つぶやき of New Site 2

生演奏以外は感動しないか?

 ちまたではDTM(Desk top music )電子音楽が主流になって来ているが、私の知人でこれらの電子音楽には全く感動しない、と言い切る人がいます。はたしてそうでしょうか?私は音楽を聴く時人間の営みにも感動しますが、曲の構成・和音進行・メロディーの流れにも感動します。オルゴールみたいに人間の手が加わっていない演奏にもこれらの所で感動するのです。

調性音楽の終焉

 1000年近く続いた調性音楽が近い将来いよいよ終わりを告げるでしょう。専門家の間では200年も前から調性音楽から脱却する試みが行われていますが、一般の庶民迄には遠く、受けいられませんでした。
 一番人口の多いピラミッドの底辺に位置する(低級という事ではありません)音楽ファンの調性音楽離れが起きています。そして新しいスタイルの音楽を模索・定着されようとしています。これらの現象により、クラッシック音楽が忘れされるのか、遠い昔の音楽として輝きを残し続けられるのか?現在魑魅魍魎とした時代の真っ最中です。

不自然の自然

 私は演奏を評価する時、それが自然か不自然か、という所に注目します。どんなに立派な演奏でもそれが不自然に感じたら、私にとって魅力は感じません。私の言う「自然・不自然」とは、演奏者が音楽の本質を理解し、咀嚼しての身から出ている表現なのか?思いつきの演技・物まねなのかはすぐバレます。丁度役者の演技に似ています。年若者には大人の演技は絶対できません。では、大人の音楽表現とは一体なんでしょう?それは「ゆらぎ」ではないか?と考えています。

 「ゆらぎ」とは、言い換えれば「微妙な狂い・許容・ボケ・・」のように、一定の範囲を持った「不正確」又は「遊び」みたいなもの、と考えます。楽譜は時間的推移と建築的な立体構成を要素として持っています。「時間的推移」は心臓の鼓動と捉え、興奮すれば速くなるし安心すればゆっくりになる。(一定ではないのです)「建築的な立体構成」は職人の手作りの家、として捉えたらどうでしょう?勿論しっかりとした設計図が必要ですが、機械で作る家よりも、職人が腕で作ったものの方が人には美しく見えるでしょうし人間が手作りで作ったものは味があります。機械で作ったものは性格で狂いが無く、見ようによっては美しく見えるでかもしれませんが、味がありません。人間の手作りは機械的に見たら微妙に狂っているかもしれませんが味があります。

 ヨーロッパの教会などは機械で作りません、全て手作りです。何と美しいのでしょう。ギターもオートメーションで作られたものより手工ギターの方が気品があります。もちろん音も違います。音楽は人間の血肉が通った生き物なのではないかと思うのです。

 昔から、軽音楽とかBGM(バック・グランド・ミュージック)と呼ばれている音楽?があります。軽音楽とは耳に心地よい音で、心に入って来てはいけない軽い音楽です。BGMと同様に主役は音楽そのものではありません。しかしこれはこれで需要がある訳です。ギターの演奏でしばしばこういう音楽を聴かされる事がありますが、残念なことです。

モンセラートの朱(あか)い本

 スペインのバルセロナから1時間ほど北西に行った所にモンセラートという鋸山があります。ここは聖なる山で中腹に修道院があり「黒いマリア像」を祭ってあります。またガウディーの聖家族協会のモチーフになったとされています。私の故郷にも「妙義山」という山があり、よく似ています。
 古典派ギター作曲家・ギターリストのF,ソルは若い頃ここで音楽の勉強をした、と伝えられています。毎週月曜日にここで世界最古といわれている少年合唱隊がミサを歌います。私もスペインへ留学した時聞いた事がありますが、それはそれは素晴らしいコーラスでした。
 「モンセラートの朱い本」は神様に捧げる宗教曲で、発見された時赤い表紙だった事からこの名前がついたとされています。ルネッサンス期以前の音楽は神様に捧げる曲が主体で、特色は濁りの無い和音で構成されていることです。具体的にいうと、濁りの無い<ユニゾン><オクターブ>・そして<5°音程>で構成されているのです。時代が変遷するに従い、和音も濁りを求めるようになり、リズムも割り切れないようなものを求めるようになりました。
 しかしこの濁りの無い音群は透明で、純粋な心を表すのに適しています。まさに神様に捧げるのに適しているといえます。そして大聖堂の天井高く音が立ちのぼるのです。何故、長和音・短和音が不完全協和音、と位置ずけられているのかが解ります。
 音楽を勉強していてこれらの事は理論上では知っていましたが、実際に共感したのは恥ずかしながら初めてでとても感動しました。グレゴリアン聖歌の素晴らしさを改めて実感しました。

