「悲愴の謎」

チャイコフスキーの6番目のシンフォニーに「悲愴」という名称がついたのは、やはり4楽章の与える印象からでしょう。この4楽章の冒頭に私にとってのちょっとした「謎」があります。ご存じない方は(あまりいないでしょうが)取り敢えず冒頭の4小節の弦楽パートを聴いてみて下さい。

弦4部
[弦楽4部]

この4小節の弦パートは譜面では次のようになっています。(譜1)

ある程度楽譜の読める方(勿論、初めてこの曲の譜面を見る方)は「おやっ」と思うかもしれません。普通は次の譜面のようなイメージで聞こえるのではないでしょうか。(譜2)

ごらんのとおり、この譜面1では、1stと2nd ヴァイオリン、ヴィオラとチェロが最初の譜面1の2つのパートの音符を1音づつ交互に演奏しているのです。ここではメロディと聞こえる旋律線を演奏しているパートは存在しないのです。このフレーズはこの後も何回か出現しますが、最初の2回は譜1で後は譜2のパターンで演奏されます。

では、なぜチャイコフスキーは最初の2回だけこのようにしたのでしょう。チャイコフスキーがどうやって作曲したかはしりませんが、普通に考えるに譜2の方が違和感はない。それに最初の2回だけをこのように演奏させたのにはどのような意味があるのか。それを考える為に、譜1と譜2でどう聞こえ方が違うか考えて見ましょう。

まづ、ヴァイオリンはともかくヴィオラとチェロが逆転することでハーモニーの色が変わるでしょう。しかし、それなら1音づつ交互に演奏する必要はないし、少なくともヴァイオリンの2パートに関しては音色的な変化は有りえないので説明がつかない。

次に旋律線を弾くパートが移動することによるステレオ効果とでもいうべきものを狙ったとも考えられなくもありません。正確なことはいえませんが、旧ソビエト、ロシアでは左から1stヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、2ndヴァイオリンという並び方が一般的だった(昨年聴いたサンクト・ペテルブルグフィルもそうだった。)ようで、この並びはそういう効果が活かされ易い並び方だとされています。しかし、これはかけ合いや、主旋律とオブリガートならともかく、1音づつ旋律線が交互に演奏されるこの場合はステレオ的な効果という点ではどんなもんでしょう?それに、実際の演奏会場では各パートの音は溶け合ってしまいCDほどはっきり定位するものではなく、前述のように掛け合いや主旋律とオブリガートを2つのヴァイオリンパートでやりとりでもしないとステレオ的効果は確認し難い。この場合、CDでもちょっと聞き譜2のように聞こえるのだから、実際のホールでは指揮者はともかく客席ではほとんど効果がないのではないでしょうか。

取り敢えずこれ以上は、楽典的な知識の無い私にはちょっと考えつきません。そんな私の中での今の結論はこうです。チャイコフスキーはここでは直接的な効果を狙ったのではなく、このような譜面を演奏する奏者たちによる間接的な効果を狙ったのではないか。どういうことか説明する前にちょっと冒頭の4小節を1stVnとヴィオラ、2ndVnとチェロに分けて聴いてみて下さい。

1stVn&Viola

2ndVn&Vc

[1stVn & Viola]

[2ndVn & Vc]

どうですか。なんとも訳のわからないパッセージではありませんか。オーケストラの奏者はどう感じながらこれを弾くのでしょう。勿論弾きながらパズルのように自分の出している音が音楽にはまっていくのですが、それはやはり譜2のようにメロディラインを弾くのとは異なるものでしょう。きっと奏者たちは譜2の譜面を演奏するよりは、音のパズルにはまっていくのを確認する為に、より理性的でなければならないはずです。結局ここではチャイコフスキーは弦楽器奏者に4楽章の最初から情緒たっぷりに弾いて欲しくなかったのではないかというのが私の現在の結論です。

さて、実際の演奏ではどうでしょう。本当は冒頭のパッセージをを2種類の弾き方で聴き比べなければ結論は出せないのでしょうが、残念ながら実際にそんな実験をできる立場にもないし、MIDIでは感じることはできません。

私が普段この曲を聴くのはバーンスタイン(新録)あるいはメンゲルベルクの演奏ですが、正直いって4楽章の最初の2回が感情的に抑制されているようには全然聞こえません。どちらも冒頭から思い入れたっぷりに聞こえます。まぁそういう性格の指揮者の演奏ですから、こういうことを聴くには不向きな演奏かもしれませんが。

みなさんはどのように考えますか? ご意見をお聞かせください。

 

 


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