論の反発が大きく、最終的に日本政府は海洋投棄を断念した。

【関連記事】→ お薦め映画「チャイナ・シンドローム」


【メモ】「誰のための原発なのか」は、大学生の時に「南風駿」(みなみかぜしゅん)のペンネームで、「新聞と教育」に連載していたコラムの記事です。文章は稚拙でずいぶんと気負ってるんじゃないかと、読み返しながら恥ずかしくなってしまいますが、内容そのものは今でも古さを感じさせないのではないかと思います。


Copyright(C)OOKA Minami(IKEZOE Noriaki)
フロントページへ戻る

 ご意見・ご感想は norin@tky2.3web.ne.jp へどうぞ

[風速計][記者][ルポ][ひと][司法改革][背景][書くべきこと][論説]

[NEW][サード][リンク]