知性と感性と

 私の知る限りですが・・・音楽を演奏(聴く)する時人は大きく分けて、知性が優先する人と感性が優先する人に大きく分かれるみたいです。知性は、その曲の構成・様式等の理論形成を重要視し、感性は曲をその人の感じるままに弾く(聴く)、のですが、双方とも長所・短所があります。前者はその要素から頭で音楽をする(聴く)傾向にあり、その演奏は感性派の人が聴くと余り面白くありません(訴えかけてこない)。後者はハートで音楽をする様ですが作曲者の意向や時代様式を無視しているように聞こえます。知性派の人が聴くと説得力を感じません。残念なのは、どちらかに偏っている事です。

 「知性派」の私の知っている人で「演奏」は「料理を作る行為と似ている、どういう食材をどう調理して、どう客に提供するか」が大事、と言う人がいますが、「感性派」の私はそうは思いません。「演奏」は料理を食べて「う〜ん旨い」や「これは不味い」を表現する行為に似ていると思う訳です。上手な役者とヘタな役者の違いの大きな所は演技が「自然」に見えるか?では無いでしょうか。演奏も知性を踏まえ感性に消化していないととても不自然に聞こえます。知性と感性のバランスがとても重要だ!と考えます。

Objection

 You Tubeを見ていると「良い」「良くない」の意見を投稿するスイッチみたいなのがあります。

私には生涯ずっと聞き続けていたいと思う、聴いていると体が震えるような、曲と演奏者が少なからずいます。それらをYou Tubeで見聴きすると必ず「良くない」という意見が数%あるのです。

 音楽には多面性があり、全然違う面を聴くことが出来るから、私が素晴らしいと思っても、違う面を聞いている人には「良くない」と感じる人が居る事は理解出来ます。だから、ある曲・演奏に関して人の意見でそれらを判断する事はしない様にしているし、私と反対意見を言う人が居ても意見として「ふ〜ん」と聞き流せるのです。自分が聴いて判断し心に閉まっておく。そういう意味で私の人生の中で「素晴らしい曲・演奏者」が何人も居る事は幸せです。

名曲ラグリマ

 F.タルレガの名曲の一つ「ラグリマ(涙)」ですが、若い頃曲調と題名が一致せずずっと数十年間モヤモヤしていました。ところがある日著名なギタリストのHPを見ていたら、彼もこの事に疑問を持っていたらしく、スペインへ行って街の人にこの曲を聴かせ、「この曲は「涙」という曲なんだけれど、どういう涙だと思いますか?」と聞いて回ったそうです。驚いた事にほとんどの人が即答で、「聖母マリアの涙でしょう?」と答えたそうです。この話を読んで私は目から鱗が落ちる思いでした。思えば無宗教に近い日本人にはない音楽感性でしょうか?

 日本人の私は「涙」というキーワードで思いつくのは色々な「悲しみ」でしかありません。しかし、この曲の出だしは「長調メジャー」なのです。後半が「短調マイナー」なのですが、そんなに悲しそうではありません。それでは長調の前半が「うれしい涙」で短調の後半が「悲しい涙」なんだろう、と釈然としないままこの曲を弾いていました。

 「崇高な涙・慈しみの涙」といえば、無宗教の私でも理解出来るような気がします。考えてみればクラッシックの曲は宗教とは切っても切れない関係にある事は事実です。

老いと戦う!

