サモワール
![]() |
ロシアのちょっとした町ならば、種々雑多な家庭用品を扱っている 「トゥィシャチャ・メラチェイ」という看板を掲げた店が必ずある。「千の 小間物」という意味だが、大型の電化製品なども扱っている。「千の 小間物」というネーミングは、デパートを「百貨店」と名付けた日本語 の感覚とどこか通じる。この店の中を歩いていると、ロシア人の生活 ぶりが垣間見える。食器、陶磁器、金物、工具、カーテン、床材、 塗料、圧力釜、洗濯機等、何でもござれである。電機部品もたくさん 見かけるのは、故障した電化製品を自分たちで直してしまうからで あろう。 よく一緒にナホトカへ出張した年輩のHさんが、この町の中心部に ある「千の小間物」屋へ出掛け、以前から欲しがっていたサモワール を思い切って購入し、大きな箱を両手で大事そうに抱えて、意気揚々 とホテルへ戻ってきた。 サモワールという言葉は、「サモ」と「ワール」から成り、それぞれ 「自分で」と「沸かす」という意味が合体している。この言葉は広辞苑 にも載っている。「ロシア特有の湯沸し器。中央の上下に通ずる管の 中で木炭を焚いて周囲の湯を沸かす装置。今は多く電熱を用いる。」 昔使われた木炭式のサモワールは、中央の上下に通ずる管に空気 が通るようになっていて、水を入れておく周囲の空間とは完全に仕切 られた構造になっていた。中央の管の中に木炭を入れて周囲のお湯 を沸かすという発想は、水中で火を焚くようなものだから、熱効率が とても良くなったはずである。凍てつくロシアの冬に、僅かな燃料でも お湯が沸かせるサモワールは、当時のハイテク商品と言える。 木炭でお湯を沸かす方式のサモワールは、今ではほとんど売られ ていないから、Hさんが買ったサモワールは、もちろん電気式の方で あった。熱気球を彷彿とさせる銀色に輝くステンレス製タンクを、四本 脚がしっかりと支えている。二リットルは楽に入るであろう。タンクの 上にある蓋を開けて水を入れ、お湯が沸くと、タンクの下の方に付い ている可愛らしい蛇口からお湯を出す仕組みになっている。水の 注入口の左右には黒い樹脂製の取っ手が付いている。サモワール の姿は、火星人のようでもあり、アポロ月着陸船のようでもある。 ホテルの部屋でHさんは、真新しいサモワールにいそいそと水を 入れ、ベッド横のテーブルに恭しく載せると、プラグを壁のコンセント にそっと差し込んだ。ロシアの家庭用電源は二百二十ボルトである から、危険ではあるが効率は頗る良い。程なくサモワールはごーごー という低い唸り声を上げ始めた。沸くまでにそう時間はかからない はずである。 「日本は百ボルトだから、持って帰っても、使えないんじゃないです か?」 と私はHさんに尋ねた。 「それはこれから考えるよ。」 とHさんは少しも意に介しない。目の前の優美な曲線にすっかり 心を奪われたHさんは、お湯が沸く過程を楽しんでいた。 Hさんと私が静かに見守る部屋の中で、サモワールの低い唸り声 が響く。その時、Hさんが急に小さな声を発した。 「おや、おかしいなあ。」 サモワールの下腹部に付いている可愛らしい蛇口から水滴が少し ずつ顔を出し、膨らんで丸くなり、自分の重みにこらえきれず、ニスの 塗られたサイドテーブルの上にぽとりとこぼれた。蛇口からは次の 水滴が顔を出し、しばらくすると、これも落下した。また一滴、そして、 もう一滴。サモワールの中からごぼごぼと沸騰する音が聞こえてきた 頃には、蛇口の真下に小さな水たまりができ上がっていた。Hさんが プラグを引き抜くと、沸騰はすぐに止み、部屋の中はしんと静まり返っ た。しかし、水漏れは少しずつだが止む気配はなかった。サモワール の試運転を祝して優雅に紅茶でも入れるはずだったが、それどころで はなくなった。 Hさんはサモワールを梱包してあった箱の中を覗き込み、折り畳ん である小さな説明書を取り出して広げると、老眼鏡を掛けて読み始め た。細長い説明書には細かいロシア文字がぎっしりと印刷してあっ た。 若い日のHさんは、水産大で漁労学を専門に学び、その上、日本の 水産業の行く末を見越していたのか、在学中から神田にある専門 学校でロシア語を学び始めた。