 私はギターのコンサートによく出かけます、それはどんなコンサートでもとても勉強になるからです。ダメな演奏(失礼)を聞くと、何がダメなのかを分析し自分の演奏に照らし合わせ、注意しますし、いい演奏はすぐ取り入れようと努力します。しかし、若い人のパワーだけは真似出来ません。人間は老いるからです。 

 年を重ねると、若いパワフルな演奏は爽快感みたいなものがありますが、聴いていて疲れます。音楽の良い所は、年相応の解釈・演奏がありますから、それを確立させれば良いのですが、中々難しい!野球で言うと、豪速球投手が変化球投手に代わっていく過程に似ています。しかしギターという楽器は「老い」を中々許してくれません。ある程度の運動能力を要求されます。それを維持するのがとても大変なのです。若い頃獲得した演奏力がそのまま保持出来ないのです。特に右指のスケール・アルペジオ等の指の使い方など、若いときはパワーに任せて動かしてきましたが、年を重ねると通用しません。指の動きを厳しく見つめ、最小限の無理のない力で、最大限のパワーを出す。これらは大変な作業で真っ暗な闇夜に一筋の光を見つけるような作業です。

 一流のギタリストの演奏を聴きに行くと、それらを解決している人達が少なからず居ます。見て参考にしますが、解らない場合実際に会って質問します。ただ、いきなり会ってくれませんから、打ち上げなどに参加し、なにげなく聞き出します。飲み代にお金がかかりますが、月謝と考えるようにしています。

乾いた音

 音が美しいと感じる耳(脳)はどうも民族によって大部違うらしい。日本人は「湿った(潤いのある)」音が一般的に好みだが、ヨーロッパ人は「乾いた」音が好みらしい。・・・とここまでは既に解っていた事でしたが、その「乾いた音」が最近好きになって来たのです。抜ける空のような乾いた「カーン」という音。和音はこうでありたい、と最近思うようになってきました。この音感をベースに曲が作られて来たのだ、というのが実感です。

 ギター界では若者がヨーロッパに勉強に行きますが、理論と同時にこの音感覚を身につけて欲しいと、願うことしきりです。問題はリズム感なのですが、これは民族的にとても悲惨な状況です。

 年配の人で、今の若い世代のギタリストの<音>をとやかく言う人がいますが、 それぞれ育った年代(音楽環境)が違うので、求める音質も違ってあたりまえです。それよりも今の若いギタリストの音はけっこう<乾いた音>がします。表現もあっさりしていて(いい意味で)ヨーロッパの音楽に適しているのではないでしょうか?

楽器の性能と音楽創り

 新しいギターを入手しました。内部構造が「レンズ共鳴システム」といって、高音から低音までとてもバランスよく鳴ります。私の長年使用している楽器(M.ヴェラスケス1964年)は、選びに選んで手に入れたもので、おそらくギターの名器の中でもトップクラスではないかと思いますが、唯一不満な点が音の「バランス」でした。これは全てのギターに通じることですが・・・

 ギター音楽は、その裾野を広げずギター固有の個性的で狭い魅力的な部分を追求した方が良い、と自分自身結論は出ていたのですが、古典様式以前のレパートリーを弾く時にどうしても満足出来ません。新しいギターはこの欲求に答えてくれそうで満足していました。
 ところが問題が発生したのです。それは、いままでアンバランスだった楽器を弾き続けて来た為に、私自身の耳もアンバランスになっていた訳で、そのアンバランスの耳でこのギターを弾くと全然良い「鳴り」がしないのです。要するに、アンバランスの耳を持って弾くと、本来よいバランスの楽器が、アンバランスに聞こえてしまう、というへんてこりんなことになってしまいます。しかし、音楽は微妙なアンバランスのうえに成り立っているのものなのですが・・・。