奥さんともその専門学校で知り合った というから、勉強中の漁労学をそつなく応用したのであろうか。ロシア 語についても、就職後、漁師になって極東の海を荒らし回っている内 に、乗り込んでくるロシア人監視員との熱い駆け引きの中で、めき めきと実力を付けていった。 「えーと、ウチェーチカ、ウチェーチカ。」 とHさんは独り言を言いつつ、使い込んで黒ずんだ辞書を鞄から 取り出し、懐からは老眼鏡を探り出して掛けると、見知らぬ単語を 調べ、それが「水漏れ」という意味であることを突き止めた。説明書に は、「蛇口から僅かな水漏れが生じる場合には、植物油等を蛇口の 回転部分に注してみること」とあった。早速Hさんは階下の食堂へ 行き、そこで働いている知り合いのおばあさんから植物油をほんの 少々小皿に分けてもらって戻ってきた。そして、まだ熱いサモワール の黒い樹脂製の二つの取っ手を用心して掴むと、洗面所へ行き、 中のお湯をすっかり開け、自分の指先に植物油を付けて、蛇口の 回転部分に染み込むように丁寧に塗り、蛇口を何度か開閉し、念の ためもう一度注油を繰り返し、再びサモワールに水を注ぎ込んだ。 すると、水滴のできる間隔が先程よりもいくらかは延びたようだが、 完全に遮断されるまでには至らなかった。 Hさんは説明書を読み返した。 「何々、蛇口から一分間に数滴の水漏れが認められても、それは 本商品を欠陥品とみなす根拠とはなり得ない、だって。」Hさんは更に その先を読み進んだ。「蛇口から一分間当たり十滴以上の水漏れが 認められる場合には、販売店にて本商品の取り替えに応じる、 とさ。」 そこで、Hさんは腕時計の秒針を見ながら水滴を数え始めた。一分 間で十五滴が落ちた。その後、何度数えても十滴を下回ることは なかった。これならば取り替えてもらえそうである。 翌日、Hさんはサモワールを箱に梱包し直すと、「千の小間物」屋へ 出掛けていった。売ってくれた店員に事情を説明し、実際に水を入れ て一緒に蛇口の具合を確かめた。この店員はロシアにしては珍しい ほど愛想が良く、早速、別のサモワールに交換するための書類 手続きに取りかかってくれたという。ところが、ここでもう一つ問題が 持ち上がった。頑固そうな別の上役が現れて、外国人では商品の 交換に応じられないと言い出したのだ。返品にはロシア国内の居住 者である証明が必要となるからだという。もし、ここで外国人と分かっ て売ったのはどちらの方かと反論すれば、愛想の良い店員に責任の 矛先が向いてしまう。Hさんはそれ以上食い下がることを諦め、水 漏れのするサモワールをまた箱に戻し、肩を落として帰ってきた。 次の日の午後、私たちには仕事があった。水産埠頭の冷蔵庫へ 行き、ロシア漁船が獲って冷凍した蟹を検品した。この時、検品に 立ち会っていたロシア側公団の若いオレークに、世間話のつもりで Hさんのサモワールにまつわる顛末を話したところ、面倒見の良い オレークは仕事帰りに自分の車で私たちを例の店へ連れて行き、 店長に直接掛け合ってくれた。初めの内は、店長もすげない応対を していたが、オレークの粘り強い交渉の前に、遂には折れ、オレーク 自身が問題のサモワールを買ったことにして新品と交換することに 渋々承知したのだった。 今度のサモワールは完璧であった。一滴たりとも蛇口から漏れる ことはなく、Hさんはホテルの自室で美味しい紅茶を何杯も楽しんだ。 Hさんのことだから、用もないのに蛇口の開閉を何度も繰り返して 悦に入ったことは想像に難くない。 Hさんは二代目のサモワールを日本に持ち帰ると、自宅台所の電気 工事を敢行し、二百ボルトの専用コンセントをわざわざ設けてもらい、 毎朝、サモワールでお湯を沸かしては、お茶を楽しんでいるという。 ロシアは解らない国である。ロシア製宇宙ステーションのニュースを 耳にする度に、私はこのサモワールのことを想い出す。蛇口からの 水漏れすら出荷前にきちんと検査できないで、よくもまあ真空の宇宙 へ平気で人間を送り込めるものである。宇宙船の窓から空気が漏れ 出ていても、船内に積み込んである技術マニュアルには、こんな但し 書きがあるに違いない。 「一分間当たり××立方センチの空気漏れは、本商品を欠陥品と みなす根拠とはなり得ない。」 (2000年5月) |