ギターの価値

 先日友人のコンサートを聴きにに行ってきました。ソロコンサートではなく、ギターを含むバイオリン・ビオラ・チェロ・コントラバス・ピアノのアンサンブルでした。会は大成功、演奏も充分満足出来るもので、演奏者の質の高さを示してくれました。

 しかしギター弾きの私は、会が終わってから寂寥感といおうか一抹の寂しさを感じざるを得ませんでした。ギターという楽器が他の楽器に負けてしまうのです。演奏者のせいではありませんあくまでギターが、です。音量の小ささだけではないのです、音が薄い・重量感がない、他の楽器が少し力をいれるともういけません。丁度F1のレースの中にバイクが混じって走っている、そんな感じです。それでもギター協奏曲では曲がギターが目立つように巧みに組み立てられているのでなんとか成立します。

 やはりギターは独奏が一番似合う。たとえばフラメンコギターのように、クラッシックギターしか出来ない独自の表現を探し求めて進めば、それは小さい世界だが、大きい音楽世界が待っているのではないだろうか?そしてそこにギターの価値が見いだせるように思う。

チューニングメーター

 ギター界ではチューニングメーターが大流行り。プロギターリストと称するする人も使っているようだが、ステージ上で機械を見ながらチューニングしている光景は異様だ。これはプロの料理人がリトマス試験紙みたいなもので味を推し量っているのと同じで、「うん、試験紙が青く変色したからこれは旨いに違いない!」な〜んていって客に料理を出すようなもので、こんな風にして作られた料理なんか願い下げ!料理人が自分の舌を使って味見をしないでどうする!音を生業としている人間が耳を使わないでどうする!

 ギターは平均律で調弦するが、色々なポジションで調律すると合わない。あちらが立てばこちらが立たず・・・。

 例えば、4弦なり6弦なりポ〜ンと弾いて消える迄よく聞いてご覧あれ。これを1ヶ月なり半年なり続けてみると・・・あ〜ら不思議!耳が良くなること受け合い。この耳を持っている事が音楽家の基本です。

感動のいろいろ

 演奏において「感動」の要素は唯一無二のものではありません。いろいろな「感動が」あって、いろいろな人が様々な「感動」を期待して演奏会に足を運びます。「いい音」「ここち良いリズム」「的確な様式感・構築性」「常人離れした」「綺麗な洋服」「美しい顔」「カッコいい人」「立派なホール」・・・(これらもすべて十人十色ですが)。これらの要素のその人の持つ優先順位が感動を決定します。しかし、これら全てが無くても感動する要素があります。それは「夢中」でする演奏です。

 たとえば大勢の前で喋る時、多少国語力がなくても目を吊り上げて口から泡を飛ばして訴えれば、ある程度の人は感動するでしょう。でも、理路整然としていない話の内容は余り支持を得られませんし、一人よがりになってしまいがちでそれは醜いものになってしまいます。逆に計算した演奏はすぐ見破られ、感動はしません。

 知性(様式感・和声感等)を身につけ、感性(歌心・構築感等)の上に立ち自分を高い次元に置き夢中になって演奏すれば感動を与えられる演奏となるでしょう。音楽は聴くのではなく、感じるものなのですから・・・。

良い耳・悪い耳

 耳が良い・悪い、とよく話題に上がります。しかしこれはおかしい言い方で、実際は脳が認識しているかどうか、という事なのです。実際には鼓膜が振動して聞こえているのですが、脳が認識していないと「聞こえない」という状態に陥ります。例えば雑踏の中での「耳」はほとんど無音状態です。雑音はほとんど気にならないし、誰が何を言っているかも解りません。これが「耳が悪い」状態で、その時知っている声が聞こえてきたらよく聞こえます。「良い耳」です。

 ギターが上達するためのまず一番の要素は、自分の弾いている音が「聞こえて」いるかどうかです。しかし、弾いている時は頭で歌っているので、弾いていて聞こえているだろう実際の音を判断するのはとても難しいのです。録音した自分の演奏を聞くと間違いが気づき易いですが、これは客観的に聞いているからで、本当は演奏している時この「客観耳」があることが重要です。

心地よさと様式と・・

 和音を聞く時、メジャー/マイナー和音はそれぞれ「明るく・楽しく」「暗く・悲しく」聞こえるのはどうして?その理由は解らないけれど、言えることは「音の振動の組み合わせ」で感じる「濁り」ではないか。例えば、2つの同じ音ドとド(1度)を聞くときまったく「濁り」はない。人間がこれを聞くとき「美しい」とは感じることはないし「ド」と「ソ」を同時に弾いて(5度)これを聞くときまた「美しさ」を感じない。前者は振動数比が1対1で、後者も2対3で濁りがないのだ。ところが、「ド」「ミ」(3度)を同時に響かせると振動数比は4対5で少し濁っているのだが「綺麗に」聞こえる。要するに、2つの音の振動数比が簡単な比になっていると濁りがなく美しいと感じられず、複雑な比になるほど濁って美しく?聞こえる。ちなみに和声学では振動数比が1対1や2対3の和音を「むなしい響き」としています。

 問題はこれからで、「ド」と「ミ」(長3度)が明るく感じて、「ド」と「ミb」(短3度)が暗く感じるのはどうしてでしょう。この答えは音響生理学(こんな学問があるかはわかりません)の先生にまかせるとして、音の組み合わせによる「微妙な濁りの差」で「喜・怒・哀・楽」の人の感情を感じ取ることが出来るのは面白い。街並で建物の高さが丁度短3度比になっていてそこを歩くとき、ピューとビル風が吹いたら、暗い気持ちで歩くだろうし、建物の高さが長3度比だったらウキウキ気分か。

 「濁り」を「狂い」に変えてみると、「ビブラート」は美しいが、これは音を微妙に「狂わせて」いるのです。リズムというと、機械のように正確なリズムは退屈します。テンポは人の心臓の鼓動を基準にしていますが、緊張感のある表現をすればすこし速くなるし、心臓の鼓動より遅いテンポは安心感を感じます。パソコンで奏でる音楽に「感動しない」のは、全て機械的に正確だからなのです。このように人の耳は機械的に正確なものより、少しずれている方が心地よく響くのです。

 しかし大事なことは、演奏時に考え計算してこの「狂い」を表すようではダメで、感じて出来なくてはいけません。人間は興奮すれば強く・速くなるが、弛緩するときは弱く・遅くなる。柔らかいものと固いものを掴むときの指の力の入れようを本能的に変えているのと同じで、人間は「感情」を感じれば指がある程度表現してくれますから、まず「感じる」ことが優先するのです。決してこの「狂い・濁り」を計算してはいけません。

 さて音楽の「様式」について話題を移すと・・・例えばルネッサンス時代は「濁り・狂い」を排したピュアな和音・リズム等を求めていたようだし、「バロック」「クラッシック」「ローマン」「近代」「現代」と時代と推移するに従って、「濁り/狂い」を微妙にとりいれて来ています。「時代様式とは」を簡単に言うと「時代がどういう美しさを求めていたか」ではないでしょうか。ということは、音楽に於ける美しいと感じる心地よさ「濁り/狂い」は1種類ではなく時代によっても人間によっても違う、というになってきます。そしてこれら時代様式は、譜面とか他の芸術分野の仕事(絵画・建築)とか時代背景などから推測・想像することが出来ます。ひとつの時代の感覚のみで違う時代の音楽を演奏することは「再現」としては正しくありません。その時代の美しさを表現しなくてはいけないからです。しかし音楽は「個」の芸術としても存在しこれらとは他の全く別のところでも感動する要素を持っています。

練習と勉強

 左脳(新皮質)で覚えた理論や和声・様式等の知識を、右脳(旧皮質)で本能的・反射的に使えるように反復して身につける。

 演奏をしているときは考えてはいけない、身につけた右脳(旧皮質)のみの「無心」の状態で「感じ」なくてはいけない、ステージでは無心になることが肝要。練習をする時も考えてはいけません、考えるのはギターを弾いていない時。また理論を勉強するときも、覚えるのではなく感じ取ることが重要。そして右脳(旧皮質)を鍛えるには、物事に「感じ・感動」する心が大事である。

 私は演奏中のインスピレーションで、ビブラート・音質・間・運指、などを即興で変えて弾きます。ということで、演奏表現はその時1回きりのものです。これらは音響にずいぶん左右され、そしてよく失敗します。

PA(音響増幅装置・public-address system)について

 わたしは全然響かない広い会場で演奏をする時PAを使います。心得として、よく響く残響1.5秒くらいのホールをイメージしてエフェクター等を駆使して音を作ります。会場の広さにもよりますが、理想は生音70%スピーカー音30%くらいの割合で音量を調整します。つまりPAを残響音として利用する訳です。私のコンサートでPAを使ったことを気付かれたことはほとんどありません。プロの人達にもです。演奏する仕事を選ぶ身分ではないのですが、この比率が維持出来ない程の広い会場ではギターには不向きと考えています。

 若い頃スペインへ留学する時師匠から「彼の国で音の響きを聞いてきなさい。乾燥した気候の土地に石で出来た建物の中と、湿気のある日本の木と紙でできた建物の中での響きの違いを実感する事が大事」とアドヴァイスされました。スペインのとある大聖堂の中でド・ミ・ソの和音を弾いたときの驚き、この音の響きで曲が作られるのか、と驚嘆しました。もちろんすぐ係員に止められましたが・・・このときの音響が広い会場でPAを使うときの音のイメージの素になっています。

 広い会場でギターの生音のみが大きい音で聞こえる、というのは実は不自然なのです。遠くで鳴っている音が聞こえる場合、やまびこのように実音だけではなく残響音を含んだ音の方が自然に聞こえるのです。ですから広い会場ではエコー(残響音)をかけた音の方が自然に聞こえ、ただ音量をupしただけのPAの音は不自然に聞こえます。逆に狭い空間ではエコーのかかった音はぼやけてしまい心地よく聞こえません。

 本当は残響のない狭い会場で、しかも観客は20人くらいの前でいい演奏(音を出す)をするのが、ギターの本来の姿ではないかと思うし、私の目標とするところなのですが・・・。

奏法

 音響学的に遠達性のある音というのは、いってみれば「打撃音」です。パーカッション等が代表格ですが、ピアノなどもハンマーで弦を叩いているのでよく飛びます。ヴァイオリンなどの擦弦楽器は弦をこするスピードと鋭さで代替イメージします。

 さてギターですが一般に弾弦楽器と云われています。これを私なりに解説すると、弦をハジく、とでもいいましょうか、丁度弓で矢を射る時に糸を「パチン」とハジくように射るが、この行為が矢(音)をできるだけ遠くへ飛ばす行為のイメージです。これには指が弦に触れた瞬間を認識していることが重要です。

 まず指が弦に触れた瞬間を認識し、次に弦を引っ張る(実際は押す感覚)、そこからパチン、とハジく。この一連の作業を瞬時に行う。出来うる限り素速く。この作業は「弦を叩く」感覚に似ています。この奏法だとアルアイレ奏法(従来のアルアイレとは少し違うのですが・・)でも太い音が出せ、キャパ1000人のホールでも隅々まで音を飛ばす事が出来ます。

楽器について⇒⇒⇒

 倍音がそんなに多くない楽器のほうが遠達性があるようです。アポヤンド奏法の時コクッ、コクッという音がするのですが・・・。よくサスティーンが長い楽器が手元で音がよく伸び一見良く鳴る感じがするのですが、これは倍音が出過ぎている楽器で、音がぼやけていて遠達性はそんなにありません。考えてみるとサスティーンはほとんどホールが受け持つ役割なのです。